第7章 ヤマネ

(1)※

「わたしは眠ってなんかいなかったよ」と、ヤマネはかぼそいかすれ声で言いました。「あんたたちの話は、一言残らず聞いていたよ。」


『不思議の国のアリス』(ルイス・キャロル作、脇明子訳)


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 二十歳の頃の俺たちは、それぞれ違う方角を向いていた。


 レジィナはふさぎ込みがちになった。昔から読書好きだったが、それに拍車がかかり、空いている時間はずっと部屋にこもってテキストを読みふけっていた。表情が乏しくなり、あまり笑わなくなった。


 ハクトの奴は優等生街道を驀進していた。熱心に任務に励み、《バラート》上層部からの受けも良かった。将来は幹部になるのではないかと噂されるまでになっていた。

 《バラート》内で制度の変更があり、[工作員]のチーム制が廃止された。これまでみたいに決まったメンバーでチームを組み、チームごとの業績に点数をつけて順位を競う、ということはなくなった。

 だからハクトは、レジィナや俺と組む以外にも、色々な連中と組んで多数の任務をこなしていた。[泡沫夢幻オブリビオン]を使えるクローザーは貴重なので、奴はあちこちで引っぱりだこだった。


 そして俺は、身の内に常に渦巻くわけのわからない衝動を持て余し、任務のない間は夜の街をほっつき歩くようになっていた。俺の年頃のちんぴらがやるようなことは、たいていやった。穴倉ケイヴで踊り、酒を飲み、ギャンブルに手を出し、喧嘩をした。近づいてくる女も拒まなかった。

 たまに「俺は何をやってるんだろう」と我に返ることもあったが。堕落は甘く魅力的で、破戒への抵抗感をあっけなく押し流した。

 そんな状態でも追放されずに済んだのは、俺もハクトと同じぐらい《バラート》にとって貴重だったからだ。他の[工作員]のスクリプトを限定クオリファイできる力は珍しい。



「あんた、その髪型、全然似合ってないわ」


と、レジィナから何度も言われた。俺の頭のてっぺんから爪先まで批判的な目で見回し、頬をふくらませる。そんな彼女は子供の頃に戻ったように見えた。


「その服も変。いったいどこの資源再生工場から拾ってきたのよ?」




 そうは言っても、俺たち三人はたいてい一緒に任務をこなしていた。俺たちは能力のバランスもチームワークも良く、依然として《バラート》内では最強のチームだった。


 チュニジアで、人間中心主義を唱えるインチキ宗教団体を潰した後、レジィナが「せっかくここまで来たんだからランペドゥーザ島に寄りたいな」と言い出した。


「バカンスかよ」

「だって、どうせメッカまでの帰り道じゃない。あたし、きれいな海が見てみたい。あと、美味しいかじきまぐろペッシェ・スパーダも食べたいな」

「全然帰り道じゃねえよ。何言ってんだ」


 横から寄ってきたハクトがなだめるように俺の肩を叩いた。


「まあまあまあ、そう言いなや。仕事も予定よりよ片づいたし、のんびり戻ってもええんちゃうか。俺、船とホテルを手配するわ」


 ――ハクトの奴はレジィナに気を使っている。その気持ちは、俺にもわからなくはない。

 三か月前、レジィナの父親であり《バラート》の局長でもあるゲイブリエル・ロセッティ枢機卿は


 スクリプトが電脳にも効くかどうかを探る研究の大詰め。枢機卿は最終検証のため、自ら実験台に立ったのだ。

 [ダイモン]に接続されていない独立電脳スタンダロンの中でも世界最大・最速・最高性能の電脳を調達し、疑似的な電子的意識を発生させた。そして枢機卿は、その巨大電脳を相手にスクリプトの発動を試みた。使ったのは、相手の意識と同期し、思考をモニタリングするスクリプト[無生三昧イマージョン]だ。


 実験は成功だった。そして同時に、悲劇的な失敗でもあった。スクリプト発動と同時に、枢機卿は白目を剥いてくずおれ、昏睡状態に陥った。


 枢機卿は電子的意識との同期に成功した。同期がうまくいきすぎて、離脱できなくなった。枢機卿の意識は電脳空間に囚われた。

 ――そのことがわかったのは、独立電脳に接続したスピーカーから、気味悪いほど明瞭な枢機卿の声が流れ出してきた時のことだ。


 あれから三か月。ロセッティ枢機卿の体は依然として昏睡状態で、栄養点滴で命をつないでいる。一方、電脳に取り込まれた枢機卿の意識の方は絶好調だ。電脳に接続したセンサーで周囲の状況を把握し、スピーカーを通じて指示を出す。そんな状態でもほとんど支障なく《バラート》の局長の任をこなしている。そして「生けるサンプル」として学者たちに貴重なデータを提供し続けている。


 ロセッティ枢機卿は敵が多い人間なので、その数奇な運命に対して同情の声はあまり上がらなかった。

 枢機卿のネットワークへのログインIDは[ヤマネ(眠りネズミ)ドーマウス]だ。その名前通りの姿になってしまった皮肉を、せせら笑う者もいた。

 また、これまで大勢の女をもてあそんで泣かせてきた枢機卿が、電子的存在となって二度と生身の女に手を出せなくなったことを「当然の報いだ。天罰が下ったのだ」と評する連中もいた。



 そういった騒動をレジィナがどう感じていたのか、俺にはよくわからない。レジィナはもともと父親とはそれほど近しくなかった。

 けれども、電子の海から戻ってこられなくなった父親のことを、悲しんでいないはずはないだろう。

 ここ三か月、彼女の沈みぶりがひどくなっているのは確かだった。



 レジィナの気晴らしのためにと始まった寄り道だったのだが。島へ渡る船上、デッキから広々した海を見渡しながら、ロセッティ枢機卿の話題を最初に持ち出したのはレジィナ自身だった。


「ねえ。電脳の中にいるパーパは本当のパーパだと思う? パーパの心は電脳の中で生きてるのかな?」


 潮風が彼女の長い金髪を軽く揺らして吹きすぎる。

 議論好きなハクトがすかさずその問いかけに食いついた。


「そりゃあそうやろ。俺も何遍か話したことあるけど、昔のこともよぉ覚えてはるし、しゃべり方も判断の方向もいつもと同じ。完全に局長ディレットーレやった。……人間の心は思考の傾向と記憶の集合体や。つまりは、パターンとデータ。電子的に完全に再現可能や。局長は自分の心を丸ごと電脳にアップロードしはったんやろ。せやから、あの電脳の中に局長自身がいてはると言っても過言やない」

「でも、心と体が別々に存在するなんて、あり得るのかな? あたしは……本当のパーパの心は体の中で眠ってるんだと思う。電脳の中にあるのは、本物のパーパの心のコピーなのよ」

「うーん。それは、局長が目を覚ましはった時にわかることやな。局長が目を覚ましても、電脳の中の局長はそのまま残るのか。それとも電脳から体へ戻るのか。……電脳の中にあるのが本物の局長の心なら、体が目を覚ました時に体へ戻るやろう。電脳の中にあるのが心のコピーなら、体が目を覚ましても関係なしで、電脳の中に残るやろう。だって体の中には本物の心があるんやから」

「じゃあ、パーパの体が死んだらどうなるの? たぶんそっちの方が可能性高いよ? パーパの体が死んでも電脳の中のパーパの心が残ったら……それは、電脳の中にあるパーパの心が本物だから? それともコピーだから?」


 この二人は昔から、放っておくと机上の空論をとめどなくこねくり回し続けるのだ。同じ本を読めば、それについて何時間も熱心に語り合う。文学、歴史、哲学はこいつらの大好物だ。

 だが、人の生き死には、概念遊びのネタにして楽しむものじゃねえだろう。

 俺はロセッティ枢機卿が大嫌いだが、それでもこういう「議論のための議論」に使われているのは聞いていて不快だった。多少乱暴な口調で、二人のさえずりを遮った。


「そんな議論に意味があんのかよ。本物かコピーかなんて。確かめる方法もねえのに」


 レジィナが妙に据わった目を俺に向けた。


「じゃあ、あんたはどう思うの。心は体と離れて存在できると思う?」


 ――面倒くさい話題に巻き込まれた。ハクトまで赤い目を輝かせて、俺の答えを待つ態勢になっている。

 何か言わなければ場が収まらない雰囲気だった。気は進まなかったが、俺は口を開いた。


「心は体と切り離せないものだろ。心と体が一つに合わさって、人間なんだ。……ダンテ六芒聖教レジィナの宗派でも霊魂不滅を唱えてるはずだ。人の魂は何度も生まれ変わる。神からまっさらな体と心を借りてこの世に生まれ、死ぬ時はそれを神に返す。魂はそのプロセスを無限に繰り返し、天上界に近づいていく。体と心はワンセットで神から貸し出されるんだ。体を神に返したのに、心だけこの世に残るなんてことはあり得ねえ」

「うわー。おまえが教義の話すんの、めっちゃ新鮮やなー」


 ハクトが上機嫌で茶化した。だがレジィナは、鼻の頭にとまったハチを見つめるブルドッグのように難しい表情のままだった。


「あの電脳の中にいるのは、確かにパーパよ。目をつぶって話していると、まるで本当にすぐそこにパーパが座ってるみたいな気がするもの。あたしはパーパの怒らせ方を知ってるんだけど、それをやったらちゃんとカッとなって怒鳴ってきたわ、いつも通りに。感情があるのよ。ただのデータの集合体じゃない。……でもね。でも、ときどき……パーパじゃない、何か得体の知れない物と話しているような気がするの」



 ランペドゥーザ島に到着してからの俺たちは、バカンスを楽しむことに没頭した。船が宙に浮いているように見える透明度の高い海に歓声を上げた。とびきり美味い海鮮料理を平らげた。やたら階段の多い町を駆けめぐった。小洒落たホテルの部屋の窓から、エメラルドグリーンの海と純白の砂浜を見渡した。


 ハクトが本部メッカに電話連絡を入れに行っている間、レジィナがテーブル越しに身を乗り出してきた。


「ホテルの前のビーチで、毎晩『砂上夜会』が開かれてるんだって。生バンドの演奏で社交ダンスをするの。会場は砂の上だから、夜会といってもドレスコードはないそうよ。ねえ、二人で一緒に行かない?」


 俺は顔をしかめた。


「俺は社交ダンスなんかできねえぞ」

「大丈夫よ。同じパターンの繰り返しだもの。あんたならすぐ覚えられるわ」

「ハクトを連れてきゃいいだろ。夜なら、日光に弱いあいつでもビーチに出られる」


 するとレジィナの双眸に怒りの稲妻がひらめいた。肩をいからせ、小さな拳でテーブルをどんと殴りつけた。


「あんたはどうしていつも『ハクトを誘え』って言うのよ! あたしはあんたを誘ってるのに!」


 ――それは、ハクトの方が俺よりはるかに、おまえのことを想ってるからだ。

 好き勝手に穢れた生活を送ってる俺と違って、あいつは五歳の頃から十五年間、おまえに対して一途だからだ。

 女はそういうことに敏感な生き物じゃねえのか。おまえこそ、なんでわからない?


 

 ハクトにダンスなんかさせたら手足をもつらせて転ぶだけよ、とレジィナは言い切った。ひどい言い草だ。だが、弁護してやれない。確かに奴の運動神経はあり得ないほど悪い。

 電話を終えて戻ってきたハクトに「社交ダンスをしに行くか」と尋ねたら、「無理! 無理や、そんなもん。おまえら二人で行って来いや」とあっさり断られた。


 夕陽が西の海を毒々しい紅に染めて没した後。俺はレジィナとビーチへ出た。思い思いの服装の男女が楽団の演奏に合わせて白い砂の上で踊っていた。とは言っても、そのステップはよたよただ。水気を含んで重い砂は、足にからみついて動きを鈍らせる。もがいているようにしか見えなかった。

 たぶん、潮風を浴び、大海原の絶景を眺めながらダンスの真似事をすることに意義があるんだろう。


 あたし、この曲好きよ、とレジィナが言った。


 俺の腕の中の彼女は羽のように軽かった。こいつこんなに軽かったのか、と胸を衝かれた。

 香水をつけていない彼女からは石鹸の匂いがした。

 彼女の背中に回した俺の手の甲を、絹のような感触の髪がくすぐる。それを感じているうち、むやみやたらとわめきながら海へ駆け込みたいという強烈な衝動が湧き起こってきた。






 今から思い返すと。

 その日が、本気ではしゃいでいるレジィナを見た最後の日だった。

 俺たち三人が屈託なく笑い合った最後の日だった。

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