第6章 アオムシ
(1)
アオムシはキノコの上からはいおりると、「片端は大きくし、もう片端は小さくする」とだけ言って、草むらのなかへとはっていきました。
『不思議の国のアリス』(ルイス・キャロル作、脇明子訳)
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――ずっとこのままでも構わないんじゃないのか。
そんなことを考え始めている自分に気づき、ぞっとした。
《ローズ・ペインターズ同盟》に入団し、順調に出世している俺は「幹部手当」として多額の金を教団から受け取った。半年以上は楽に食っていけるだけの金額だ。それがこれからも毎月支給されるという。
「ティリーの正体をつきとめるために教団に潜入する」というのが当初の目的だったが。
もうそんな目的は放棄して、普通に幹部として在籍し続けてもいいんじゃないか。正体など気にせず、このままティリーと暮らし続けてもいいんじゃないか。
うっかり、そんな気の迷いを起こしかけた。
初めは、ガキの面倒を見させられるなんてまっぴらだ、という反感が先に立ち、ティリーから逃げることしか考えていなかったが。この不思議なほど手のかからない子供に慣れることは、実に簡単だった。おとなしい。口をきかない。留守番もさせておける。
おまけに一緒に暮らしているうち、次第に表情が豊かになってきた。
初めは人形のように無表情だったのが、最近は微笑んでいることが多い。うっすらとだが。青い瞳に無言の信頼と愛情を乗せて、じっと俺を見上げてくる。
「一緒にいられて幸せだ」とその明るいまなざしが語っている。
こいつがここにいて幸せなのなら、ずっといさせてやってもいいんじゃないか。帰りたがっていない場所へ無理に帰そうとするよりも。
だが、俺に支払われる大金は、《同盟》が汚い手段を使って信者たちからまき上げた金だ。LCのスクリプトで信者たちを洗脳し、自由意思を失わせてむしり取った金だ。
そんな金を喜んで使うほど、俺はまだ
情報屋として犯罪者を助けたことは何度かあるが、それとこれとは話が違う。
それに、《バラート》に居所をつきとめられたからには、俺のなすべきことは逃走だ。今はまだ「共闘」という建前を取っているので、ハクトもすぐには攻撃してこないだろうが、そんな休戦も長くは続かない。
幼い子供を連れて歩ける立場ではないのだ。
ティリーをさっさと帰るべき場所へ帰し、俺は姿をくらまさなくては。
――誰かが、ドアをノックした。
俺の部屋を訪ねてくる人間は限られている。そのどれも朝っぱらからやって来るような連中じゃない。大家かもしれない、と思いながらドアを開けてみると、外に立っているのは十七、八歳の少女だった。
知らない顔だ。だがド派手なピンク色の長髪には見覚えがある。
「何ぼーっとしてんのよぉ、《
キンキンと頭に響くかん高い声は確かにLCのものだった。
だが俺は猛烈な違和感を覚えていた。どぎつい化粧を落とし、襟元の詰まった地味な服を着たこいつは、まるで普通の学生だ。おとなしそうにさえ見える。毎朝早起きして自分の弁当を作るようなタイプだ。
「教団幹部になったら、信者から巻き上げた金を使い放題」と哄笑していたあばずれと同一人物とは思えない。外見だけは。
「寝起きを襲ってやろうと思ってたのにー。意外と早起きなんだなぁ、つまんなーい」
「何の用だ」
「中に入れてよぉ。《
「断る」
俺は背後の気配が気になった。ティリーはまだ寝室で眠っているはずだ。LCとティリーは間違いなくお互いに面識があるだろうが、今の時点で二人を対面させてよいのかどうか判断がつかない。
LCは背伸びをして、俺の肩ごしに室内をのぞき込もうとする仕草を見せた。その拍子に、少女と俺との距離が急に縮まった。――今日はあの強烈な香水をつけていないのか。
部屋中に散乱している巨大なぬいぐるみやレース付きのクッションを、LCは目にしたらしい。
「なーんだ。女がいるのかぁ」
あからさまに落胆した口調で吐き捨てた。――まあ女といえば女だよな。ガキだが。
話があるからつき合って、と少女は俺を外へ誘い、俺は承諾した。誰にも邪魔されずハートの幹部と言葉を交わせる機会は貴重だ。数年ごしの泥や埃が隅にこびりついた湿っぽい階段を降りると、建物の外には雨の街が広がっていた。さああああっ、という軽やかな雨音が世界を塗りこめている。
LCは俺を見上げ、媚びるように微笑んだ。
「入れてよぉ。傘持ってないんだ」
そんなわけねえだろう、と俺は相手のまったく濡れた気配のない服を見下ろす。雨は俺が目覚めた時からずっと降っていた。LCは雨の中、このアパートまでやって来たはずだ。
だが確かにその手に傘は握られていない。
俺たちは一つの傘の下、身を寄せ合うようにして雨中に歩み出た。LCはどこへ向かうか決めていないようだったが、俺は最寄りの駅の方向へ歩を進めた。
舗道には人も動物もほとんどいない。出勤するには早すぎる時刻だし、動物どもは雨が嫌いだ。
四十二番街はうらぶれた安オフィス街で、正体不明の数々の事業所がもっともらしい看板で覇を競っている。建物が古い割に、看板はどれも新しい。長続きする事業所が少なく、ビルのテナントが頻繁に変わるせいだ。
「今日は、こないだ助けてもらったお礼を言いに来たの」
傘の作る小空間にLCの声が軽く反響した。いつもの、わざとらしく語尾を伸ばすしゃべり方ではない。おとなしい口調だ。
「ありがとう。嬉しかった。本当に本当に嬉しかった」
俺はなんとなく顔をそむけずにいられなかった。
「礼なんか言わなくていい。けだものを止めるのは、人間として当然のことだ」
「あたし、あまり人に守ってもらったことないの。みんな、あたしのこと『強い子』だと思ってるからさ。まあ確かに強いんだけど。誰もあたしを心配してくれないの。だから……普通の女の子みたいに守ってもらえるって……すごく新鮮で、嬉しかった」
「そう言えばおまえ、スクリプトを使えばサーフェリーの脳味噌を一瞬でぐしゃぐしゃにできるんだろう? なんで、あの時そうしなかった?」
「あたしの[
誰にも内緒だよぉ、と片目をつぶってみせる。
――そう言えばカリカード公会堂での集会の後、スナーク博士が「ハートのジャックの準備ができるまで、私が無駄話をして時間を稼いだ」と話していた。LCには、スクリプトをタイムリーに発動する技能がないんだろう。
水のカーテンが俺たちの眼前で揺らめく。道路に無数の雨粒がはね返る。
LCがやたら寄りかかってくるせいで、歩きにくい。
「……おまえはスクリプトの使い方を、誰に教わった?」
LCが物理的な距離を詰めてくるのは、心理的な距離も縮まっているためだと判断。俺は突っ込んだ質問をそっと風に乗せる。
少女はあっけらかんと答えた。
「ママよ。ママが教えてくれた。……っていうか、あんな奴、『ママ』なんて呼びたくもねぇっての。あのイカレ女。自分のこと大好きすぎて、頭がおかしくなっちゃってるんだ」
突然興奮状態に陥ったLCは激しい剣幕でまくし立て始めた。
「ひどいんだよねぇ、妄想癖が……街で男とちょっと視線が合っただけで『あの人ボクを見つめてた♡』だもん。行きつけの店の店員は全員自分に気があると信じてるし。おまけに、あたしの彼氏はみんな、本当は母親狙いであたしとつき合ってるんだ、って言うんだよぉ。あたしはただの当て馬だ、って。『ごめんねえ、LCちゃん。ボクだって君の大好きな人たちを奪いたくはないんだよ。勝手に男を惹きつけてしまうボクの体質のせいで……』って、本気で泣くんだもん。もうどうすりゃいいのって感じでしょぉ?」
「あー……一発殴ってやってもいいかもしれねえな、そういう親は」
「叩いたって無駄なんだよぉ。悲劇のヒロインになりきるから、かえって面倒くさい。……だからあたし、家を出たんだぁ。『エース』が本部に住んでもいいよって言ってくれたしぃ」
「《
「……!」
LCが足を止めた。はっきりと、体ごと、俺に向き直った。
「ずいぶん踏み込んでくるじゃん、リデル?
単語がねっとりとからみつく。上目遣いのまなざしが剣呑な光を帯びる。半開きのやわらかそうな唇を、これ見よがしに舌が伝っていく。そこから漏れる吐息さえ届きそうだ。
不意打ちのような唐突さで、俺は強く意識した。すぐそこにある、冷えた服地に包まれた熱い肉体の存在を。
崖っぷちに立たされたような気がした。足元で底知れぬ深淵が口を開けている。
「そうかもな」
俺は相手から視線をそらさず、即答した。――この程度で追いつめられるほど若くはないのだ。
LCがベテラン娼婦のようなあだっぽい笑みを浮かべた。メイクで顔を隠している時より、すっぴんの方が妙になまめかしい。
「『エース』はあたしのパパじゃない。そうだったらよかったのに、と思うけど。あたしにはパパはいないの。『エース』はあたしが六歳の時、初めてあたしとママのもとへ来て……それ以来ずっと一緒にいるんだぁ。
あたしのことを心配してくれるのは『エース』だけ。あたしをわかってくれるのも。
人はみんな、何かを目当てにあたしに近づいてくる。あたしのカラダだったり、スクリプトの力だったり。それを利用したいだけで、誰もあたしの気持ちなんか気にかけてくれない。ママだって、そう。でも『エース』だけは違うんだぁ。いつも『大丈夫ですか? 無理しなくていいんですよ』って言ってくれる。あたしの気持ちを考えてくれてるんだよ。だから、あたしはがんばれる。『エース』のためだったら、どんな無理でもしちゃうよぉ」
とてつもない既視感に打ちのめされた。胸がずきっと痛む。俺は顔をしかめた。眼前を、吐き気を催すほど鮮やかなヒマワリの黄色が乱舞した。
“大丈夫。あんたがあたしに『大丈夫か?』って訊いてくれるなら、いつでもずっと大丈夫――。”
「『誰かのために』なんて思わねえ方がいいぞ。大丈夫じゃない時は、はっきりそう言った方がいい。我慢は美徳じゃねえんだ」
「うん。……でもさぁリデル、女の子ってね、意外と強いんだよぉ。男なんかより、よっぽど強い。大事な人のためなら絶対に折れないんだからぁ」
目の前に駅が近づいてきた。黒く濡れてそびえ立つ駅舎から、そろそろ増え始めた通勤者がとめどなく吐き出されていた。雨は強くなる一方だった。
少女の表情が
「ねぇ。まさか、このまま帰れなんて言わないよねぇ?」
「その『まさか』だ。もう帰れ。俺は忙しい」
「助けてくれたお礼に……何でも、あんたのしてほしいこと一つしてあげる。あんた画家なんでしょ? あたし、モデルやったげる。ヌードでもいいよぉ。どう?」
「モデルをなめるな。本気で人物画を描くんだったら、プロのモデルに頼む。おまえ何十分もポーズを取ってじっとしてられるのか?」
「してられないかもだけどぉ……そん時は、別のことすりゃいいじゃん?」
へへっと笑われて、俺は大きくため息をついた。
さっきからLCが柔らかいものをやたら俺の腕に当ててきている。明らかに意図的な動きだ。
細身に似合わず、LCの胸はボリュームがある。それは先日この目でも見て知っている。
しかし、ぽっかり開いた二つの傷口のような、深い哀しみをたたえてこちらを見上げていた涙目も同時に思い出すから――まったくと言っていいほど、妙な気になれない。
「何でもしてくれる、ってんなら一つ頼みがある。何も訊かずに俺の質問に答えてくれ」
「……?」
LCは戸惑った様子で、微笑みを消して真剣なまなざしで俺を見上げた。
触れ合う腕。「視線がからみ合う」と言ってもいいほどの確固たるアイコンタクト。条件は完璧だ。
「ティリーっていう五歳ぐらいのガキを知ってるか。そいつは何者なんだ?」
target=('duchess')
run ('looking_glass')
問いかけと同時に、俺は[
LCが小首をかしげた。その拍子に首筋をさらりと流れる髪の感触を、俺は我がものとして感じた。
相手の五感と同期した。とたんに、多数の痛みが全身で存在を主張し始める。皮膚表面の傷のぴりぴりする痛み、股関節の鈍痛。――どういうことだ。こいつ、傷だらけじゃねえか。
「……ティリーは、心のない子。かわいそうな子。カゴの鳥」
歌うように、LCがつぶやいた。視線を泳がせる。その視覚情報をモニタリングしている俺には、LCが何かを――誰かを探して目を凝らしていることがわかった。
「《♡Q》(ハートのクイーン)。教祖マキヤ・アスドクールの末娘。死んでるように生きてるの。宮殿の庭園の隅っこにある、綺麗に飾りつけられた牢屋で」
LCの視線が、かなり遠くにあるピンク色の傘の上で止まった。レースの縁取りのついた少女趣味な傘。
――男の子も、女の子も、遊びに出よう
月が明るく、まるで昼のよう
ご飯も寝るのも後回し
通りで遊び仲間が待ってるよう
雨に向かって古い童謡を口ずさんだ。傘から目を離さないまま。
「だから、あたしが牢屋の鍵を開けてあげたんだぁ。外へ遊びに出られるように。永久に閉じ込められたままなんて、かわいそうじゃん?」
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