第3章 公爵夫人

(1)※

 公爵夫人は言いました。

「そのことの教訓は何かというと、『見てほしいとおりのものになれ』ってことさ。もっと簡単なほうがよかったら、『自分が他人の目に見えるのとは異なるものではないと思ってはならないのはあなたが何でありまた何でありえたかと異なることなくこれまで何であったかが他人にはそうではなく見えているかもしれないことと異なりはしない』と言ってもいいがね。」


『不思議の国のアリス』(ルイス・キャロル作、脇明子訳)


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 十六歳の頃。俺は、黒のタキシードで男装を決めているレジィナを見るのが好きだった。そう口に出したことはなかったが。


 その頃の俺たちはアルプス山麓の[工作員]養成所を卒業し、《バラート》の実戦部隊として世界各地で任務にあたっていた。

 [ダイモン]の定めたルールを破っている疑いのある団体、あるいは、人間中心主義を声高に唱える宗教団体に潜入して、内部を探る。調査の結果「クロ」だとわかれば、その団体を壊滅させる。

 それが、俺たちのやっていたことだった。


 その最終段階、ターゲットの団体に乗り込んで実力行使に出る際には、「正装して赴くこと」というのが《バラート》内の規則だった。神の手足となってそのご意志を遂行するのだから、襟を正して臨むべきだ、とかいう理由だ。

 くだらねえ、と俺自身はそのドレスコードをほとんど守っていなかったが。

 レジィナが長い髪を清楚な三つ編みにまとめ、男物のタキシードを着ている姿は悪くないと思った。ごつい服は彼女の細身を際立てた。鮮やかなブロンドが禁欲的な黒の布地によく映えていた。


 「正装」という指定に、たいていの女はドレスを選んだ。公費でめかし込むための口実にしている連中も多かった。そんな同僚の様子を、


「ドレスにヒールなんて。いざというとき動きにくいじゃない」


と一笑に付しつつ、それでもルールを完全に無視することはしない。そこがレジィナらしいところだった。




 磨き込まれた彼女のストレートチップシューズが、石ころだらけの乾いた地面を快調なペースで進んでいく。ハイヒールだったなら、確かにこんなに速くは歩けなかっただろう。

 西ベンガル地区のラッシュプールという小さな町。月も星もない夜空の下、背の低い建物群がうずくまっていた。

 俺たちの目指す施設は、一見農場風の広い敷地に囲まれた三階建てだった。

 前世紀の型式の発電用風車が何十本も墓碑のように林立する、妙な圧迫感を漂わせた建物だった。


「……じゃあ次のクイズいくわよ。ジャングルの奥で、あんたの恋人が人食い虎にさらわれました。虎はこう言いました。『これから私が何をするか当ててみろ。当てられたら、この女を助けてやる。当てられなかったら、私は女を食べる』。さあ、あんたは恋人を助けるために、何て答えるのが正解?」


 俺は一瞬だけ考えた。


「『さっさと女を離せ。でないとぶっ殺す』」

「ちーがーうっ! そういうクイズじゃないの、これは。ちゃんと虎の言うことに答えてよ」

「七十五口径無反動銃ペルディトールで額を撃ち抜けば、虎だって一発だ」

「言葉で! 解決するのっ。言葉で!」


 俺たちの一歩後ろを歩いていたハクトが「正解は『おまえは女を食う』や」と、すらりと答えた。


「虎が女を食うつもりやったんなら、こっちがそれを当てたので、虎は女を食うたらあかんことになる。虎が女を食わへんつもりやったんなら、こっちが予想を外したので、虎は女を食うてもかまへん。せやけど、虎がそれで女を食うたら、結局こっちの予想が正しかったことになる。堂々めぐりや。虎は女を食うことも、食わへんこともできへん。……そうやって自己矛盾に落とし込んで、虎の動きを封じたらええんや」

「もう! なんで答えを言っちゃうのよ! ハクトのばか!」


 レジィナは足を止めて振り返り、拳でハクトのタキシードの肩を殴りつけた。


「あんたが答え知ってるのは当然でしょ。同じ本を読んだんだから!」


 大して強い力でもないようだったが、殴られたハクトは痛そうな顔をした。


 この二人を「お似合い」だと感じるのは、こういうときだ。ハクトとレジィナには共通点が多い。レジィナは大の本好きで、暇さえあれば図書室に入りびたってテキストをむさぼっている。ガキの頃から、日光に弱いせいで外遊びができないハクトも図書室の常連だった。二人はよく本の話題で盛り上がっていた。


 ――警備の厳しい秘密研究所に乗り込むにしては、俺たちはのんきすぎる。

 俺たちの進む先にある建物はバンダースナッチ研究所といって、六十二歳を過ぎた年寄りに医療を提供している非合法組織だ。

 この手の組織は世界に後を絶たない。需要量が圧倒的だからだ。多額の金が動くことから、犯罪組織と結びついているケースも多い。


 案の定、俺たちが塀を乗り越えて敷地に入ると、敷地内を巡回していたらしい二人の警備員が駆けつけてきた。誰何もせず、いきなり銃を抜いた。俺たちの傍らを弾丸が通過した。

 問答無用ってわけか。まあ、そういう施設であることはすでに調べがついていたが。


 レジィナは何も言わなかった。ただ、ちらりと、横目で俺の様子を確認しただけだった。

 合図は要らない。俺は、彼女が何をしようとしているか承知しているし、そのタイミングも読み取れる。


illegal script detected ('all_nagate')

id ('regina')


 レジィナがスクリプト[因果律否定オールネゲート]を発動させるのと、


qualify target=('all_nagate')

 id=('regina')

  attribute=('gravity')

  scope=all('exception: self, white_rabbit)


 俺が彼女のスクリプトを限定クオリファイするのはほぼ同時だった。


 《バラート》に登録されている中で最も強力で凶悪なスクリプト。レジィナの[因果律否定オールネゲート]は、半径二十五メートル以内の[認識野エンベロープ]におけるすべての物理原則を否定する。

 これを喰らった人間は、光と重力が消失し、周囲の空気がなくなり、続いて自らを構成するすべての分子の化学結合が解け、原子が分解するのを――体細胞の一つ一つが霧散するのを感じながら、一瞬・無限大の苦痛の中で死を知覚する。

 スクリプトで攻撃されたからといって実際に体細胞が粉々になるわけではないが。

 人間の脳は生々しい死の知覚に耐えられない。

 極度のストレスによる脳内出血か心臓発作。運が良ければ精神崩壊。それが、[因果律否定]をまともに喰らった人間の末路だ。


 レジィナ自身は自分のスクリプトを細かく制御できないので、下手をするとスクリプト発動のたびに大量殺戮を引き起こすことになる。

 そこで俺の出番だ。

 俺は他人のスクリプトを限定クオリファイできる。例えば今回のように、レジィナのスクリプトの属性を重力グラビティに限定してやれば、それを受けた人間は重力の消失のみを知覚する。立っていられなくなり地べたを転がり回る。


 敵をすっ転ばせるぐらいなら、片手片足を収縮させる俺の[イージー・コントラクション]と大差ない結果だとも言えるが。

 レジィナが人を傷つけることを良しとしないので仕方ない。

 俺はレジィナ・キアーベという名の最終兵器の殺傷力を削ぐ安全装置なのだ。


 警備員たちが「何だこりゃあっ」という悲鳴のような叫びをあげながら崩れ落ちた。俺は撃たれかけた恨みをこめて奴らを一発ずつ蹴りつけ、その手から銃を取り上げた。


 俺たち三人は研究所の建物に踏み込んだ。

 もう俺たちの邪魔をする奴は誰もいない。レジィナから半径二十五メートル以内の敵は全員、重力の消失を知覚して戦闘不能になっていたからだ。研究所の職員や警備員はみな床に転がり、うらめしそうな目で俺たちを睨んでいた。


 レジィナと俺は研究所の資料と機材を跡形もなく破壊する役回りだった。[ダイモン]と接続されていない独立電脳スタンダロンを発見したので、三階まで持って上がり、窓から投げ落として破壊した。紙の資料はすべて戸外へ持ち出し、地べたに積み上げて、火をかけた。


「この野蛮人どもめ」

「恥を知れ」


 立ち上がれない職員たちの憎々しげな罵声が、俺たちを追ってくる。


 しかし、本当の意味で野蛮な仕事をしていたのは俺たちじゃない――ハクトだ。

 作業中も俺の[仮想野スパイムビュー]を次々とアラートがよぎり、ハクトが建物のどこかでスクリプトを使っていることを示していた。

 研究所に勤める科学者全員の記憶を[泡沫夢幻オブリビオン]で消去し、研究の内容をこの世から葬る、というのがハクトの受けている指令だ。

 科学者にとっては最も過酷な刑罰だ。一生かけて築き上げてきた知識と理論を根こそぎ奪われてしまうのだから。唯一の救いは、[泡沫夢幻オブリビオン]によって頭の中身も丸ごとゼロリセットされるので、失われた研究を嘆くだけの知性も残らずに済む、ということだ。

 《バラート》のお偉方は口癖のように「完全な忘却は祝福の一種だ」などと言う。それはある意味真理だ。神の祝福は必ずしも人の望みと一致しない、という点でも。




 夜明け近く。かつてバンダースナッチ研究所だった建物を出た俺たちは徒歩で最寄りの駅へ向かった。ひとけのない町を通過しながら、ハクトもレジィナも無駄にはしゃいでいた。任務が終わった後はたいていそうだ。気楽に見せかけてはいても、任務中はそれなりに緊張しているんだろう。


「これで今期の任務成功、五件目か。やっとピージョン律師のチームを抜いたな」


 ハクトが上機嫌でつぶやく。レジィナが澄んだ声を張り上げた。


「え! じゃあ、今ユーラシア圏内であたしたちがトップだってこと!?」

「せや。この調子やと俺らのチーム、三期連続でユーラシアトップも夢やないな。うまくするとグローバルトップも狙えるかもしれん」

「ようっし! もっともっと頑張るぞー!」


 笑いながら拳をぶつけ合っている二人に、俺は不満を口にせずはいられなかった。


「そんな簡単に『もっともっと』とか言うんじゃねえよ。おまえらはいちばん最後の決着クロージングの時に出張るだけだからいいが……俺は毎回、潜入と調査に何日もかけてんだからな。下手すると何週間も、だ。そんなに次から次へと任務をこなせるか」

「わかっとるってー。俺らの成績がいいのはおまえの調査能力のおかげや。相手に情報を喋らせることにかけては、おまえの右に出るもんはおらんからな。……そのむすっとした不愛想な面を見てると、相手は喋らずにいられなくなるんや。何とかしてその眉間の皺を解きたい、って思うんかな」

「不愛想で悪かったな」


 頼りにしてるで、と本気らしく言いながら、ハクトが俺の肩に腕を回してきた。

 だがハクトの存在は、急速に俺の意識の中でかすみ、遠のいた。レジィナが俺の指先をそっと握りしめてきたからだ。


「ねえ。あたしたちって最高のチームだよね。無敵だよね。……いざという時は言葉にしなくても通じ合えるんだもの。こんな完璧な連携、他には絶対ない。きっと神様が組み合わせてくれたんだわ」


 何かを伝えようとするかのように、レジィナの手に力がこもる。


「最高だよね、。……ねえ、そう思わない?」




 ――もしあの時、彼女の手を握り返していれば、もっと違う結末が待っていたのかもしれない。


 だが当時の俺は、自分のちっぽけなプライドを守るのに精一杯のクソガキだった。背伸びして己を大きく見せることしか頭になかった。

 [泡沫夢幻オブリビオン]を使えるハクト。《バラート》最強と謳われるスクリプトを持つレジィナ。その二人に比べれば俺の力なんてしょぼいものだ。相手の手足を縮めたり、知覚を乗っ取ったり。同僚のスクリプトを上書きしたり。決定力に欠けている。

 俺は、三人組の中で自分だけが補助役だというコンプレックスで一杯だった。

 そして、それを表に出さないよう懸命に努力していた。


 だからレジィナの祈りにも似た言葉を、俺は聞き流したのだ。

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