第8章 チェシャ猫

(1)

「ねえ、そんなにパッと消えたり出てきたりしないでもらえないかしら? 頭がくらくらしちゃうわ」

「わかった」と、ネコは言いました。そして今度は、尻尾のほうからはじめて、ゆっくりゆっくりと消えていき、しまいにはにやにや笑いだけが残って、しばらく枝の上に浮かんでいました。


『不思議の国のアリス』(ルイス・キャロル作、脇明子訳)



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 ティリーの大きな目がまたたきもせず俺を見上げる。幼児だけが持つ、曇りなく澄んだ瞳だ。


 しかしその瞳の奥には異形の器官たる[冗長大脳皮質リダンダント]が人知れず発達していて、レアなスクリプトである[無生三昧イマージョン]を、かつての《バラート》の最高責任者よりも強力に使いこなせるのだ。

 ティリーを何度コルカタ市警に預けても、あっさり抜け出してこられた理由がわかった。

 人の意識を操れるこいつなら、どんな望みでも簡単にかなえられるだろう。


 幸いまだ、この子供は俺にスクリプトを使おうとしてはこないが。

 俺がこいつを手放そうとしても、それをスクリプトで阻止される日が来るのではないか。




 うすら寒い戦慄をこらえつつ、俺はいつものように女児の手を引いて乗合馬車に乗り込む。

 《♠9》に降格したグリニング・タイガーから、スナーク博士経由でチェシャーサーカスの入場券が届けられたのだ。


 ハリデブプールという旧地名で呼ばれる界隈。ごみごみした通りを抜けると不意に視界が開け、かなり大きな遊園地が眼前に現れた。派手な原色に塗りたくられたもろもろの遊具が青空を背景にいびつな姿をさらしている。

 最寄りの停留所で馬車を降りて近づくと、遊園地の西端の空地に天幕群がそびえ立っていた。そこがチェシャーサーカスの公演会場だった。時代が変わっても、サーカスといえば天幕、というのは数百年来変わらない伝統だ。

 天幕の周囲は親子連れなどで一杯だった。食べ物やサーカスのグッズを売る屋台が軒を連ねている。ガキどものかん高い歓声が響きわたる。


 どうやらタイガーの送ってきた入場券は特別なものだったらしい。入口でチケットを示すと、係員がわざわざ窓口から出てきて、俺たちをVIP専用らしい席へ案内した。最前列の、柱に遮られずショーを真正面から見られる特等席だ。

 会場内はほぼ満員だった。期待に満ちたざわめきが天井に反響していた。


 座席に収まったティリーは、しきりと周囲を見回している。表情はほとんど動かないままだが、こいつなりに興奮して、目を輝かせていることがわかる。


 まもなくショーが始まった。

 舞台の真ん中に、オレンジ色の着ぐるみに包まれた人物が現れた。

 たぶん、虎の恰好だ。だがリアルさは重視していないようだ。とぼけた丸い瞳に、本物の虎ではあり得ないほど太い眉毛。デフォルメされた体の模様。そもそも軽やかに二足歩行しているしな。


「チェシャーサーカスへようこそ! 僕がこのチェシャーサーカスの座長、グリニング・タイガーなのニャー!」


 聞き覚えのある男の声が場内に響きわたった。

 同時に巻き起こる大きな拍手。人気者だと自称していたのは伊達ではないようだ。


「コルカタのみんなとは半年ぶりだニャ。僕らは海を越えて、遠いアメリカ大陸まで巡業に行ってきたんだ。今日はこんなにたくさんお客さんが集まってくれて、僕はとっても嬉しいニャー!」

「こらぁっ、タイガー! 勝手にショーを始めるな! 誰が座長だ!」


 芝居がかった怒りの声をあげながら、白シャツに蝶ネクタイといういでたちの小柄な中年男が舞台に駆け込んできた。タイガーは両腕を頭上へまっすぐ突き上げ、驚きを表現した。


「まずいっ! 本物の座長が来ちゃったニャ。僕は隠れニャきゃ!」


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 俺の[仮想野]で輝くアラートが、タイガーがスクリプトを発動させたことを知らせた。

 舞台の真ん中からタイガーの姿がかき消えた。


 場内は騒然となった。タネも仕掛けもない、正真正銘の消失だ――タイガーはまだそこにいるのに、誰にも知覚できないのだから。あまりの見事な消えっぷりに観客は大興奮だ。


 おい、いくら何でも堂々とスクリプトを使いすぎだろ、と俺は呆れた。

 ショーのネタに使ってるんじゃねえよ。[ダイモン]に目をつけられたら危険だという意識を、どうやらこの男は持ち合わせていないようだ。


 ざわめきの収まらない会場で、マイクを握った座長がサーカスの沿革や特徴を語り出した。「当サーカスの呼び物である復元リストアードマンモスの曲芸」までしゃべったところで、スクリプトを解除したタイガーが、いきなり客席の通路に姿を現した。


「ふーう。ここまで逃げれば、もう座長にも見つからないニャ」


 着ぐるみのくせに、額の汗をぬぐう仕草をしてみせる。「こらっ、タイガー、見つけたぞ!」と座長が叫ぶと会場中のガキどもが狂ったような笑い声をあげた。続く拍手喝采が天幕を揺さぶった。



 タイガーの消失を除けば、サーカスは普通だった。どこのサーカスでもだいたい見られるような出し物が続いた。スピーディで危険な曲芸と、大型動物の芸。クライマックスは王道の空中ブランコだ。

 緊迫感のある出し物の合間に、タイガーがピエロと共に何度か現れた。息の合った寸劇で客の笑いを誘った。タイガーはジャグリングの腕前もなかなかのものだった。スクリプトを使って消えてみせたのは初めだけで、後は最後まで道化に徹していた。



 ショーが終わり、興奮した観客が席を立ち始める頃。係員が寄ってきて俺の耳元で囁いた。


「すみませんが、一緒に来てもらえませんか。タイガーがお話ししたいことがあると」


 係員は俺たちを天幕群の奥へ案内した。光り輝く衣装をまとい、元の人相がわからないほど厚化粧を施した出演者たちとすれ違いながら進んでいく。

 ある小じんまりした天幕の前で、係員は足を止めた。出入口を開き、俺に中へ入るよう促しながら、明るい声でティリーに話しかけた。


「お嬢ちゃん。君のパパはこれからここで大切なお話があるんだ。その間、僕と一緒に動物でも見に行かない? ライオンやマンモスもすぐそばで見せてあげるよ」


 パパじゃねえよ! だが俺はもう反論するのにも疲れ始めていた。係員に手を引かれてティリーが歩み去るのを見届け、天幕の中へ足を踏み入れた。


 スタッフの控室らしいその天幕には、長テーブルとたくさんの椅子が置かれている。

 そこにいたのはタイガー一人だけだった。着ぐるみの上半身をはだけて、汗を拭いているところだった。


「やあ。やっぱり来てくれたんだニャ。来てくれると思ってたよ」


 奴のたるんだ胸と腹に古傷がいくつも散っている。銃創のように見える。

 俺の視線に気づいたらしく、タイガーは物憂げな笑みを浮かべた。


「――僕のスクリプトは『その場にいないことになる』スクリプトニャのさ。僕はその場にいないんだから、見えない、聞こえない、触れない、攻撃も届かない。僕のやったことを君は知覚できない。

 だからスクリプトの効いてる間、僕は君に何だってできるんだニャ。僕は存在していないんだから、僕の行為も君にとっては、だから知覚できない。で、スクリプトが解除された瞬間、何が起きているかに気づいて、びっくりするってわけ」


 奴は椅子の一つを引き寄せ、どっかりと腰を下ろした。


「想像がつくと思うけど。このスクリプトを使えば、ありとあらゆる悪いことができちゃうんだよね。僕は十歳の時この力を自覚したんだけど、それからはやりたい放題だったニャー。

 でも……色々あってね。本当に、本当ーーーに色々あってね。今の座長に出会って、僕は、自分の力で人を楽しませることもできると気づいたニャ。僕の力に、みんなが笑って、拍手喝采してくれる。みんなが僕を愛してくれる。僕はそれまで欲しい物は何もかも奪ってきたけど、誰にも好きになってもらえニャかった。こっちの方が断然いいよね、と思ってサーカスでがんばることにしたニャ。

 まあ、昔のことがあるから、僕は今でも舞台で素顔をさらすわけにはいかニャいんだ。それで着ぐるみをかぶってるんだニャー」


 俺も手近な椅子に座り、相手の言葉を咀嚼した。


「……あんたは《ローズ・ペインターズ同盟》みたいなインチキ宗教に興味を持つような人間にゃ見えねえな」

「君だってそうさ、《♠10テン》。君は何か魂胆があって《同盟》に入ったんだろ? その面構えを見ればすぐにわかるニャ。今日ここへ来てもらったのも、それが理由ニャんだよ」

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