第5章 料理番

(1)※

 アリスが話題を決めかねているあいだに、料理番はスープの鍋を火からおろし、すぐさまつぎの仕事にかかりましたが、その仕事というのは、近くにあるものを手当たり次第に公爵夫人と赤ちゃんに投げつけることでした。まず最初にアイロンが飛んできました。それから、ソース鍋や大皿、小皿が、雨のように降りそそぎました。


『不思議の国のアリス』(ルイス・キャロル作、脇明子訳)


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 レジィナはいつも俺の名を呼ぶ時、一文字でもゆるがせにしないというように、丁寧に力をこめて発音した。それは、自分が名乗りたかった名前を取られたというこだわりを、何年経っても忘れられないせいかもしれなかった。


 だが俺は、彼女にそんな風に呼ばれるのが嫌ではなかった。

 あんたは特別だ、と言われている気がしたのだ。


「……あんたって本当に、体鍛えるの好きよね」


 自室でハンドスタンド・プッシュアップをしていた俺の視野に、逆さまのレジィナが入り込んできた。腰に両手を当てて仁王立ちしている。


「ノックぐらいしろ」

「今さら何よ」


 彼女は鼻で笑った。


 俺たちはアルプス山麓の養成所を卒業してから、メッカの《バラート》本部にほど近い寮に入れられた。本部所属の全[工作員]が暮らすその寮は、男子寮と女子寮に分かれ、どちらの建物の玄関も厳重な施錠システムを備えていた。けれども二つの建物をつなぐ渡り廊下が何か所か設けられ、そこは施錠されていなかったので、男子寮と女子寮は互いに出入り自由の状態になっていた。

 だからこうやってレジィナが俺の部屋に闖入してくることも、決して珍しくはなかった。


 《バラート》のメンバーの半数以上は宗教関係者だ。たいていの宗教は、程度の差こそあれ、婚姻によらない異性交遊を制限している。

 しかし《バラート》本部は、寮をこういう構造にすることによって、「過ち」が起きるのをむしろ奨励しているのではないか――というもっぱらの噂だった。


 ナノマシンの誤作動によって脳内に[冗長大脳皮質リダンダント]ができやすい体質は、遺伝する。つまり[工作員スクリプト・ハンドラ]の子もまた[工作員]になる可能性が高い。両親ともに[工作員]であったなら、なおさらだ。そして、得意とするスクリプトの種類も親から子へ遺伝する確率が高いとされている。

 本部は、戦力となるスクリプト使いを一人でも増やすために、[工作員]同士の恋愛をお膳立てしているのではないか。


「明日、何か予定ある? 一緒にどこか行かない?」

「……ハクトを誘えばいいだろ」


 レジィナはむうっと唇を尖らせた。両足を大きく開き、体を無理やりねじ曲げて、自分の顔を逆さまにしようとした。俺と正しく目線を合わせるために。


「あのね! 言っとくけど。あたしとハクトは別につき合ってるわけじゃないわよ」


 大声で、ハクトが聞いたら泣くようなことを言いやがる。

 彼女が言いつのるのに合わせて、床に向かって垂れた金髪が揺れた。


「あたしは! あんたを誘ってるの!」


 また、あの口調で俺の名を呼ぶ。鈴を振るような声で。


 わかった、と俺は答えた。


 俺はたぶんレジィナのことが結構好きだ。彼女と二人きりででかけると思うと胸が躍る。

 だがハクトと違って俺には、話題の商業施設やデートスポットをうろつき、長々とショッピングにつき合い、九割方どうでもいい内容で占められる女子のおしゃべりに根気よく相槌を打ち続ける、などという芸当はできない。そんな苦行を強いられるぐらいならトライアスロンの方がよっぽど楽だ。


 気持ちよく晴れ渡った翌朝。レジィナが「サイクリングに行きたい」と言い出したので、俺はほっとすると同時に謎が解けたように感じた。

 先天性色素欠乏症のハクトは直射日光にひどく弱い。屋外スポーツはまず無理だ。

 レジィナが自転車の遠乗りをしたいなら、ハクト以外の連れを選ぶしかない。


 俺たちは貸自転車屋で自転車を調達し、西へ向かった。

 メッカの市街地の西には何平方キロメートルにもわたって花畑が広がっている。


 それは保存庫と同じく、[ダイモン]が何の目的で作ったのかよくわからない場所だった。とてつもない広い面積に、ただ一種類の花が植えられる。花は年によって異なる。今年はヒマワリだ。


 [ダイモン]は地球上に存在している植物の総量とその種類別の内訳を一パークアッドリリオンの誤差もなく把握しており、今後一万年にわたって安定した植生が保てるよう、計算して管理しているはずだ。

 こうやってアホみたいに大量の花を一か所に植えるのは、地球全体の植生のバランスを取るために必要な措置、ということか。あるいは気候を調整するためにこの植物群が必要なのか。


 電脳の思惑は、神の思惑と同じぐらい謎だ。


 理由など、どうでもいい。輝かしい蒼天。視界を埋め尽くす黄色い花、花、花。ヒマワリ畑の中の一本道を、懸命に自転車を漕いでいくレジィナの純白のブラウス。

 俺はこの美しい情景をいつか絵に描くため、目に焼きつけようと試みる。


 彼女は漕ぐ足をゆるめずに、帽子のリボンをなびかせながら、こちらを振り返る。屈託のない笑顔。


「遅いぞー! もう、へばっちゃったの?」


 ――ばーか。遅めに走って、わざとおまえを先に行かせてるんだよ。後ろ姿を見続けるために。



 果てしなく長く続く下り坂を、レジィナは「わあああああああああっ」と叫びながら激しい勢いで走り降りていった。勾配はゆるいが坂の距離が長いので、ノーブレーキだと相当な速さになる。

 はためく長い髪。風をはらんでふくらむブラウスの背中。追走する俺の[仮想野スパイムビュー]に表示される彼女の速度は四十七・八キロ/時だ。


「おい! 絶対にハンドル離すなよ! 死ぬ気で握れ!」

「あああああああああああっ!」



 レジィナはなんとか大怪我を免れた。自転車が坂を下り終えて平らな道に達し、徐々に速度を落としていく間、どうにかハンドルを離さず、バランスを崩さずに持ちこたえることができたのだ。

 ヒマワリ畑の中にちょっとした広場があったので、俺たちはそこでいったん自転車を降りた。


「あー。大声出したら、なんだかすっきりしちゃった」


 レジィナのけろっとした態度は能天気と呼んでもいい。俺は眉をひそめた。


「おまえ、ストレスでも溜まってんのか」

「ストレスは、いつだって一杯だよ。こういう仕事だもん」

「……大丈夫かよ」


 俺の問いかけに、レジィナの瞼が、微妙なまたたき方をした。青空よりも濃い色の瞳が思いつめたような翳りをたたえて俺を見上げた。


「大丈夫。……あんたがあたしに『大丈夫か?』って訊いてくれるなら、いつでもずっと大丈夫」

「謎々みたいだな。それもまた、クイズか?」


 レジィナは答えなかった。俺をみつめる顔は微笑んでおり、さっきまでの翳りは跡形もなく消えていた。


 広場の隅に人の膝ぐらいの高さの石舞台が設けられていた。俺たちは階段を昇り、石舞台の上のベンチに腰を下ろした。高くなった分、ヒマワリ畑をはるか遠くまで見渡すことができた。緑色の大地に鮮やかな黄色が無数に点在していた。その向こうにある焦げ茶色の山並みの陰影がくっきりと見て取れる。吹き渡ってくる風が、汗ばんだ肌に心地良かった。


「中途半端なのよ、あたしは……」


 まるで風に話しかけるみたいに、レジィナが言った。遠い山並みに視線を固定していて、こちらを見ようとしない。長い金髪がふわりとなびく。


局長ディレットーレの娘なんだからちゃんとしてなくちゃ、と昔からずーっと感じてた。優等生でいなくちゃ、って。でもハクトみたいに、『《バラート》のやってることは正しい。たとえ神の御教えに反しているように見えても、大局的には人類のためなんだから神も許してくださる』と本気で信じることはできないの」

「……」

「だから、あんたのことがうらやましい」


 ようやく彼女はまっすぐ俺を見た。


「あたしもあんたみたいに、本当の気持ちを全部口に出したい。幻冥大師に向かって『この日和見め』って言ったり、パーパに向かって『罰当たりの無節操スケベ野郎』って言ってみたい」

「ちょ、ちょっと待て!」


 俺は動揺した。俺の《バラート》上層部に対する暴言がそのままレジィナの耳に届いているとは思わなかったのだ。


「悪かった。おまえの親父さんなのに。いや、言ったこと自体は間違いとは思ってねえが……!」

「いいのよ。だって『罰当たりの無節操スケベ野郎』なのは本当のことじゃない。みんな遠慮して言わないだけで」


 ――レジィナの父親、ゲイブリエル・ロセッティ枢機卿は《バラート》の押しも押されぬ最高責任者だ。

 所属教団であるダンテ六芒聖教で最高僧の地位にあるだけでなく、優秀な電脳心理学者でもある。スクリプトが、電脳網[ダイモン]の電子的自我にも効く可能性があることを発見し、研究を続けている。その功績は偉大だ。

 それに加えて[無生三昧イマージョン]というレアなスクリプトの使い手でもある。[無生三昧]は[鏡の国ルッキング・グラス]の上位スクリプトで、五感からの感覚情報だけでなく相手の「意識」そのものと同期する。


 そこまでなら《バラート》の局長にふさわしい人間だと言えるが。

 この男のどうしようもないところは、既婚者でありながら、《バラート》内の女に次々と手を出し妊娠させていることだ。しかも、かなり大っぴらに。

 間違いなく、ダンテ六芒聖教の教義には反している。僧位剥奪に値する破廉恥な行いだ。

 しかし本人は「[冗長大脳皮質リダンダント]を持つ子供を一人でも多く世に送り出すため、使命だと思ってやっている」と言い張っている。他の《バラート》の幹部どもも黙認状態だ。


 知らないうちに異母弟妹が増えていく状況に、レジィナがどれほどつらい思いをしているか、想像するのは難しくない。

 母親はろくでなしの夫に早々に見切りをつけて遁走してしまったので、レジィナはたった一人で父親に直面しなければならない。


 ――いつか絶対ぶん殴ってやる。局長ディレットーレだろうが枢機卿だろうが、知ったことか。




 青空の下、レジィナの顔は、笑っているのに泣いているように思えた。


「あのね。あたしたちの仕事って、誰かが一生懸命がんばって、努力して築き上げてきたものを、一瞬ですべて壊して奪ってしまう仕事じゃない? 『電脳に目をつけられると困るから』っていう、それだけの理由で。もちろんあたしたちの仕事が必要な理由もわかってるけど……あたしがこれまで傷つけてきた人の分だけ、あたしの中でも、何かが壊れてく気がするの」

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