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「あなたは今日から《♠7》(スペードの7)です」


 何の前置きもなくそう宣言すると、《♢A》(ダイヤのエース)ことスナーク博士は俺にスペード型のバッジを手渡した。

 俺は、受け取ったそれを掌の中で転がしてみた。小さい割に持ち重りがする。表面には細かいダイヤモンドがびっしり埋め込まれ、中央にはバラ色の宝石が輝いている。

 ――俺は本来なら《♠5》として入団することになっていた。《♠6》が殺されたからその後を継いで《♠6》になる、というなら話はわかるが、なぜ一気に二階級も上がるんだ。《♠7》はサーフェリーの位だったはずだ。


「前のセブンはどうなったんだ――あのイカれたやくざは? 警察に捕まったわけじゃねえだろう? ……『除名』したのか」


 そう尋ねてやると、スナーク博士は微妙な表情で口の端をひくつかせた。



 ここは《ローズ・ペインターズ同盟》本部三階の「事務室」だ。パーティション付きの真新しいデスクが十台ほど置かれており、二十代から四十代までまちまちな年齢の男女が何やら仕事に励んでいた。世界中のどこにでもありそうな、普通のオフィスの風景だ。

 全員、襟元に小さな――宝石の嵌まっていない――菱形ダイヤのバッジをつけていた。

 こいつらは幹部ではなく一般信者、ということだ。スナーク博士の表現を借りるなら、教団の「金づる」だ。 


 事務室の一番奥の、透明防音壁で囲まれた一角がスナーク博士の専用スペースだった。他のデスクよりひと回り大きな机と、持ち主の体形に合ったゆったりサイズの椅子が配置されている。博士はいつもここから事務員たちの働きぶりを監視してるんだろう。

 気配を感じて俺が視線を投げると、透明な壁ごしにこちらをみつめていた数人の事務員があわてて目をそらした。連中は「本部長室」を訪ねてきた新顔に興味津々らしい。


「幹部の処分については話すわけにいきません。それは私の専権事項ですから」


と、博士は言葉少なに答えた。


 これから俺は何をすればいい、と尋ねると、答えやすい質問だったらしくスナーク博士は饒舌になった。


「スペードの幹部の任務は、いざという時に教団を守るため戦ってもらうことですが……それまでは特に、決まった仕事というのはありません。万一の場合に存分に力を発揮できるよう、普段からスクリプトの鍛錬をしておいてください。その意味で、我々としては他の幹部との『公式試合』を奨励しています。やはり実戦形式がいちばん身になりますから」


 ――「五感のいずれかで自分の名前を感知したらアラートを出す」というのが[補助大脳皮質エクスパンション]に組み込まれているデフォルトの機能の一つだ。

 たとえ偽名でもその機能は働く。


 乱雑に散らかった博士のデスクを、眺めるともなく眺めていた俺の[仮想野スパイムビュー]の一角が、不意に青白く光った。ただちに該当箇所が自動的に拡大される。

 他の書類に半ば埋もれている紙に「ジョン・リデル」の名が書かれていた。

 その隣に、俺の住所と電話番号が書かれ、「手足縮む」と下手くそな手書き文字でコメントがついていた。


 紙には「ルーラント・サーフェリー」の名も書かれていた。どうやらその紙は幹部リストらしい。

 

「あなたは一つ上位の幹部に……つまり《♠8》に公式試合を挑む権利があります。試合は入団試験と同じ、東部の保存庫で行われます。あなたが試合に勝てば、相手に代わって《♠8》に昇進します。そして今度は《♠9》に挑戦する権利を得ます」

「試合ってのは、どうやってやるんだ? 勝ち負けはどんな風に決まる?」

「どちらか一方が『降参する』という意思表示をするか、あるいは戦闘を続行できない状態になったら、試合は終了し、もう一方の勝ちになります。武器や道具は一切なし、生身のみで戦ってください。……ただし、試合の相手に重大なダメージを与えるのは禁止です。あなたも知っているあの人・・・が試合のたびに相手を傷つけたせいで、スペードの幹部の人数が大幅に減ってしまい、我々も困っているのです。もうそのようなことは許容できません」


 俺の名前はリストの一番下に書かれており、俺とサーフェリーの名前の間には数人分の名前がある。どれも抹消線で消されている。そいつらはサーフェリーが再起不能にしてきた幹部たちだろう。その中にはおそらく、数日前に死んだ《♠6》も含まれている。

 サーフェリーの名前の行の右端には「内臓取り出す」という手書きのコメントがあった。

 どうやらその手書き文字は、スナーク博士によるスクリプトの説明らしかった。


 ――サーフェリーの名前に抹消線が引かれていないということは、教団をクビになったわけじゃねえんだな。奴はまだ幹部として在籍してるんだ。


「生身のみで戦え、ってことは、例えば相手をボコボコに殴って勝ってもいいってことか。別にスクリプトを使わなくても」

「それでも構いませんが……向こうは必ずスクリプトを使ってきますから、素手で勝つのは難しいですよ。上位のスペードの幹部は古くから在籍している人たちで、スクリプトの扱いに慣れています。トレーニング代わりに何度も試合をこなしてきています。簡単には勝てませんよ」


 サーフェリーの名前の上にもいくつか名前が書かれていて、その右側にはそれぞれ「物飛ばす」「伸び縮み」「消える」というコメントが付されていた。

 雑な説明だが、他の幹部たちのスクリプトが何かというヒントにはなる。


 俺はスナーク博士に視線を戻した。だが意識は完全に、デスクの上の書類の方へ行っていた。

 何とかして少しでも書類を読みたい。幹部リストの、他の書類の下になって読めない部分も見ておきたいし、他にも教団に関する重要情報がこのデスクにはあふれているだろう。教団本部の本部長のデスクとくれば、教団の内実を調べている者にとっては宝の山だ。


「じゃあ、その公式試合ってやつをセッティングしてくれ。頼むよ」

「いきなり、ですか?」

「そんなに驚くことないだろう。『公式試合を奨励してる』って、あんたが自分で言ったんだぞ」

「いや……つい先日を目の当たりにしたばかりですから……あなたはもっと慎重になるかと思っていました」

「善は急げ、だ。俺はもっと上を目指してみたい」


 俺はデスクのすぐ前まで行き、右手を差し出した。博士は少し戸惑った顔を見せたが素直に握手に応じた。

 手を握り合った状態で、博士の瞳の奥を凝視する。


target=()

run ('looking_glass')


 スクリプト[鏡の国ルッキング・グラス]を発動。

 ――スナーク博士の感覚神経との同期に成功したことは、すぐにわかった。いきなり全身がずしっと重くなったからだ。己の腹の重みで息苦しい。太っていると、ただ座っているだけでもこんなに苦しいのか。

 俺の目で見た博士と、博士の目で見た俺を同時に知覚し、位置感覚と平衡感覚が混乱する。


 他人の知覚をモニタリングしながら自分の体を操るのは至難の業だ。俺は苦労して口を動かし、じゃあ頼んだぜ、と言い捨てて本部長室を出、ドアへ向かって事務室を突っ切った。その間も重い体をどっしりと椅子に預け、俺の背中をじっと見送っているスナーク博士を感じている。唐突な俺の退場を不審に思ったらしく、博士はかなり長い間俺の後ろ姿を眺めていた。


 自分自身の知覚情報の処理がおろそかになったので、出口へ向かう途中、何度かデスクや人にぶつかったようだ。

 ようやく事務室を出ると――周囲に人がいないかという確認もせず――俺は廊下に座り込んだ。目を閉じ、体の力を抜いて、スナーク博士の感覚情報に集中した。


 期待通りだ。本部長室に残ったスナーク博士は、上に載っていた書類を滑らせてどかせ、幹部リストに視線を落とした。リストには三十人を少し超える名前と、それぞれの住所、電話番号が印刷されていた。スクリプトの内容を示す手書きコメントが添えられているのはそのうちの三分の二ほどだ。

 そのリスト全体に視線を走らせたい、という俺の意思は博士の体には伝わらない。スナーク博士はただ一つの名前のみを見つめている。書かれている電話番号を、声に出して読み上げた。その音声に反応して、卓上の電話が呼び出しを開始した。

 電話の相手はすぐに応答した。


「はい。『ペッパーハウス』です」


 張りのある低い女の声がスナーク博士の鼓膜をくすぐり、廊下にいる俺の耳に届く。


「こんにちは、《♠8エイト》。私です」

「あら、ベイカー! お久しぶりね」

「……名前で呼ぶのはやめてくださいと何度も言っているはずですよ。仕事中は《♢Aエース》です」


 口ではつっぱねながらも博士の声は聞いたことがないほど柔らかい。俺なんかと話している時とは全然態度が違う。

 電話に向かってしゃべる間、博士の視線はデスクの上をさまよい続けた。俺は博士の「目」を通じて少しでも卓上の書類を読もうとしたが、博士は一度も文章に焦点を合わせようとしない。


「新しい《♠7》があなたに公式試合を申し込んできました。下位の幹部からの挑戦は受けなければならない、それが教団のルールです。覚えていますね? では試合の日程を決めましょうか。……」


 ふらふらしていた博士の視線が一点で止まった。デスクの端に置かれたフォトスタンド。中の写真をみつめる。

 何か他のことを考えながら、ぼんやり視線だけを止めている、という感じだ。博士の目の周辺の筋肉はゆるんでいる。意識的に凝視しているわけではないようだ。


 それは屋外で撮影された集合写真だった。白衣を着た十数人の若者が横二列に並んで映っている。彼らの髪型から察するに最近の写真ではない――二十年以上昔のものだろう。ざっと見た感じ、スナーク博士らしい体形の男は含まれていない。

 若者たちの後ろに三階建ての建物がある。少し距離があるので、建物から突き出している数十本の発電用風車までが写真に写り込んでいる。


 その殺伐たる建物の佇まいが、俺の記憶を奇妙に刺激した。

 俺は……確かに見たことがあるぞ、この建物を。いつ、どこでだったか……?


「どうしたんですか。大丈夫ですか。しっかりしてください」


 すっとんきょうな女の声。誰かが俺の肩を荒々しく揺さぶる。


 肩をつかんだその手に、スナーク博士の体の中から無理やり引っぱり出されたような気がした。

 博士の知覚神経との同期を突然断ち切られ、感覚が混乱する。気づくと俺は「自分の体に戻り」、廊下に座り込んでいた。キツネ顔の女が心配そうにこちらを見下ろしていた。顔見知りの受付女だ。


「気分でも悪いんですか?」


 邪魔しやがって、と舌打ちしたいのをこらえて俺は立ち上がった。潜入に成功したのだから、博士の知覚情報をジャックする機会はこれからいくらでもある。焦る必要はない。


「貧血だ。よく起こるんだ」

「えー? そんな風に見えませんけど? ものすごく健康そうなのに……」

「生まれつき病弱なんだ。長い間立っていると、すぐにふらつくんだ。俺がその辺でしゃがんでても気にしないでくれ。よくあることだから」


 受付女と連れ立って階段の方へ歩きながら、俺は博士の視覚を通じてかいま見た幹部リストの内容を思い返していた。

 博士が電話をかけていた相手の名前の横に書かれていたのは、「物飛ばす」という説明だった。

 「物を飛ばす」スクリプト。心当たりなら、いくつかある。

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