(5)

 大昔っていつのことだ、と尋ねれば「えーと、たぶん、二十年前ぐらいか?」と視線を泳がせる。


 茅尚ママがメイン料理セコンド・ピアットを運んできたので会話はしばらく中断したが、その間、俺はハッタリを早く使いすぎてしまったことを後悔していた。

 ハクトがまだ隠し事をしていることは確かだ。気配でわかる。

 なんとか奴から真実を絞り出す方法はないものか。


「……おまえは、あの教団に[空言遊戯]を使ってくる奴がいることを、あらかじめ知ってたんだな。《ローズ・ペインターズ同盟》の集会に出席したら、脳味噌をぐしゃぐしゃにかき回される目に遭うことを。――おまえが集会に行かずに、《同盟》の本部に直接『入会したい』と乗り込んでいったのは、それが理由だ。そうじゃねえのか」


 直球で攻めることに決めた俺は、頭に浮かんだ疑問をそのまま口にした。しゃべっているうちに自分の中で次第に思考がつながり、答えが浮かび上がってくる。


「そもそも、おまえは一人でこの街に来たんじゃねえだろ? これだけ大規模な組織の調査なら、《バラート》は必ず何人か派遣するはずだ。おまえが自分で教団に潜入しようとするのは妙だ。おまえは潜入調査に全然向いてねえ。外見は目立ちすぎるし、運動神経は悲惨だし、喧嘩も弱いし……」

「ちょお! めちゃくちゃ言うな。俺どんだけ駄目な人やねん?」

「《同盟》の本部で思いっきり転んでたじゃねえか。普通あんな何もない所で転ぶか?」

「……」


 ハクトは反論の言葉を失い、不満げにため息を漏らす。俺は声を高めないよう注意しながら断定した。


「おまえは誰か相棒と一緒にこのコルカタに派遣され……おそらくそいつが潜入担当だったんだ。《同盟》の集会に参加し、[空言遊戯]のおかげで死にそうな目に遭わされ、幹部にスカウトされた。そして……そいつの身に、何かあったんだな? おまえが結局自分で潜入に乗り出したところを見ると?」


 ハクトはしばらく答えなかった。[認識野スパイムビュー]の隅でめまぐるしく変化を続ける環境情報を、表層だけで適当にスキャンし続けていた俺の意識に、ふと現実のフィジカル状況が割り込んできた。食器とフォークの触れ合う音。絶え間ないざわめき。空間を満たす温かい料理の香り。テーブルの向こう、夜でも外そうとしないアイシールドの奥から、淡い血の色の双眸が探るようにこちらを見据えている。幼い頃から優秀だと評されていた頭脳が猛烈に回転している様が見えるような気がした。


 計算結果が出たらしい。ハクトは色のない唇を曲げてうっすらと笑った。


「――五年のブランクがあっても、仕事の手順は忘れてへん、っか。おまえいっそ《バラート》に復帰せえへんか?」

「おまえの冗談はあいかわらず腐ってんな。本当のことを言え」


 俺は鼻を鳴らした。ハクトは真顔に戻り、遠くを見る目をした。手元をろくに見もせずに皿の上のサルティンボッカを綺麗に切っていくのは器用だと言えなくもない。


「学校で俺らより一年下やった覇王チンギス・ハンって奴、覚えてるか」


 打ち明け話をするつもりになったらしい。深い水の底に沈めた真実を苦労して掘り出すかのような、手探りめいた口調。

 俺の脳裏を生意気な赤毛がよぎった。


「ああ、『アホ毛のハン』か」

「俺、最近ずっと、あの子と組んで仕事してたんや。ハンも四、五分ぐらいなら[鏡の国ルッキング・グラス]を使えるから、いつも潜入は任せてた。今回もそうやった。おまえの推測通りや。――俺たちは今から八百四十万五千四百一秒前にコルカタに来た」

「……だいたい三か月前、ってことか」

「せや。ハンはスカウトされ、入団試験を受けて、《ローズ・ペインターズ同盟》の幹部になった。《♠3》(スペードの3)、とか言うとったな。いちばん下っ端やったらしい。

 下っ端の仕事は、次に新しく入ってくる奴の入団試験の相手・・を務めることや。新入りがスクリプトを使えるようになったかどうか確認する……早い話が、その新入りのスクリプトを自分で食らってみる、ってことや。乱暴な話やろ。素人どもはめちゃくちゃやりよる。スクリプトを覚えたての奴なんか、手加減なし、見境なしで発動させるから、まともに食らったらえらい目に遭うのにな。

 でもまあ、それが《教団》の決まりやから仕方しゃあない。ハンは次の新入りの入団試験にでかけてった。で、それっきり戻ってこんかった」


 突然、衝立のすぐ向こうで常連客――このビルの最上階にあるヒッタイト・ダンス教室のインストラクターと受講生――がいっせいに騒々しい笑い声をあげたので、ハクトの語りは中断された。


「……俺はハンを探した。初めは《同盟》の拠点とか、病院や医者を中心に探してたからな。見つけるのにだいぶ時間かかってしもたわ」


 衝立の向こうでは例によって『コートボール』をめぐるかますびしい議論が繰り広げられている。この季節、コルカタの住民が最も熱くなる話題だ。誰もがクリケットのにわか解説者になる。そんな騒々しい中でもハクトの抑えた声は不思議な存在感をもって俺の耳に滑り込んできた。


「ハンは死んどった。いなくなった二日後、管理清掃ロボットジャニターが倉庫街で死体を発見した。一つも外傷がないのに内臓だけがぐちゃぐちゃになってたそうや。……コルカタ市の身元不明/変死者リストにそう書いてあったわ」

「……」


 俺たちはそれぞれの宗派の流儀で、天に召された魂のために無言の祈りを捧げた。


 《バラート》の任務遂行中に命を落とした[工作員スクリプト・ハンドラ]は殉教者として扱われる。神の教えを守ろうとして散ったのだから当然だ。教団によっては聖人に認定されることもある。

 アホ毛もこれからは“聖何とか”として崇められるんだろうが。まったくうらやましくはねえな。


「奴はスクリプトでやられた、ってことか? 入団試験で新入りの相手をしている最中に?」

「冗談言いなや。あれがスクリプトやったとしたら、びっくりや。……確かに、内臓ぐちゃぐちゃを知覚させるスクリプトはある。だけどそれは単なる知覚やろ。やられた奴はごっつぅ痛いしショックを受けるけど、実際に内臓がつぶれるわけやない。スクリプトを解除したら元通りや。

 実際の肉体にまでダメージを残せるのは、よっぽど強烈な事象支配力を持つ奴だけや。たとえ資質があったとしても、何の訓練も受けてない素人がそこまでやれるはずがない」


 ――強い思い込みは、人の体を実際に変化させる。

 はるか昔から、偽薬プラセボが実際の薬効に似た効果をあげてきたように。

 催眠術で「これは焼きごてだ」と信じ込ませたら、常温の鉄棒を腕に当てても皮膚が火傷に似た状態を呈したという実験結果もある。


 [補助大脳皮質エクスパンション]に肉体の変化を固く信じ込ませれば、肉体がそれに応じて実際に変化することもある。脳がどれだけ本気で事象の変化を確信したか――スクリプトがどれだけ強い力で人の[認識界エンベロープ]を支配したか、だ。

 しかしそこまで強力なスクリプトの使い手は、《バラート》の歴史を振り返ってみても数えるほどしかいない。


「正直、ハンがどうやってられたのか、よぉわからん。だから俺はあれからずっとコルカタ市のシステムに蜘蛛を走らせて、ハンと似たような死に方をした人間がおったらアラートが来るようにしてたんや。

 やばいで。ハン以外にもう五人も死んどる。外傷なし、内臓ぐちゃぐちゃの状態で。たかだか一か月半の間に。謎の連続殺人ということでコルカタ市警も本腰入れとる。こうなってくると、ハンは正体がバレて《同盟》に消されたわけやないのかもしれんな。たまたま、イカれた連続殺人犯の餌食になっただけで」

「その死んだ五人に何か共通点はあるのか」

「そこを、警察も調べとるみたいやけどな」


 俺の背後で軽い足音が聞こえた。青が視界の端をよぎった。窓際の席に置いてきたティリーが食事を終えたのか、駆け寄ってきて俺の隣の椅子によじ昇るようにして座った。

 くりくりした瞳を輝かせてハクトと俺を見比べる。


 ハクトが営業用の笑顔を作った。説法師スマイルだ。


「お嬢ちゃん、目ぇつぶってみ。ええもんあげるわ」

「おい。《VIVA☆カプサイシン》はやめとけよ」


 俺はすかさず釘を刺した。わかっとるわ、と視線の動きだけで答え、


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 ハクトは[茶菓山積スイーツパラダイス]を発動させた。素直にまぶたを閉じているティリーの前に、透明なシートに包まれた宝石が三粒出現した。ころんと音を立ててテーブルを転がる。宝石じゃない――キャンディだ。あまりに鮮やかで深い色合いなので大粒のルビー、サファイア、エメラルドにしか見えなかった。


 目を開けたティリーが珍しく歓声をあげた。こいつの声を聞くのは数日ぶりだ。

 ハクトの野郎――女(と言ってもガキだが)の心をつかむコツを知ってやがるな。十代の頃、クラスの女子たちに高級菓子店を行脚させられたのは伊達ではなかったということか。


 うれしそうに飴を口に含むティリー。「俺ハクトっていうねん。お嬢ちゃんは?」と愛嬌を振りまくハクト。だが俺は、この一見なごやかな光景が仮初めのものであることを知っていた。


 ハクトが今話した内容は、俺に話しても大丈夫だと奴が判断した範囲の真実であり、真実のすべてではない。そもそも真実なのかどうかさえ怪しい。こいつが《バラート》から受けている本当の命令が何なのかも、わからないままだ。

 「ターゲットが同じなのだから手を組もう」などと口では言っているが。

 人の脳味噌を強烈に引っかき回すスクリプト[空言遊戯クレイジー・レトリック]のことも、《ローズ・ペインターズ同盟》に潜入した工作員が謎の死を遂げたことも、この男は今まで黙っていた。本気で手を組むつもりなら、決して秘匿していてはならない類の情報だ。

 他にどんな重要な情報を隠しているのか知れたものではない。


 できるだけ早くティリーの正体をつきとめ、《同盟》へ送り返す。そしてハクトに粛清されないうちに遠くへ姿をくらます。それが俺のなすべきことだった。





「――『月光』か」


 謎めいたつぶやきに、俺は振り返った。


「何だって?」

「ああ。この曲の名前だよ。ベートーヴェンのピアノソナタ第十四番。教え子の貴族令嬢に捧げるため書かれた曲らしい。……十九世紀、夜がまだ暗かったあの時代には、月は幻想的に、荘厳に輝いていたのだろうねぇ。この曲のように。今となっては『月光』という言葉さえ死語同様になってしまったが」


 男は芝居がかった仕草で両腕を広げ、深呼吸をするかのように、胸をふくらませて天を仰いだ。


 スナーク博士に「スクリプトを使えるようになった」と連絡してから二日後。指定された入団試験の場所で待ち受けていた《♠6》(スペードの6)は、俺の想像とはまるで違った人物だった。

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