(6)

 老人だ。正真正銘の。「七十一歳だ」と本人が誇らしげに宣言しているが、それを聞かなくても、白髪、染みだらけのたるんだ皮膚、濁った瞳、どことなく縮んだように見える貧相な体形などが雄弁に年齢を物語っている。


 [ダイモン]が人間の適正寿命を六十二歳と定め、その年齢に達した人間への医療の提供を禁止している現在。街を歩いていても老人を見かける機会はほとんどない。年をとった者は病気や事故であっけなく世を去り、あるいは前途を儚んで自ら死を選ぶ。


 だから、俺も七十超えの老人を見るのは久しぶりだった。

 顔を合わせた時、物珍しさのあまり、ついじろじろ眺め回してしまったほどだ。


 相手はそれをむしろ喜んでいる様子だった。


「念のために言っておくが、闇医者にかかって寿命を延ばしているわけではないんだぞ。若い頃からの節制の賜物だ。私はこの三十年間、病気などしたこともない。六十五を過ぎた頃からますます元気になってきた。このまま百歳ぐらいまで生きてみせるつもりだ……[ダイモン]にしてみりゃ、私みたいなのは目ざわりだろうがな!」



 そして俺たちは決戦の場となるドーム状施設の奥へ向かって歩いている。


 スナーク博士はドームの入口で俺たち二人を引き合わせたきり、そこから一歩も動こうとしない。必ず入口から二十五メートル以上離れた所まで移動してから「入団試験」を開始するように、と念を押した。ど素人のスクリプトに巻き込まれたくないんだろう。


 このドームの正式名称は「保存庫」だ。世界各地から集められてきた人類の文明の遺物レリックがだだっ広いドーム内に一見雑然と配置されている。何でも収集したがる[ダイモン]のコレクション置き場、と呼んでもいいだろう。


 パルテノン神殿の柱、巨大仏像の頭部、女神が彫られたアンコール・ワットの壁の一部、十六世紀の大砲、アルフォンス・ミュシャの装飾パネル、第二次大戦中の英海軍の雷撃機、缶飲料の自動販売機、二十一世紀の人工樹木など、どういう基準で集められたのか想像できない多数のオブジェが灰色の世界にひっそりとうずくまっている。

 こんな古ぼけた遺物など、実物を残しておかなくても、[ダイモン]なら原子レベルまで完全に解析してデータとして保存することが可能なはずだが。電脳はなぜかこういった保存庫を世界中のあちこちに作りたがる。お気に入りのがらくたを宝箱にしまい込むガキのように。


 ドーム内には誰もいない。遺物の品質を損なわないため、保存庫には一切の動物(人間を含む)の立ち入りが禁止されているからだ。「保存庫に入ると魂を吸い取られる」という、とてつもなく非科学的な言い伝えがユーラシア全域の低層社会でまかり通っているせいか、ルールを破って足を踏み入れる奴もほとんどいないようだ。


 本来であれば、俺たちみたいに保存庫に不法侵入すれば、たちまち駆けつけた管理清掃ロボットジャニターに強制排除される。

 だがここは、コルカタ屈指の治安の悪さを誇る『ダパの丘』(昔は湿地帯だったそうだが、長年にわたって投棄された大量のごみで今や完全に埋め立てられている)のすぐ東側にある。住民どもは動物を殺し、管理清掃ロボットを襲う。分解した部品パーツを売って酒代や麻薬代に換えるのが目的だ。[ダイモン]の手足であるロボットさえ、この界隈へは入り込めない。


 ――人知れず戦闘を行うには、確かにうってつけの場所だ。

 《ローズ・ペインターズ同盟》が入団試験やスクリプト使い同士の「公式試合」のため、この保存庫を使うことにしているのもうなずける。



 死のような不動に満たされたドーム内にはピアノ曲が流れていた。

 [補助大脳皮質エクスパンション]経由で直接こちらの聴覚へ届けられているのかとも思ったが。歩いているうちに物陰に入ると、聞こえる音が小さくなるから、実際にこの場で鳴っている音楽のようだ。


 繊細なピアノの音色は、まるでたくさんの雨粒で頬を叩かれているかのような感触だ。冷えびえとしていて、この世のものとは思えないほど端正だ。




 人間の立ち入りを拒んでいるこの施設で、どうして絶えることなく音楽が流されているのか? 電脳が「聴く」ためか?

 電脳にも「趣味」というやつがあるんだろうか、人と同じように?


『[ダイモン]はね、きっと、人間の文化が大好きなんだと思う。人の内包する『混沌』『不条理』に惹かれるのよ。それは電脳には持ち得ないものだから。……[ダイモン]が大転換期に人類を滅ぼさなかったのも、それが理由じゃないかな』


 いつか、遠い昔、レジィナが真顔でつぶやいていた言葉を思い出す。




 俺は足を止め、後ろをついてくる《♠6》に向き直った。肉の落ちた体躯が目に見えてびくりと震えた。小さな目が俺を見上げた。


「もう始めるのかい。……第三楽章まで待ってくれないだろうか。私はこのソナタでは、第三楽章がいちばん好きなんだよ。あの激情が……」


 平静を装っているが老人の声はうわずっていた。俺は肩をすくめた。


「心配すんな。すぐに終わるから。試験が済んだ後でゆっくり聴きゃいいだろ」

「その……君のスクリプトは……痛いのかい? 体を切ったり刺したりを知覚させるものだろうか? 私は……」


 怯えて口ごもる相手を眺めているうち、俺の内心に柄にもない同情が湧き起こってきた。

 こんな年寄りが体を張って入団試験の相手役とは。《同盟》も容赦なさすぎだろう。


 《♠6》の肩ごしに、保存庫の入口に立っているスナーク博士の姿が見えた。まん丸な小男は懸命に腕を振り回し、「もうちょっと離れろ」と合図を送ってきていた。[仮想野スパイムビュー]に表示される博士との距離は二十四・九三メートルだ。スクリプトがぎりぎり届く。


 俺は老人に視線を戻した。


「いや。俺のスクリプトには、攻撃力はまったくねえよ」


 ――十代の頃なら、そんなことを自分で認めるぐらいだったら死んだ方がましだっただろう。


target=all

run ('easy_contraction')


 俺はスクリプト[収納自在イージー・コントラクション]を発動させた。右腕と左脚の収縮を知覚した《♠6》が「ぬおおっ」とか何とかわめきながら地面にひっくり返った。遠くではスナーク博士がまるで本物のボールのように転がっていた。

 スクリプトの効果範囲を《♠6》一人に限定せず全域に広げたのはわざとだ。

 いちおう初心者ということになっているのだから、その程度の無制御は自然だろう。




「きちんとスクリプトが使えているようですね、リデルさん。合格です」


 スナーク博士がスーツから砂をはたき落としながら、朗らかに宣言した。わが身で実際に俺のスクリプトの効力を確かめたのだから、合格の判定に問題はないはずだった。


「今日からあなたは《♠5》です。教団内では『ファイブ』と名乗ってください」





 保存庫を出ると、西の空に太陽が沈みかけていた。いろいろ渡したい物があるので本部に寄ってくれないかとスナーク博士が言い、俺は承諾した。


「私もご一緒させてもらっていいだろうか? ちょっと本部に顔を出したいのでね」


 《♠6》が横から会話に割り込んできた。


 俺たち三人は雁首揃えて馬車に乗り込んだ。ダパから教団本部のあるダルハウジー広場までは馬車で二時間ほどの道程だ。《♠6》は入団試験の相手役という役目を無事に終えて気が楽になったらしい。ひどく陽気になり、よくしゃべった。

 おしゃべりな幹部は、俺としても大歓迎だ。老人の口をさらに軽くするため、積極的に話題を振った。


「あんたはコルカタ大学の学生だと聞いてたから、もっと若い奴を想像してたよ。俺より年下に違いないと思ってた」


 そう言ってやると、老人はたるんだ頬を艶めかせて嬉しそうに笑った。


「入学年齢に上限は設けられていないので、がんばって勉強して六十九歳で入学したのさ。寿命を超えてから、かえって開き直れてね。残りの人生を全力で楽しもうという気になったんだ。勉強も遊びも、やりたいことは全部やるよ」

「……立派だな」

「最近、『未来さきのない年寄りなんか生きてたって仕方ない』などと平気で口にする連中が増えているが。将来性がなきゃ、生きてちゃいけないのかい。世の中の役に立たなきゃ生きている価値がない、とでもいうのかい。だったら若い人間の中にも、死ななきゃならない奴が大勢いるだろう。……命はそれ自体、かけがえのないものだ。何の役にも立たなくても、生きていることはそれ自体ですばらしい。老いを否定する奴らも、自分が老いてみればわかるさ」


 俺は同席しているスナーク博士の存在が気になった。このおっさんの耳がある所で、ティリーについてストレートに尋ねるのはまずそうだ。


「あんたはなんで《ローズ・ペインターズ同盟》に興味を持ったんだ?」


 まずは当たりさわりのない質問を投げることにした。


「……恋だよ」


 返ってきたのは途方もない答えだった。俺はあっけにとられた。「恋?」と、我ながら間抜けな声が漏れた。だが《♠6》は明らかに俺の相槌など必要としていなかった。うっとりした目で中空をみつめ、熱にうかされたような口調で語り始めた。


「まさに一目惚れだった。私は七十年以上生きてきて、あんなに可憐な女性を見るのは初めてだったのだ。ハートのジャック……LC。勉強会で会った瞬間、全身に電撃が走った。彼女に私のすべてを捧げようと決めた。彼女のそばで生きようと。

 だから必死でがんばったんだよ、スクリプトを覚えるのに。何としてでも《ローズ・ペインターズ同盟》に入りたかったからね。私は人からよく努力家だと言われるが、あのときほど努力したことはない。だが……苦労した甲斐はあった。今じゃ、本部に行けばいつでも彼女に会える。声もかけてもらえる。本名も覚えてもらえた。幸せだよ」

「……」


 視界の端に、スナーク博士が思いきり顔をしかめるのが映った。

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