(3)

「ねえ。キミの名前、まだ聞いてなかったね」


 不意にマキヤが立ち上がって、部屋の中央に立ったままだった俺に歩み寄ってきた。


「……《♠10テン》だ」

「ティリーちゃんを保護してくれてること、本当に感謝してるよ、《♠10》。いろいろ大変だっただろうね。けど、あの子はキミの手に負える子じゃない。そのうちきっと暴走して、キミの精神を破壊する。……ティリーちゃんをボクに返してくれないかな。あの危険な子を世の中に出しておくわけにはいかないんだ。キミの親切には十分にお礼をさせてもらうよ。幹部手当を増額させてもらう。ボクからのせめてもの気持ちさ」


 俺のすぐ前で立ち止まり、マキヤは不気味なウィンクをよこした。

 視線を合わせるのさえ厭わしく、俺は目をそらした。


「それでまた、閉じ込めるのか。リボンとレースの牢屋に。一人きりで」

「その『牢屋』って言い方、嫌だなぁ。気に入らない。……閉じ込めるのは仕方ないでしょ。他にどうしろって言うの。キミは知らないんだ、あの子がどんなに簡単に人を壊せるか」

「……」


 俺の脳裏をティリーの姿がよぎった。

 茅尚ママ自慢のティラミスを夢中でほおばる顔。「ずっと一緒」と俺の袖を引く小さな手。


 くそっ、どうかしてるぜ、俺。


 これは情が移ったせいじゃない。身をくねらせる眼前の中年女に対する生理的嫌悪感のせいだ。

 自分の決断が間違っていることを十分承知しながら、それでも俺は口を開いた。


「あんたにティリーは返さねえ。見たところ、あんたには子供を育てる能力と資格がないようだ。ティリーは《バラート》に引き渡す。奴らはスクリプトの専門家だ。ティリーを保護して、うまく育てるだろう」


 ――俺の方から積極的に《バラート》へ接触することは危険以外の何物でもないが。

 「強いスクリプトを使う子供を引き渡す」などという重大なアクションをすれば、本部メッカの注意を引き、ハクトでもごまかしきれなくなるかもしれないが。


 たぶん今のところそれが最善の選択だ。ティリーのためには。

 《バラート》は少なくとも仲間と居場所を与えてくれる。たとえ将来、汚れ仕事にこき使うとしても。


 マキヤは大した役者だった。俺の言葉にも眉一つ動かさなかった。


「《バラート》? 何なの、それ」


 俺は相手の芝居を鼻で笑った。


「とぼけるな。俺を警戒しなくてもいい。俺もあんたと同じように《バラート》を自主退団した人間だ。刺客に追われてるのもあんたと同じだ。この警戒厳重な城は……本当は、《バラート》に対する防御だろう?」

「……」

「教団でスクリプトの研修に使ってる資料は、《バラート》の教科書そのままだった。だから、《バラート》の脱走者が教団にからんでることはすぐにわかったよ」


 マキヤは無言で棒立ちになっていた。その顔から表情が次第に消えていった。


「……渡さないよ。ボクの子供はボクのものだ。大切な、大切な宝物なんだ。取り上げられてたまるもんか」


 地を這うような低い声には、ぞっとするほど生々しい憎悪がにじんでいた。俺を睨み据える黒い瞳が荒々しく輝いた。

 俺はすかさず反論した。


「持てあまして監禁してたくせに、何が『宝物』だ。説得力ねえぞ。あんたはただ、自分が《バラート》に見つかりたくないだけだろう?」

「言っとくけどねぇ。確かにボクも《バラート》を脱走した身だけど……ボクをキミみたいな下っ端と一緒にしないでくれる? ボクには《バラート》のすごく偉い人がついてる。守られてるんだよ。その人が目を光らせてくれてるから、誰もボクには手を出せない。刺客もボクを追ってこない。……そうでなきゃ、こんな風に、教祖として堂々と世間に顔を出せるはずないでしょ?」

「やっぱりか。その『偉い人』ってのはロセッティ枢機卿だな? そしておそらく、ティリーはロセッティ枢機卿の子だ。同じスクリプトを使う。そうじゃねえのか」

「その通りだよ。ボクは《バラート》の局長ディレットーレに愛されている女なんだ。雑魚の[工作員]のことなんか、何も心配しなくたっていいんだからね」


 高らかに言い切って、マキヤは鼻息荒く胸を張った。


 ――「愛」なんてものは、ゲイブリエル・ロセッティ枢機卿から最も遠いところにある概念だ。

 あのろくでもない高僧は、欲望を満たすため、そして将来 《バラート》の戦力となるスクリプト使いを増やすため、野獣のごとく女をむさぼった。

 八年前、電脳に取り込まれて電子的存在となったのも、天罰というやつだ。口さがない連中が言い立てているように。


「……あんたが枢機卿に最後に会ったのは少なくとも八年以上前だろう?」

「何言ってるんだよ。そんなはずじゃないじゃない。あの人とボクとは前世からつながっている運命の二人なのに」


 俺の言葉で何か妙なスイッチが入ったらしい。マキヤは突然、早口でしゃべり始めた。へちゃむくれ顔にうっとりした表情を浮かべ、自分を抱きしめるような仕草をしながら、室内を歩き回った。


「熱愛という言葉ですら足りない。一緒にいたくてたまらないんだよ、魂レベルで狂おしく求め合ってるんだ。……忙しい人だけど、ゲイブは今でも必ず二、三か月に一度は会いに来てくれる。会いに来ずにはいられないみたい。ボクと会うと『元気をもらえる』って言ってくれる。『君は私のビタミン剤だ』って」

「そういう妄想話は、そこのガキどもの寝物語にでも聞かせてやれ。……あんたはこの八年間、枢機卿に会ってない。ティリーはたぶん四、五歳だろうが、五年前、枢機卿は子供を作れるような状態じゃなかった。……ってことは、ティリーはおそらくクローンだな? あんたと枢機卿の間にできた、別の子供の」


 俺は言葉を切った。マキヤも何も言わなかった。急に訪れた静けさの中で、双子が退屈そうに床で足をばたつかせる音だけが響いた。

 こちらを見返すマキヤの黒い瞳に、一瞬怯えが走ったように思ったのは、俺の気のせいだろうか。


 相手の答えを待たず、俺は自分の思考を声にした。


「今この城が建っている場所には、昔、バンダースナッチ研究所という違法施設があった。《♢Aエース》――ベイカー・スナーク博士はどうやらその研究所の関係者だったようだな。博士のデスクに、研究所の古い写真が飾ってあったのを見た」


 おそらくハクト、レジィナ、俺の三人がバンダースナッチ研究所を襲撃したとき、若き日のスナーク博士もその場にいたのだ。どうやったのかはわからないが、なんとかハクトの[泡沫夢幻オブリビオン]を食らわずに脱出した。

 スナーク博士にしてみればハクトは仲間の仇だ。同僚を次々と廃人にしていくその姿は悪鬼のように映っただろう。

 先々月、博士が、潜入しようとしたハクトを一目見て《バラート》だと見破れたのはそのせいだ。ハクトを探し出して殺すようサーフェリーに命じたのも。


 博士は《ローズ・ペインターズ同盟》を立ち上げる苦労の中で、人相が変わるぐらい激太りした。記憶力の良いはずのハクトが博士を見分けられなかったのも、それが理由かもしれない。


「バンダースナッチ研究所には、クローン技術を扱う付属研究所があったらしい。……あんたはそこでティリーを『作った』んだな?」


 マキヤは大きく息を吸い込んだ。


「そこまでボクたちのことを調べてる、キミはいったい何者? 何が狙い?」


 その声はかすかに震えていた。わざとらしくはしゃいだ口調も消えてしまっている。


 俺は肩をすくめてやった。


「俺はあんたの過去には興味はない。ティリーが何者か知りたいだけだ。……ティリーの『原型』になった子供はどうした? 元気なのか?」

「……ぴんぴんしてるよ。元気すぎるぐらい」

「それじゃ、あんたはどうしてティリーを作った? 『原型』が病気で先が長くない、とかならわからなくもないが。同じ子供を二人も持つ意味があるのか?」

「キミは男だからぴんとこないだろうけど。女には、愛する男の子供を身ごもりたい、という本能があるんだよ。たとえクローンでも、愛する人の命の一部が自分の中で息づいてると思うと、とてつもなく幸せになれるんだ。子供は愛の象徴なの。だから何人いてもいい。

 それに、あのときは……五、六年前に、ゲイブから手紙が来たのよ。『私たちの愛の証をまた産んでほしい』と。ボクもいい年だったから、久しぶりの妊娠には勇気が要ったけど……ゲイブが背中を押してくれた。それで生まれたのがティリーちゃんなんだ」

「そうか」


 俺はマキヤの説明を額面通りに受け取っておくことにした。

 ロセッティ枢機卿が、《バラート》から脱走した昔の女と連絡を取り続けることも、出産するよう勧めることも、あり得ない話ではない。生まれた子供はスクリプト使いになる可能性が高い。それこそ枢機卿の望むところだろう。


「……ついでだから教えといてやる。最近、ロセッティ枢機卿が亡くなったらしいぜ。あんたを保護してくれるお偉方はいなくなっちまったわけだ。《バラート》はさっそく、あんたを仕留めるための刺客を送り込んできた。そいつはもうコルカタに来てる」


 ――俺は《ローズ・ペインターズ同盟》を調査するために派遣されたんや……。

 ――「潰せ」という命令は受けてへん。「様子を見てこい」と言われただけや……。


 ハクトのおどけた笑顔が脳裏をよぎる。あいつ、説法師のくせに平気で嘘ばかりつきやがって。


 ハクトは、《バラート》からの脱走者であるマキヤを処分するために派遣されたのだ。奴の狙いは教団ではなくマキヤ本人だ。

 これまではロセッティ枢機卿がマキヤの処分を止めていたが、枢機卿がいなくなった今、《バラート》にはもうマキヤを見逃す理由がなくなったわけだ。


「嘘だ……嘘だよ、そんなこと。信じないよ。ボクとあの人は魂のホットラインでつながってるんだ。あの人の身に何かあったら、ボクに感じ取れないはずがない……」


 マキヤは動揺をあらわにして何度も首を振った。


 八年前、枢機卿が電脳に取り込まれたことにも気づかなかったんだろ。大したホットラインじゃねえな。


「そんな嘘をついて俺に何の得があるってんだ」

「キミは……ボクを傷つけたいだけなんだ。意地悪をして、ボクが泣くところを見たいだけだ。そうなんだろう?」

「勝手に何とでも思ってろ。……ティリーのこともわかったし、俺はもう帰る。邪魔したな。あんたもさっさと妄想から目を覚まして、《バラート》対策を始めた方が身のためだぜ」


 俺はマキヤに背を向けて、ドアへ向かって歩き出した。


 条件反射で、半径三十メートル内の状況をざっとサーチする。主塔の中には俺たち以外に五人の人間がいる――性別も年齢もまちまちだ。下の階に四人と、隣の部屋に一人いる。使用人だろう。

 [仮想野スパイムビュー]に映る範囲では、本館への渡り廊下に警備員はいないようだ。



 ――俺の足がひとりでに止まった。


「ナイスアシストだニャ、《♠10》。君が邪魔者を引きつけてくれたので助かったニャ」


 誰もいないはずの空間で、聞き覚えのある声が響く。

 かと思うと、にやにや笑いのタイガーが唐突に出現した。


 そう言えば、このおっさんがいたんだった。マキヤとの会話に熱中するあまり、存在をすっかり忘れていた。


 俺の背後でかん高い悲鳴が起こった。少女の泣き声が続く。


「やだやだっ! マーチが死んじゃう! 誰か助けてよぉ!」


 振り返ると、フランス窓のすぐ前の白銀色のラグに深紅の点が散っていた。双子のうちの一人が額を血で染めて横たわっている。もう一人がぼろぼろ涙をこぼしながら、動かなくなった片割れにすがりついている。


 タイガーは哄笑しながら、城門に入る前からずっと携えていた人間用基本栄養剤の空缶を床へ投げ捨てた。缶には血がついていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る