(7)
活気あるダルハウジー広場の界隈から戻ってくると、灰色の四十二番街は廃墟のように見えた。築九十年超の建物が幽霊の群れのように陰気臭く並んでいる。
その中でもひときわ薄汚い雑居ビルの前にハクトとライデンが突っ立っていた。
「おい。何か変わったことはなかったか?」
俺の問いかけに、間髪入れず反応したのはライデンの方だ。
「偉そうに。私たちは、あんたに雇われてる門番じゃありませんよ」
ハクトの奴は、俺を見ようともしない。ぼんやりした表情で視線を虚空にさまよわせている。何も言わない。
「どうしたんだ。立ったまま寝てんのか?」
俺はハクトの肩を軽く小突いたが、奴はそれでもこちらに顔を向けない。無表情のままぼーっと佇んでいる。ふと、その色素のない唇が動いた。うわごとのような言葉が漏れ出た。
「ログインID、『グリフォン』…………」
「何だって?」
突然、ハクトの瞳が焦点を結んだ。初めて俺の存在に気づいたと言わんばかりに、驚きの表情を浮かべた。
「え? あれ? 俺、今、何か言うたか?」
「ログインID『グリフォン』、と言ったぞ」
「グリフォン? 何やそれ。そんな奴、聞いたこともないわ」
ハクトの様子は明らかに異常だ。悪い予感しかしない。
「おい、俺がいない間に、何があった? 誰か来たんじゃねえのか?」
俺の質問に、二人は揃って首を横に振った。
「誰も来てへん。何にもなさ過ぎて、あくびが出るほどや」
「通り過ぎる人さえいませんでしたよ。この辺りはずいぶん寂れた場所なんですね」
俺はハクトたちが守っていたビルの玄関を抜けて、階段を駆け上がった。茅尚ママの
俺は足を止め、なじみ深いイタリア料理店の扉を押し開けた。
店内には意外なほど大勢の人間がいた。
食事をしているわけではない。円卓を囲んで座った女たち――『媽媽的店』の常連の、ヒッタイト・ダンス教室の受講生たち――が真剣そのものの表情で、ひっきりなしにかかってくる電話を受けているのだ。
「はーい。二日目第三試合、ウォリアーズに三百CPですね」
「フラミンゴズに五百CP。承りました」
女たちの後ろでふんぞりかえっているママが、俺を見ると満面の笑みを向けてきた。
「あらぁ、リデルさん。『賭けには興味ない』なんて言ってたくせに、やっぱり気が変わったみたいね。いいのよぉ。そういう心変わりは大歓迎。さあさ。賭けてってちょうだい」
「いったい何やってんだ、あんたは?」
「何って。見ての通りよ。『コートボール』への賭けを受け付けてるの。毎年これでずいぶん儲けさせてもらってるのよね。現在一次リーグ戦を全戦受付中よ。……って、
背筋にいきなり氷を落とされたみたいに、心臓が縮んだ。
「何のことだ、『さっき』ってのは。俺は今日ここへ来るのは初めてだぞ」
俺の言葉に、茅尚ママと円卓の女たちは不審げに顔を見合わせた。
「やあねえ、リデルさん。昼間っから酔ってるの? つい五分ほど前にも来たばかりじゃない」
「ティリーはどこだ!?」
俺の叫びに、店内は一瞬静まりかえった。だがそれは一瞬だけのことだった。すぐに、女たちのかしましいさえずりが始まった。
「何言ってるの。あなたが自分で連れて帰ったでしょ。さっき来た時に」
「まさかそんなことも忘れちゃったの? ひどい酔っ払いね。あんなに仲良さそうに手をつないで、一緒に出て行ったのに」
世界がぐらぐら揺れているような気がした。俺は姿勢を保ち続けるため必死で足を踏みしめた。
「――それは……俺じゃねえ!!」
「もうっ……。今日のリデルさん、おかしいわよ。間違いなく、あなただったわよ。服装だって今と同じ」
「長いつき合いなのに。あたしたちがあなたを見間違えるわけないでしょ?」
茅尚ママは、俺が『媽媽的店』のバックヤードや三階のママの居室まで調べることに同意した。だがティリーはどこにも見当たらなかった。
雑居ビル全体を探し回ったが、結果は同じだった。ティリーは消えてしまっていた。
俺は辻馬車を拾って再びダルハウジー広場へ向かっていた。
勝手についてきやがったハクトとライデンも同乗している。辻馬車は百八十センチ超えの大男が三人も乗り込むようにはできていなかったので、車内には息がつまるほど狭苦しい空間が現出していた。
「『ありもしないものを知覚させるスクリプト』、やて? それを使うて、そのキングって野郎が俺らの鼻先からティリーちゃんをかっさらっていった、っちゅうんか」
と、窮屈そうに首をすくめたハクトがそれでも飄々とつぶやく。
「俺らには、誰も来なかったと思わせた。店の中の姉ちゃんたちには、おまえがティリーちゃんを迎えに来たと思わせた。……[
「その可能性は高いですね。直前の記憶を書き換えられると、脳が記憶と目の前の現実との整合性を保とうとして、勝手に知覚を歪めようとします。その働きを使用して、『ありもしないもの』を知覚させる……」
ライデンがしかつめらしい顔つきで口をはさんできた。ハクトは鼻を鳴らした。
「そんなスクリプト何の役に立つんや、とずっと思てたけど。敵に使われてみると、めちゃくちゃ厄介やな。俺らには現実と虚構の区別がつかへん。スクリプトを使われたことすら自覚できへん」
「汎用性が低い割に、難易度が高いスクリプトだと聞いてます。正式な訓練も受けてない『野良』ごときに、本当に使いこなせるんですかね?」
「使いこなせるからこそ、おまえらもまんまと鼻を明かされたわけだろ。あっさりティリーをさらわれやがって」
俺がそう言ってやると、ライデンは口をつぐんだ。不服そうに大きな鼻の穴がひくひくしている。
ハクトが考え込む表情で腕を組んだ。
「《バラート》本部にも今、[事実無根]を使える奴が一人おるが……回数制限がある。[
「へえー、意外と大したことないんですね、
挑発的に目をぎょろつかせたライデンと無表情のハクトとの間に妙な緊張感が流れた。
パーソナルスペースの侵害は人をいらつかせる。すぐ眼前で見せつけられるくだらない漫才に、俺はふだんより早く忍耐の限界に達し、怒鳴りつけた。
「どうでもいいんだよ、そんなことは。内輪もめなら馬車の外でやれ。そもそも、なんでおまえら俺にくっついてくるんだ? うっとうしい」
「えー、そんなつれないこと言いなや。俺たち仲間やろ? どこへ行くにも一緒やで」
「決まってるでしょ、あんたから目を離さないためですよ。本部から無期限手配を受けてる人間を逃がすわけにはいきませんからね」
息の合ってないコンビが、正反対の内容で声を揃えた。
道路の交通量が目立って増えてきた。窓の外を、他の馬車がしきりと行き過ぎる。市の中心部が近づいているのだ。
《ローズ・ペインターズ同盟》の本部はもうすぐだ。
ハクトが俺を見て、なだめるような声を出した。
「おい、アリス。その『
「寝ぼけたことぬかすな。誘拐犯を相手に、話し合いもくそもあるか」
「ここで事を荒立てたらあかん。メッカからの増員が到着するまで《ローズ・ペインターズ同盟》には手を出すな、というのが本部からの命令や。十分な戦力もないのに中途半端に攻撃を仕掛けて、敵を警戒させたら、何もかも台無しやからな。ティリーちゃんが心配なのはわかるが、あとちょっとだけ辛抱せえ」
「だったら、おまえらは引っ込んでろ。俺が一人で《同盟》に乗り込んでスナーク博士をぶちのめし、ティリーを取り戻す。これは俺個人の問題で、《バラート》とは関係ねえ。あんなイカれた連中のところにあいつを置いておけるか」
「――メッカからの増員なんか待ってたら、何か月先になるかわかりませんよ。最近の《バラート》本部のフットワークの悪さときたらゾウガメ並みだ。稟議だの審査だの、非合理的な手続ばかり多くて、いつまで経っても物事が進まない。そうじゃないですか?」
ライデンが再び、生意気な若手らしい尖った横槍を入れてきた。漆黒の顔の中で大きな目玉が輝いている。
ハクトが顔をしかめ、舌打ちした。
「上官への不服従に、上層部批判か? このことはアメリカ支局に報告するで、ライデン」
「好きにやらせればいいんですよ、この男に」
太い親指が、俺に向かってぐいと突き出される。
「勝手に一人で《同盟》に突入させればいい。奴らに爪痕を残すことぐらいはできるでしょ。この男がやられても我々には損はないし……運が良ければ、我々も《同盟》の隙をついて何かできるかもしれない。上の決定をただ待っているより、よっぽどましです」
馬車がダルハウジー広場で止まり、扉が自動で開いた。俺が運賃の精算をしている間に、ライデンが巨体に似合わぬ敏捷さでひらりと飛び降りた。
「足手まといにはならないでくださいよ。見捨てますからね」
俺を振り返って、にやりと笑う。かと思うと、バザールの方角へ向かって猛然と駆け出した。
完全に、先頭を切って《ローズ・ペインターズ同盟》に乗り込む気だ。俺を「一人で突入させる」んじゃなかったのか?
「こら、待て、ライデン! おまえ単に暴れたいだけやろ? この脳筋ドアホが!」
ハクトの怒声を聞き流し、俺は教団本部めがけて走った。
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