(5)

 その瞬間、俺は自分でも不思議なほど、驚きを感じなかった。


 夕方アパートに戻ると、部屋のドアの前にアリスが座り込んでいたのだ。

 例によって無言でこちらを見上げている。


 この子供がどういうわけか簡単に警察を抜け出せることも。理由はわからないが、俺に対するこだわりを持っていることも。

 俺はすでに既成事実として受け入れ始めていた。

 だから、意外には思わなかった。とっくに予想できていた顛末のような気もした。

 ――無機的な瞳と視線を合わせたとき、背筋に冷たいものを感じはしたが。




 俺はアリスを連れて、通りの向かいにある『媽媽的店』へでかけた。

 食事をしている間、好奇心ではち切れんばかりの常連客どもの視線が俺たちに突き刺さっていた。


 アリスの前にジェラートを置きながら、茅尚ママが蠅ぐらいなら撃ち落とせそうな重々しいウィンクをよこした。


「デザートはサービスよ♪ 可愛い娘さんに」

「俺の子じゃねえって言ってるだろ、この歩く怪奇大辞典が」


 ――だが誤解を解くのは難しそうだ。「娘でないのなら何なのか」という問いに答えられないからだ。



 もうアリスをコルカタ中央署へ連れていくのは無理だ、と俺は観念していた。

 あのオオカミ警官も「三度目はない」と言っていた。俺たちはすでに怪しまれすぎている。

 今度行ったら、警察は全力で俺たちの正体をつきとめにかかるだろう。その結果アリスの身元もわかるかもしれないが、俺のIDが偽造であることも見破られる可能性がある。それはなんとしても避けたい事態だ。


 この子供を《ローズ・ペインターズ同盟》の事務所へ連れていこう。それしかない。

 こいつが《同盟》の幹部の関係者であることは、ほぼ確実だ。《同盟》の事務所に、こいつの身元や親を知っている人間もいるかもしれない。幹部の身分証であるこのバッジを見せれば何とかしてもらえるだろう。


 昼間の様子からするとどうやらハクトが《ローズ・ペインターズ同盟》を探っているようだ。俺が《同盟》の事務所に再び足を運べば、奴にみつかるおそれもある。

 だが、今日あれだけ騒がれ、「殺し屋め」と追いかけ回されたのだ。ハクトもあの事務所へはうかつに近づけないはずだ。


 多少のリスクはあるが、アリスを《同盟》に任せるのが最善手だ。このわけのわからない子供とおさらばするのだ。




 翌朝、俺たちは前の日と同じ行動を繰り返した。簡単な朝飯を食って、乗合馬車でダルハウジー広場へ向かった。また警察署へ連れていかれると思っているんだろう。アリスは落ち着き払っていた。警察などいつでも抜け出せるという自信がついたのかもしれない。


 広場で馬車を降りると、俺はアリスの手を引いてバザールの迷宮へ踏み込んだ。

 屋台街は昨日と変わらぬ喧騒に満ちあふれていた。アリスが目に見えて体をこわばらせた。


「いや……いや……そっちは、いや……!」


 うわごとのようにつぶやき、首を横に振る。大きな瞳にすでに涙が浮かび始めている。

 その反応は俺の足を速めさせた。


 ――やっぱりこいつは《ローズ・ペインターズ同盟》の関係者だ。間違いねえ。

 この道の先に《同盟》の事務所があることを、こいつは知ってるんだ。

 本人が嫌がろうと何しようと、《同盟》にこいつを保護してもらわなくては。


 突然、目の前の雑踏が裂けた。

 人込みを割って、ブドウの実のようにまん丸な体つきの小男がぬるっと現れた。昨日、《ローズ・ペインターズ同盟》でハクトを殺し屋呼ばわりしていた男だった。


 事務所の近くなのだから、《同盟》の人間と路上でばったり出会うのは偶然でも何でもない。むしろ必然といってもいいだろう。

 まん丸な男は足を止め、愕然とした表情でアリスを見下ろしていた。口を何度も開け閉めするが、言葉はなかなか出てこない。


「ティリー様っ……! どうして、こんな所に……!?」


 肥満体に似合わないか細い叫びが絞り出される。


 それに対する女児の反応はすさまじかった。

 耳を打つその大音声が人間の悲鳴であると認識するのに、少し時間がかかった。

 響きわたるサイレンのようにけたたましい金切り声。


 視界に入るすべての人間の頭がこちらを振り返った。


 唯一の例外は、俺たちの前に立つハンプティ・ダンプティ男だった。驚いたことに男は地面にへたり込んでいた。どうやら腰を抜かしたようだ。丸顔を恐怖にひきつらせ、必死で逃げようともがいている。


「やめっ、やめてくださいっ、ティリー様。どうか落ち着いて。何も……何もしませんから。あなたの邪魔をするようなことは。お願いです。お願いだから……どうか……どうか心を静めてくださいっ……!」


 アリスは叫ぶのをやめない。こんな小さな体のどこからこんな大きな声が出てるんだ。

 《ローズ・ペインターズ同盟》の男は俺たちから離れようと、腕の力だけで地面を這いずっている。その一方、大勢の通行人が足を止めて俺たちを凝視している。


「おい。そんなにわめくな。……わかった、そんなに帰るのがいやなら無理に帰したりはしねえよ。だからちょっと落ち着け」


 俺はなんとかなだめようとしたが、アリスは聞いている様子がない。人間離れした声量で悲鳴をあげ続ける。


 突然、聞き間違いようのないピピーッという音が響いた。コルカタの警官が吹く笛の音だ。

 振り返ると、人込みをかき分けて三人の制服警官がこちらへ向かってくるところだった。屋台の店員の一人が、俺たちを指さした。警官たちの視線がまっすぐ俺をとらえた。


 どうやら通報されたらしい。殺されそうな悲鳴をあげる女児と、その手を引いている人相の悪い男、とくれば誘拐と勘違いされても仕方がない。

 あいにく、ここはコルカタ中央署のすぐそばだ。警官は即座に駆けつけることができる。


 俺の最初の衝動は、アリスの手を振りほどいて全力で逃走することだった。逃げ足には自信がある。

 だが小さな手が機械的な剛力で俺の腕に食い込み、離れようとしない。


 そのとき、聞き覚えのある男の声が空気を切り裂いた。


「―――!」


 声は、俺が《バラート》にいた頃使っていた名前を叫んだ。

 うかつなことに、あわてふためいていたので、呼ばれているのが自分だと一瞬認識できなかった。


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id ('white_rabbit')


 視界を深紅の奔流が横切った。

 大量のスナック菓子『VIVA☆カプサイシン』が高速で宙を飛び、警官たちの顔面にまともにヒットした。


「……こっちや。はよぉ!」


 どこからともなく現れたハクト・イナバがこちらへ向かってしきりに手招きしていた。


 いつの間にかアリスの絶叫は止んでいた。俺は――ますます誘拐犯らしく見えるのを覚悟で――女児の軽い体を肩にかつぎ上げ、ハクトの指さす方角へ向かって駆けた。

 目つぶしを喰らった警官たちの絶叫と悪罵が、背後でどんどん遠くなっていった。





 ハクトは、屋台の並ぶバザールのメインストリートからさらに奥へ入った路地へ俺たちを誘導した。崩れかけた建物の側壁、明らかに数十年にわたり放棄されたままになっている大量のごみ。[ダイモン]の管理さえ及ばない、文明から忘れ去られてしまったような薄汚れた路地が複雑怪奇にうねりながらどこまでも続いていた。


 さすがにここまで来れば警官も追ってはこられないだろう、というところまで逃げてから、ハクトはようやく足を止めた。

 体力のないこいつは、とっくの昔に走るのをやめて早歩きに切り替えている。それでも息を弾ませている。

 俺はかついでいたアリスを降ろした。俺たちは灰色の路地で、しばし黙って視線を交わした。


「……あれぐらい、俺一人でも切り抜けられたぞ。おまえの助太刀がなくても」


 きっぱりと、そう言ってやった。俺を助けた相手の意図が読めないので、警戒はゆるめない。奴がスクリプトを使いそうなそぶりを見せたら即座に限定クオリファイできるよう、頭の中でシーケンスを開始する。


 ハクトは緊張感を感じさせないのんびりした仕草で肩をすくめた。


「わかっとる。助けたのは『友好の証』ってやつや。……おまえと話をしたかったんや。俺に敵意がないってとこ見せとかんと、おまえ、俺を見た瞬間に攻撃してくるやろ?」

「当然だ」

「あ。おまえ、『先手必勝タコ殴りモード』の顔になっとるぞ。何かようわからん時はとりあえずボコっとけ、とか思とんねんやろ。勘弁してくれや。話ぐらい聞け」

「変な名前つけるな。そんなモードあるか。……話って何だ」


 みぞおちに一発で片がつくな、と思案していたのは事実だったので、俺の声にも若干勢いがなくなる。


 ハクトは俺のかたわらのアリスにちらりと視線を投げた。が、警戒不要と判断したのか、ゆるゆるした口調のまましゃべり始めた。


「俺はおまえを追ってこの街へ来たわけやない。おまえに対する[泡沫夢幻オブリビオン]の使用許可も、とっくの昔に取り消されとる。もうおまえの記憶を吹っ飛ばしたりせえへんから、あんまり身構えんなや」


 俺は答えなかった。


 [泡沫夢幻オブリビオン]は、いつでも、誰に対しても、使えるスクリプトではない。人の精神を侵すという重大な結果をもたらすものなので、スクリプトには厳格な制約が組み込まれている。

 使用の対象と期限――「誰に対して、いつまで使用してよいのか」――を明確に仕切った上で、[工作員スクリプト・ハンドラ]の所属している教団の指導者が許可を出す。その許可を[工作員]が認識して初めて、スクリプトは発動する。


 だが、ハクト。おまえの方こそ「腹に一物あるねん」モードの顔になってんぞ。


 五歳の頃から一緒に育ち、一緒に仕事もしてきた俺たちには、お互いの手の内がわかる。

 ハクトはブラーフモ・ドクトリンの本職の下級説法師でありながら、《バラート》の任務のためなら平気で嘘をつける男だ。ブラーフモ・ドクトリンの教義では嘘を厳しく戒めているはずなのだが。

 組織の大義をわがものとし、葛藤なく献身できる。それが優等生の資質の一つなんだろう。


 だから、「もうおまえを攻撃しない」という相手の言葉を、俺はこれっぽっちも信じていなかった。

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