(4)
コルカタ中央署の正面玄関を出て、陽光の降り注ぐダルハウジー広場へ歩み出す。
俺はふと、空っぽの右手を強く意識した。
どうかしてるぜ、と自分の感傷を笑い飛ばそうとした。
たかが一晩泊めてやったぐらいで情が移ったか。
アリスの悲痛な泣き声、こちらをじっと見上げる寂しげな瞳が、頭から離れない。
――関係ない。俺には関係ない。
確かに不思議な点の多い子供だったが、警察が何とかするだろう。
昼前のダルハウジー広場はいつもながらの猥雑な活気に満ちている。広場と名はついていても、前世紀の始めまでここにあったのは緑に囲まれた池だったらしい。だが狂乱じみた住宅不足のため池は埋め立てられ、高層マンション街に化けた。今は、ここは文字通りの広場となっている。乗合馬車のロータリーを中心とする、だだっ広いスペースだ。
とはいえ、広大な面積の三分の一ぐらいは、南側のバザールからはみ出してきた雑多な屋台や仮店舗で占められている。商人のエネルギーはすさまじい。広場が完全にバザールに呑み込まれる日は近いだろう。結構な人数の通行人が、何を売っているのか判然としないカラフルな屋台の迷路へ消えていく。
建物の壁という壁を覆っている巨大看板がカオスな雰囲気に拍車をかけている。役所を除き、広場に面しているビルはすべて、低い部分の壁を広告スペースとして提供している。
ダルハウジー広場の広告料金の相場は高い。びっしり並んでいる看板は大手企業のものばかりだ。
普段ならそんなもの、ろくに見もしないのだが。
今日はそのうちの一つが否応なしに意識に飛び込んできた。
それは《ローズ・ペインターズ同盟》の教祖、マキヤ・アスドクールの顔のどアップを掲げた看板だった。
――「努力をしなくちゃ夢はかなわない」と思っていませんか?
ツッコミどころ満載のキャッチフレーズの下、だいぶ若く見えるよう補正されたへちゃむくれ顔が微笑んでいる。
――なぜ、そんなにがんばるんですか? 祈るだけですべてがかなうのに。
花園への扉を開く。あなたの《ローズ・ペインターズ同盟》。
看板の下の方にマキヤの服の襟元が写り込んでいる。
そこに銀色のハートがあった。とてつもなく拡大されているので見間違いようがなかった。アリスがつけているのとまったく同じハート型のバッジだ。細かいダイヤモンドに縁取られた濃いピンク色の宝石。
「俺には関係ない。かかわるな」という理性の叫びを好奇心が上回った。
看板の縁に印刷されたコードに目を凝らすと、《ローズ・ペインターズ同盟》の最寄りの事務所までの経路が自動的に俺の[
俺の足は吸い寄せられるようにその方角へ向けて歩み始めていた。
屋台がひしめき合う通りを、人をかき分けるようにして進む。肉の焼ける香気、屋台で売られているスパイスのにおい、異国の服飾品のにおい。においの不協和音に嗅覚が音を上げる。[ダイモン]がこれらのにおいを「不快な刺激」に分類していないので、[
《ローズ・ペインターズ同盟》の事務所は、何の変哲もない古びた黄色のビルにあった。
ビルの入口は屋台の列の奥にある。
俺は果物屋の屋台と干し肉を売っている屋台の間の狭い隙間を苦労してすり抜けた。開け放たれたビル入口の扉をくぐったとたん、静けさが俺を包んだ。目に見えない遮音壁でも立ててあるかのように、バザールのざわめきが一瞬で遠ざかった。
そこはちょっとしたロビーだった。受付カウンターがあり、壁に沿って長椅子が二脚置かれていた。長椅子も床に敷き詰められたカーペットも真新しく、見るからに上等な代物だ。教団の財力が察せられる。
人の姿はなかった。受付カウンターの奥に座っている若い女を除いては。
つり目で、顎が鋭く尖った、キツネみたいな顔つきの女だった。短く刈り込んだ黒髪と鋼色のスーツが、攻撃的な雰囲気を醸し出している。
だが、女が俺に微笑みかけたとたん、シャープなイメージが霧散した。頭のネジが二、三本外れていそうな、ふにゃっとゆるみきった笑顔。
「ようこそいらっしゃいました。入会ご希望ですか? ちょっとお待ちください、すぐに支部長を呼んできますね。あ、大丈夫ですよ。そんなにお時間はかかりませんから。私たちの勉強会についてちょっとご説明するだけです」
はしゃぎ気味の相手に対し、ちょっと引いてみせる。それは宗教団体の事務所に初めて足を踏み入れた人間の正常な反応だ。
「いや……まだ入信すると決めたわけじゃねえから……説明はいらねえ。パンフレットなんかは置いてないのか?」
「パンフレット、もちろんありますとも! はい、どうぞ。……金曜の夜にカリガート公会堂で勉強会があるんです。よかったら、いらっしゃいませんか? 未信者の方も大勢いらっしゃる勉強会ですから、初めての方でも来やすいですよ。一度顔を出していただければ、私たちの教団の教えがどのようなものかすぐにわかっていただけると思います」
パンフレットを受け取りながら、俺は目の前の女を観察した。
ほがらかな熱意も笑顔も、明らかに心底からのものだ。恐怖によって支配されている様子ではない。金をもらって演技をしているわけでもなさそうだ。
女のスーツの襟元に小さなバッジがついている。銀色の
「入会金は、いくらぐらい要るんだ? 入信するのに金はいくらかかる?」
俺は小心者の猜疑心を装って、女の顔に目を凝らした。
こういう演技はお手のものだ。《バラート》にいた頃は、数えきれないほどの新興宗教に潜入してきた。人に「しょぼくれ」と評される俺の外見は、ぱっとしない人生を神頼みで打開しようとする男の役にうってつけだ。潜入の段階で疑われたことはない。
案の定、女の微笑みはほとんど
「ご心配いりませんよ。教団の方から『お金を出してください』と無理にお願いすることはありません。強制されて出したお金など、神様はお喜びになられませんから」
「俺の知り合いに教団の信者がいるんだが……そいつはいつも、宝石の嵌まった
「宝石の嵌まったバッジ……バラ色の、宝石ですか?」
女の表情が初めて影を帯びる。俺はうなずいた。
「……そのお知り合いの方というのは……どういう方ですか。バッジはどんな形をしてました?」
テンションの下がった口調は、女が質問の答えを
「そいつが誰なのかは、ちょっと、言いたくねえな。バッジはスペードの形だったよ」
「……!」
女の笑顔に温度が戻ってきた。俺の答えは正解だったようだ。
「宝石入りのバッジは教団幹部の身分証です。買ったりするものではないんですよ。教団が特に認めた人だけが幹部になれるんです……『神様に近い』と認められた人たちです」
神様に近い、だと? あのルーラント・サーフェリーがか? 笑わせるぜ。
俺はさらに一歩踏み込んだ。
「子供でも幹部になれるのか。教団が認めさえすりゃ」
「子供……? えーっと、それはもしかして……十七、八歳の子のことですかね? ピンク色の髪の?」
「いや。五、六歳の子供だ。それぐらいの年の幹部はいるのか」
「五、六歳? さあ……聞いたことありませんね。幹部は世界中にいますから。私も全員知っているわけじゃないんですよ。あなたのご存知の幹部というのが、その五、六歳の子供なんですか? ……」
本当にわからないといった様子で、女は首をかしげた。
そのときだ。
ロビーから建物の奥へ通じている通路で、複数の男の怒声が響いた。金属製の物が階段を転げ落ちるような、けたたましい騒音が弾ける。
「捕えなさい! 逃がしてはいけません! その男は敵です。殺し屋ですよ!」
宗教団体にふさわしくない物騒な叫び声があがった。
女と俺は会話を止め、騒ぎの方に視線をやった。通路の奥から七、八人の男がこちらへ向かって猛然と駆けてくるところだった。先頭を走る男には見覚えがありすぎた――群を抜く長身。オールバックに固めた白髪。深紅のリムのアイシールド。真っ白なスーツの上下。
《白ウサギ》ことハクト・イナバだった。
なんで奴がここに。
俺は手にしたパンフレットであわてて顔を隠した。
だがハクトは俺の存在に気づいていないようだ。必死の形相で駆けている。運動神経の鈍い奴にありがちな、無駄な動きの多い、手足がうまく連動していない走り方だ。
いきなり脚をもつらせ、すっ転んだ。何も障害物のないカーペットの上で。
倒れたハクトは追手に取り囲まれた。左右から腕をつかんで引きずり起こされた。
少し遅れて、男がもう一人、通路の奥から駆けてきた。おそろしく太った、背の低い男だ。マザーグースの挿絵に描かれているハンプティ・ダンプティはたいていこういう感じだ。そのボールのような体形にきれいにフィットしている焦げ茶色のスーツは明らかに仕立てが良い。銀色の髪をきれいに撫でつけている。年のころは四十前後か。
男は激しく息を切らしながら、それでも大きな声を出した。
「この、宗教に名を借りた、邪悪な殺し屋め! よくもここに顔を出せたものですね。ただでは済ませませんよ、この悪党がっ……!」
――ハクトのまとう気配が変わった。
俺には、次に何が起きるかわかった。
「おい、目を閉じろ」
受付女の肩を叩いて警告する。次の瞬間、数年ぶりに見るアラートのきらめきが[
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id ('white_rabbit')
ハクトがスクリプト[
それは『
唐辛子エキスをたっぷり生地に練り込み、表面にも粉末唐辛子をまぶしてある。まさに悪魔の食べ物だ。
「こんなお菓子が好きだなんて言ったら……変な子だと思われちゃう」
十代の頃、しぶるレジィナから、ハクトはやっとのことで好きな菓子を聞き出したのだ。ハクトはぼろぼろ涙をこぼし、下痢に苦しみながら、この激辛スナック菓子を何パックも食って味と食感を覚えた。そしていつでも自在に[スイーツパラダイス]で再現できるようになった。
苦労しただけの甲斐は十分にあったわけだ。
当時レジィナを喜ばせることができたし――あれから長い年月が過ぎた今でも、有効な攻撃手段として活用できているのだから。
唐辛子の粉がしこたま目に入り、男たちが苦痛の叫びをあげた。
パンフレットで顔を隠したうえに目を固く閉じている俺のすぐ横を、どたどた、というぶざまな足音が通り過ぎていった。
屋外へ逃げ出したハクトが二十五メートル以上離れれば、スクリプトの効果が消え、猛烈な目の痛痒さも消える。粘膜に傷が残ることもない。だがそれまでの数秒間、この男たちは拳で両目を押さえてのたうち回る羽目になる。奴らにとって、目の中に飛び込んできた赤い塊は幻覚ではなく、確固たる[現実]だからだ。
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