(8)
震える声で叫んだ[料理番]に、スナーク博士はゆっくりと顔を向けた。
「穴を掘ってもらってるんですよ。……十メートルの穴ですからね。いくら人手を大勢確保できているとは言っても、やはり素手では限界があるでしょう? 爆弾を使えば、作業は速い」
ごく当たり前の知識を生徒に伝える教師の声で、淡々と答えた。語られている内容のぶっ飛び具合は、口調にまったく反映されていない。
「
現在コルカタ市内に出回っている《臣下の証》は十万個近いはずです。それらがすべて、あのグラウンドの中心に投げ込まれるとすれば……十メートルの穴どころか、もしかすると、爆弾だけでデータセンターを破壊できてしまうかもしれませんね」
[料理番]はぎりぎりっと歯を噛みしめた。
「聞いてないっ……! そんな話、聞かせてもらってないわ、ベイカー。あなたは後出しが多すぎる。アンフェアよ」
「確かに話してはいませんでしたが……問題ありますか? 教団が信者全員に《臣下の証》を十万
あなたはそのことを知っていたし、何年も文句を言わずに幹部手当を受け取り続けてきた。
《臣下の証》が、役に立たないただの彫像ではなく爆弾だとわかったからと言って、何だというのです? 道徳について議論したいのですか? それを言うなら、我々の行為の反道徳性は爆弾自体にあるのではない。そして、あなたも立派な共犯者だ。この期に及んで騒ぎ立てるのはおかしいですよ」
「だけどっ……グラウンドにまだ選手がいるのに、爆弾を投げ込むなんて……!」
テレビの画面は、破損した選手たちの死体の一部を無情に映し出している。クリケットの生中継の続きなのだろうが、アナウンサーもカメラマンも逃げてしまったようだ。放送は完全に無音で、カメラは引き気味にグラウンド全体をじっと固定で撮影している。
[料理番]はテレビから目をそむけた。その視線はスナーク博士の隣のソファへ移動した。
並んで腰かけている双子とティリーに、テレビを見せまいとするかのように、メグが大きく腕を広げ、子供たちをまとめて抱きしめているところだった。
スナーク博士は、肉がこんもりと盛り上がった肩をすくめてみせた。
「市のテレビ局との連携ミスで、行動開始が予定より早まってしまいましたが……観客がまだ誰一人席を立とうとしない、試合の最後のクライマックスで開始するつもりでしたからね。どちらにしても選手を巻き込むのは避けられない結果でした。十万個もの爆弾を使う作戦ですから、死傷者がゼロなどということはあり得ませんよ。あらゆる革命、あらゆる進歩に犠牲はつきものです。
だが、信じてください、《
「……!」
[料理番]は、荒い呼吸に胸を上下させながら、スナーク博士をじっと睨み据えていた。
テレビに映るコルカタ・クリケット・グラウンドでは、依然として無数の爆弾が宙を舞っている。爆発は止まらない。美しい芝生に覆われていたグラウンドは巨大な一つの穴と化してしまっている。穴の淵にいくつかの死体が引っかかっている。
――突然、穴の底から黒煙が噴き出してきたように見えた。
黒煙は妙に粘り気のある動きで、地面を覆うように広がった。次の瞬間、テレビ画面が激しく明滅した。宙を飛びかっていた爆弾がきれいさっぱり消滅した。
黒煙と見えるものは、密集飛行する小型迎撃ドローンの群れだ。そいつらが、機械にのみ可能なレーザービームの精射によって、爆弾を瞬時にもれなく撃ち落としたのだ。
――という理解が追いついてきたのは、「黒煙」を構成する個々の機体の姿をようやく視認できるようになってからのことだ。
ついに、データセンター側の自動防衛機構が作動した。
人間がデータセンターへの攻撃を続ければ、ドローンのレーザーで焼かれるだろう。
[
「ふっ……予想通りだ。手を打っておいた甲斐がありましたよ」
スナーク博士の口元が笑みに似た形に歪むのを、[料理番]=俺の目ははっきりとらえた。
「動画四-Bの再生を開始してください」
傍らの小卓に載っていた電話を取り上げ、呼出先さえ指定せずにいきなり用件だけをつぶやいた。
電話はコルカタ・クリケット・グラウンドの管理室への直通だったようだ。テレビからマキヤの晴れやかな声が流れ始めた。
「いよいよですよ! ついに、幸福の宝箱の蓋が開きました!」
マキヤの声は場内放送に乗ってグラウンド内に響きわたった。テレビ画面には入っていないが、おそらくグラウンドの場内スクリーンにマキヤの姿が映っていることだろう。
「忠実なる臣下の皆さん。さあ、飛び込んで。その穴の中に。そこにはこの世のありとあらゆる幸福が詰まっています。成功、健康、長寿、愛、財産、自由……あなたの欲しがっているものがすべて、そこにあります。ためらっている暇はないですよ。遅れをとったら、その分、あなたの幸福の取り分が減ります。大急ぎで、つかめるだけの幸福をつかみ取ってください。さあ、今すぐ、走り出せ! 飛び込め! 競走だ! トゥイードルダム・トゥイードルディー!」
反応は、即座に現れた。
観客席を埋め尽くす十万超の観客と、マキヤの呼びかけに応えて参集した数万人の信者は、遠くからだと、無秩序な色彩の点をびっしり敷き詰めた巨大な一枚の幕のように見える。その幕が不意に観客席の枠から外れ、だらりと地面に向かって垂れ下がった。たちまちドローンの発射するレーザービームが、場内に充満する砂煙を不吉に輝かせる。だが、幕の広がりは止まらない。
「その穴は、幸福の宝箱ですよ。ぱっくり口を開けて皆さんを待っています。さあ、脇目もふらず、飛び込んでください。他人のことなんか気にしてる場合じゃないです。幸せというのは自分一人だけのものですから。他人を踏みつけ、蹴散らしてでも、あなたの幸せを手に入れちゃってください。邪魔するものは叩きのめしてください。どんな手を使ってでも幸せをゲットしてください。急いで急いで! トゥイードルダム・トゥイードルディー!」
洗脳された観客や信者たちはマキヤの言葉に踊らされ、次々と観客席からグラウンドへ飛び下り、大穴へ駆け寄っていく。迎撃ドローンのレーザーが機械的な正確さで、殺到する人間たちを撃ち倒していく。ドローンの数は多く、一秒に一回以上のペースで放たれるレーザーは百発百中だ。だが人間たちの数はそれ以上に多い。レーザーに倒されずに済んだ人間たちが大穴に飛び降りていく。野蛮に振り回された棒切れがドローンを叩き落す――「武器になりそうなものを持ってこい」というマキヤの命令を受けて、信者たちは野球のバットや園芸用ハサミ、鎌、ブッチャーナイフなどを手にしているのだ。
レーザーに焼かれ、あるいは群衆の圧力で押し倒され、踏みつぶされて、至るところに死体が転がり始めた。乱舞するレーザーの中、人間どもは血染めの肉のカーペットを踏み越えて大穴へ群がった。
「嘘つき!!」
[料理番]が金切声を張り上げた。
「何が『最小限の犠牲』よ。あなたはめちゃくちゃだわ、ベイカー。こんなに大勢の人たちを死なせて……!」
「厳密に言うなら『
くつろいだ態度でソファに巨体を預けるスナーク博士は、薄笑いさえ浮かべていた。
「データセンターは強力な迎撃システムに守られています。電脳が制御するドローンに、生身の人間が立ち向かっても勝てる道理がありません。ですから、『数』で勝負することにしたのです。一台のドローンに対し百人の人間を用意すれば……ドローンも百人を同時に殺すことはできませんから……たとえ九十九人が死んでも、最後の一人がドローンを破壊できるでしょう。
ティリーを危険な場所へ連れていくわけにはいきませんからね。まずは人海戦術で大掃除をして、脅威を完全に排除しなくては。そのために必要な最小限の犠牲です。データセンターへ至るのに、他の方法はないのですよ」
「狂ってる! あなたは狂ってるわ。……あんな所へ、小さい子を連れて行かせるもんですか」
[料理番]は、まだ少女たちを抱きしめたままのメグの背中へ向かって、激しい声を飛ばした。
「《
メグはびくりと肩を揺らせた。だが、動こうとはしない。ティリーと双子を抱くその腕は、守っているというより、すがりついているかのようだ。
スナーク博士も余裕の態度でメグに声をかけた。
「私はあなたを信じていますよ、《
「ええ……そうよ。わたしは人殺しだ。何十人も殺してきた。……人間なんか大嫌いだから……虫を踏みつぶすみたいに平気で殺せた……」
つぶやくメグの声は、深い穴底から響いてくるかのように暗い。
「でも……あそこで血を流して苦しんでる大勢の人たち……レオもあんな風に、痛い思いをしながら血だらけで死んでいったのかと思うと……耐えられない。わたしはもう、誰かに血を流させたりしたくない。苦しめたくない」
「走って!」
[料理番]が腹の底から叫んだ。
メグが立ち上がった。右腕でティリーを抱き上げ、左手で双子の片方の手を引いて、エレベータへ向かって駆け出した。
「止めなさい。行かせてはいけません」
スナーク博士がクラブの幹部たちに向かって顎をしゃくった。五人の男たちは殺気をみなぎられて足を踏み出した。
五人の前に[アオムシ]が立ちはだかった。
「おーっとぉ♪ 俺の仲間に手出しはさせねーぜっ」
明らかにわくわくしている口調で言い放つ。こいつ、単に戦いたいだけだな。
[アオムシ]が例によって見境なくスクリプトを発動。[料理番]の眼前で[アオムシ]の背中が見る見るうちに巨大化し、吹っ飛ばされた[料理番]は仰向けに倒れた。
――俺は、後ろから何者かに襟首をつかまれて、[料理番]の体内からずるりと引きずり出されるような感覚を味わった。
[料理番]の五感との同期が途切れる直前。銃声を耳にしたような気がした。
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