(9)

 会議室で寝かされた自分の体に戻ると――頭がすっぽり苦痛の壺に包み込まれていた。

 ハンマーで頭蓋骨を連打されているような強烈な痛みが脈打つ。

 限界を超えて[鏡の国ルッキング・グラス]を発動させたせいだ。脳の微細な血管が切れたかもしれない。


「おー。


 ハクト・イナバの気の抜けた声が降ってきた。


 俺は、こちらを見下ろす色素のない顔を睨みつけた。


「今まで何してやがった?」

「話すとなごなるんやけどな。おまえらと別れた後、ホテルの中でロープを探してたら、スタッフに不審がられて警察呼ばれたんや。で、しばらく留置所に入れられてた。ブラーフモ・ドクトリンのコルカタ支部に頼んで市警と話つけてもらうまで、だいぶ苦労したわ。釈放されたの、ついさっきやねん」


 しゃべりながら、ハクトはもたもたと不器用な手つきで、俺の体をストレッチャーに固定しているベルトを外していく。

 拘束がゆるんだ途端、俺は手足の血流が回復するのを感じた。


 ストレッチャーの上に体を起こした。頭の向きと高さを変えたことにより、脳髄を抉る痛みが激しくなった。俺は顔をしかめた。

 ――命にかかわるレベルの異常ではなさそうだ。脳内出血があるとしても、ごく微量だろう。だとすれば頭痛はやがて収まる。だが、収まるまでの間、スクリプトは使えそうにない。


「大急ぎでホテルへ戻るぞ。ティリーが危ない」


 俺は歯を食いしばって激痛に耐え、ストレッチャーから下りた。

 壁のテレビでは、[料理番]の視覚を通してホテルのロイヤル・ペントハウスで見たのと同じ場面が展開している。グラウンドの中央に開いた大きな穴に、正気を失った人間たちが飛び込んでいる。穴の淵にはまるで堤防のように死体の山が築かれている――いや、中には、まだ息がある人間も含まれているかもしれない。無数の足で踏みつけられて破損した肉体が、鮮血にまみれている。

 人間どもの頭上を飛び交う殺戮ドローンの数は、最初に比べると、かなり減っている様子だ。


 俺の顔に視線を当てて、ハクトが眉をひそめた。


「おまえ……大丈夫か? 顔色悪いぞ」

「大丈夫だ。スクリプトは無理そうだが、殴り合いには支障はない」

「なるほど。まあまあ平常運転、ってことやな」


 俺たちは会議室を出て、[料理番]が通ったのと同じ通路を進んだ。


 ハクトはライデンの行方を尋ねなかった。この街で再会して以来、ずっと俺の位置情報をモニタリングしているこいつのことだ。ライデンにも生体追跡バイオトラックをかけていたのかもしれない。

 俺もあえて説明はしなかった。





 ハルシオーネ・ホテル・コルカタの黄金色の扉をくぐると、ロビーは先刻よりもさらに殺伐たる雰囲気に包まれていた。


 真ん中で威容を誇っていた背の高い花器が途中で折れ、周囲の床に大量の花が散らばっている。

 しかし、カーペットに染み出しているのは、花器からあふれ出た水だけではなかった。ぎょっとするほど広い範囲が、血を吸って赤黒く変色している。人だかりができていた。人の隙間から、力なく投げ出されている女の細い脚がのぞいていた。


 猛烈に嫌な予感がした。俺は人だかりをかき分けて近づいた。


 ホテルのスタッフや客に囲まれて、カーペットに仰向けに横たわっているのはメグだった。胴体全部が一個の血袋と化してしまっている。スタッフ二人が折り畳んだシーツをメグの腹部を当てて、懸命に押さえている。止血のつもりだろうが、明らかにその用をなしていなかった。スタッフは腕まで鮮血にまみれ、シーツも絞れるほど濡れていた。

 カーペットに広がっているこの血がすべてメグのものだとすれば、失血死は目前だろう。

 メグは雪のように真っ白な顔をして、目を閉じ、苦しげに速い呼吸を繰り返している。


 俺はロビーを見回したが、ティリーの姿はどこにもなかった。

 隅の方で、忘れ去られた人形のように、妙に表情のないマーチとヘアの双子が抱き合ってたたずんでいるだけだった。


「くそっ……!」


 俺は毒づかずはいられなかった。


 子供たちを連れて逃げようとしたメグは、失敗した。ティリーはスナーク博士に奪回された。

 それにしても、公の場でこんなに派手な襲撃をやらかすとは。社会全体を壊そうとしているスナーク博士には、恐れるものなど何もないということか。


 そのとき。テレビから流れ続ける耳ざわりなマキヤの口上に、「ふえっ」というような雑音が交じった。マーチとヘアが俺をじっとみつめていた。

 少女たちの目に、涙の玉が形成された。瓜二つな顔がくしゃっと歪んだ。


「おじさん! ふえええええーーーっ!!」


 二人の泣き声がぴたりと揃い、一つとなった。

 駆け寄ってきた双子は俺にしがみつき、号泣した。


「あなた、この女性の知り合いですか?」


 黒い礼服姿の男が近づいてきた。俺が今朝だました支配人だ。

 支配人は俺を覚えているだろうが、この緊急事態に「ドレスコード」や「禁制動物ポロゴーヴ」の話題を蒸し返さない程度の良識はあるらしかった。 


「知り合い」には敵も含まれる。俺は「ああ」とうなずき、尋ね返した。


「市の救急隊はどうした? 呼んでねえのか?」

「まさか! このひとが撃たれてすぐに連絡しましたよ。救急隊にも警察にも。何度電話しても、『すぐに向かう』と返事はあるのですが、いっこうに誰も来てくれません。

 クリケット・グラウンドでも、あれだけの騒ぎになっているのに警察も消防も来ない。いったいどうなっているのか。私たちが高い税金を納めているのは、こういうときのためなのに……」


 支配人の台詞は、答えを期待していない泣き言に変わって消えていく。


 わあわあ泣き叫ぶ双子の声がきっかけになったのか。メグがうっすらと目を開けた。涙の幕に覆われた瞳が俺をとらえた。

 紫色の唇が開き、血の泡と共に、ほとんど聞き取れないような声が発せられた。


「…………みんな……やられた……《♠7セブン》も、《♠8エイト》も……………に」


 メグのつぶやきは、テレビから流れ続ける騒音に、ところどころかき消される。

 ちょっと待ってろ、と言い残して、俺は女から離れ、壁に埋め込まれたテレビ受像機に近づいた。へらへら笑いながらしゃべり続けるマキヤの口のど真ん中を狙って、渾身の蹴りを入れた。いい音がして、受像機が壊れた。ロビーに静寂が訪れた。


 俺が戻ると、メグの息遣いはさらにせわしくなっていた。ひっひっひっ、というような細い声を漏らしている。蒼白な顔が苦しげに歪んでいる。

 見かねた様子で、宝石をじゃらじゃらと首から吊り下げた裕福そうな女がしゃがみ込み、メグの手を両手で包んだ。

 止血のためにメグの腹を押さえているホテルのスタッフたちが「しっかりして! もうすぐ救急隊が来ますから。あと少し、がんばってください!」と叫んだ。

 人間を憎んで生きてきたメグが、他人に看取られながらこの世を去ろうとしていた。


 だがもちろん、この女は俺に伝えなければならない言葉を持っている。バトンを渡し終えるまでは、死ぬつもりはないだろう。

 吊り上がり気味の目が、苦痛で曇りながらも、執念の強い光をたたえて俺を追ってきた。


「……《♢Aエース》と、ティリー様……市営病院……救急用ドローンを確保してあるの…………穴の底に、降り立つために…………」


 俺はうなずいてみせた。


「……クラブの幹部…………催涙ガスの……スクリプト…………あと、耳がキーンとするの…………前に死んだ、おじいちゃんみたいな…………」


 メグの最後の単語は、声にならなかった。

 その唇が「お願い」と動いたように見えた。


 俺は、泣きながらとりすがる双子の手を苦労して引きはがし、支配人に押しつけた。歩み去ろうとする俺を、支配人の驚いたような叫びが追ってきた。


「置いていくつもりですか、このひとを?」


 俺は振り返らなかった。


「医者でもねえ俺が、そいつのためにできることと言えば、仇討ちぐらいだろう?」


 支配人は黙った。もう俺を止める言葉は発せられなかった。

 双子の悲痛な泣き声のせいで愁嘆場と化しつつあるホテルの豪華なロビーを、俺は後にした。



 メグのいまわのきわのメッセージは、断片的な情報ではあったが、[料理番]の五感を通じて状況をつかんでいた俺にとっては十分だった。


 ティリーを逃がそうとしたメグ、[料理番]、[アオムシ]は、クラブの幹部どもに倒された。

 奪い返したティリーを、スナーク博士はコルカタ市営病院へ連れて行った。市営病院には、市が電脳から使用を許可されている数少ないドローンのうちの数台がある。スナーク博士はそれを使って、コルカタ・クリケット・グラウンドに開いた大穴の底へ降りるつもりだ。ティリーを、電脳の自我が宿るデータセンターから二十五メートル以内の距離に近づかせるために。


 クラブの幹部が使うのは、「催涙ガスのスクリプト」と「耳がキーンとする」スクリプト。

 後者は[破調賛歌ホーリー・スクリーム]。かつてサーフェリーに殺された老人、《♠6》が使っていたのと同じスクリプトだ。





 俺はハクトと共に、二ブロックほど北にあるコルカタ市営病院へ向かった。

 スナーク博士をぶちのめし、ティリーを取り戻すのだ。

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