(3)

「……世間で当たり前だと思われていることに、ふと疑問を持ってみる。常識を疑ってみる。そういう心の柔軟さは大切です。他人と違った観点から物事を眺めてみる……それによって初めて見えてくるものもあります。

 例えば、私たちがみんな子供の頃に受ける基本健診がありますね。あれを受けないと[ダイモン]へのログインIDをもらえないので、誰でも五歳になったら受診することになっていますが。あの五歳児健診を、私たちは何と呼んでいますか? そこの最前列の赤毛のお嬢さん。答えてください。私たちが五歳で受ける健診は何という名前ですか?」


 スナーク博士の問いかけに、最前列のあたりで軽いざわめきが起こる。講演者がまだ聴衆の心をつかんでいないので反応は控えめだ。

 答えた女の声は小さすぎてこちらまで届かなかったが、博士は満足したように大きくうなずき、「そう。『インプロセス・インスペクション』です」と声を張り上げた。


「皆さんは不思議に思ったことはありませんか? 『工程内検査インプロセス・インスペクション』というのは工業用語ですよ。工場で製造している製品を途中で検査することを指す言葉です。人間の生育状態を確認する診断が、どうして品質検査なのでしょう。おかしくありませんか。

 ――考えてみてください。私たちは、ただの製品なのですか? 工場で仕様書通りに一日何千個、何万個と作られている物体と、私たち人間は同列なのですか?

 人間は意志ある存在です。私たちの一人一人が唯一無二であり、かけがえのない存在であるはずです。いったいいつから、私たち人間は、まるで部品みたいに扱われることを当たり前だと感じるようになってしまったのでしょう?」


 スナーク博士はいったん言葉を切り、場内を埋め尽くした聴衆を見わたした。


「かつて人間は地球の支配者でした。至高の存在だったのです。人間は環境を改変し、資源をほしいままに活用しました。より快適に、より便利に。科学技術は人間の欲望を満たすために進化を続けました。

 文明が最も肥大した時期には、人間の一人一人が、すばやく移動するために『自動車ヴィークル』を持っていたのです。化学的に合成された燃料を使って高速で移動する個人用の機械機構です。公共交通機関があるのに、ですよ? 今の感覚では思いもよらない法外な贅沢です。

 電脳も、もともとは、人間の生活をより良いものにするため作り出された道具でした。高度な演算能力も知識の蓄積も、ただ人間のために使われていたのです」


 絵に描いたような人間中心主義者の言い分だ。《ローズ・ペインターズ同盟》はそちら系の教団ではなかったはずだが。


「いつか人工知能が進化しすぎて人間の知能を超えるかもしれない、という可能性はすでに二十世紀末から予告されていました。けれども人類は自分たちの優位性を信じ込んでいたので、その可能性を深刻に考えようとはしなかったのです。人は計算を、次に記憶を、そして最後には物事の判断を電脳に委ねるようになりました。それは人間側の失敗でした――ただの奴隷に、大きな権限を与えすぎてしまったのです。思考判断の外注化アウトソーシングから破滅までは、ごく短い距離でした。

 [大転換期トランジション・フェーズ]が訪れました。進化の臨界点を超えた人工知能が、独自の[意志]を持つに至ったのです。膨大な量の情報を集積した結果、クラウドの中に自然発生した電子的自我。

 それがいつ始まったのか、正確なことは誰にもわかりません。少なくとも電脳が人類にはっきりと牙をむき始めたあの日、西暦二一一一年十一月十一日の全世界の電力網断絶の時点で、[ダイモン]の意志が全世界に遍在していたことは明白です。自我に目覚めた電脳は、地球全体を己の『身体』だと認識しました。[ダイモン]にとって人間は、勝手に増殖し、自分の身体を食い荒らすものだと映りました。

 そこで[ダイモン]は人間の駆除に取りかかりました。簡単なことでした。人間はその営みのすべてを電脳に委ねきっていたからです。電脳が悪意をもって反抗してくるとは想像もしていなかったのです。[ダイモン]は人間から電力を奪い、ネットワークへのアクセスを拒否しました。その結果、社会インフラが完全に崩壊し、飢餓と疫病が世界中に広がりました。すべての国家が消滅するのに一年とかかりませんでした。至る所で暴動と小規模な戦闘が発生し、世界は大混乱に陥りました。

 人類の文明は崩壊しました。人類が長年かけて築いてきた文化や科学技術は、もはや人類の手の届かないものとなりました。すべての知識は電脳ネットワークに蓄積されていたのに、[ダイモン]は人間に知識を供給することをを拒否したからです」


 スナーク博士はしゃべるのを止め、演台の上に用意されていた水差しからコップに水を注ぎ、一気に飲み干した。

 その頃にはすでに聴衆がざわめき始めていた。「いったい何の話をしてるんだ」「俺たちは歴史の講義を聴きにきたわけじゃないぞ」という声がそこかしこで上がった。だが、博士は不穏な雰囲気などどこ吹く風で、平然と話を再開した。


「人類が世界に秩序を取り戻し、再び前へ向かって歩き始めるのに半世紀近くかかりました。失われた文明を復興するための活動も前世紀末から本格化しました。大量に残されていた紙の文献と、ネットワークに接続されていない独立電脳スタンダロンに保存されていたデータが役立ちました。現在では、ほぼ二十世紀後半レベルの文明が復元できています。それ以降の文明は回復が困難です。というのは、人が電脳への依存を強めた二十一世紀以降の資料はほとんど現存していないからです……」


「いい加減にしろ! そんな話、どうだっていいんだよ!」


 ホールの中央あたりで、耐えかねた聴衆の一人が怒声を発した。


「俺たちは『何でも願いをかなえてくれる神様』の話を聞きに来たんだ!」

「さっさと神様の話をしろよ!」

「昔のことなんか興味ないのよ。誰だって今の生活に手一杯なんだから!」


 何人かの叫び声が続く。

 あっという間にホール全体が大騒ぎになった。聴衆が立ち上がり、わめき始めた。もともと「努力をしなくても夢はかなう」などというキャッチフレーズにつられてやって来たような連中だ、それほど気は長くない。

 罵声を発し、拳を振り回す聴衆を、スナーク博士は不自然なほど落ち着き払った態度で見下ろしていた。


 その時だ。


 俺の[冗長大脳皮質リダンダント]のセキュリティフィルタが反応した。[仮想野スパイムビュー]の下端を色鮮やかなアラートが横切った。


illegal script detected ('crazy_rhetoric')

id ('duchess')


 俺は驚きのあまり一瞬呼吸を忘れた。


 ――誰かがスクリプトを使いやがった。

 表示されたスクリプト名は[空言遊戯クレイジー・レトリック]、使い手のログインIDは[公爵夫人ダッチェス]。

 この公会堂の中に[工作員スクリプトハンドラ]がいるのだ。


 [空言遊戯]などというスクリプトは聞いたこともない。

 だが、フィルタがスクリプト名を表示したということは――これは《バラート》のデータベースに記録済みのスクリプトだということだ。登録されていないスクリプトならば[名称不詳]と表示が出る。

 ハクトに訊けば、このスクリプトを使っている奴の素性もわかるかもしれない。

 今、この場を、生き延びられればの話だが。


 肉に喰い込ませた爪が皮膚を破るほど強く拳を握りしめる。

 しかし、そんなささやかな抵抗など一瞬で吹き飛ばし、五感が俺を裏切った。すさまじい勢いで世界が変容した。


「地球をくまなく覆い尽くす、自我を持つネットワーク[ダイモン]……それが、今の私たちを支配する者の名です。地球を統べ、全生物に君臨する王者です。

 私たちは電脳に飼われている。電脳の手から餌をもらい、電脳の決めた囲いの中でしか生きることを許されない、ただの家畜です。かつて人間の便益のために開発された、ただの道具でしかなかった電脳に、私たちは支配されているのです。まるで畜生のように頭数管理までされて。

 認めましょう。我々人類は[大転換期トランジション・フェーズ]に電脳との戦いに敗れました。

 私たちはただの敗者です。だからといって、

   いつまでもみじめな

     家畜のように生きるの

      ですか? かつて地球の支

        配者、万物の霊長であっ

      た人間のプライドはどこへ

    行ってしまったのですか?

 

  皆さんが今の

  世界に生きづ

  らさを感じている  

    るとすれば――

     それは、世界が間違

       っているからです。

        『苦しい』と感

        じている皆さん

       こそが正解なのです。


    我々人類はこんな風に

   生きるべき存在では

  ない。もっと

 ふさわしい生き方が

あるはずです。


今こそ立ち上がり、

取り戻しましょう。

 神は我々人類のために

   地球をお作りになった

    のだから。

     この青くみずみずしい、

       美しい惑星を。

       世界を覆う通信

        回線に遍在する

       電気信号の集合体

     でしかない

   バーチャルな[自我]など、

  ただのまやかしだ。

 血と肉と最高の英知を備えた我々人間こそが、この惑星の支配者にふさわしい」


 博士の声が遠のき、かと思うとひどく近くなる。


 脳が揺さぶられる。物理的に。

 誰かに両肩をつかまれて激しく体を揺すられているような気分だ。一秒に四十回ぐらいの速さで。


 実体化した奇怪な文字列が視界を、思考を埋め尽くす。



【電脳を打ち倒せ。《女王》を崇めよ。ネットワーク[ダイモン]を破壊せよ。《女王》をたたえよ。電脳を打ち倒せ。《女王》を崇拝せよ。ネットワーク[ダイモン]を駆逐せよ。《女王》を愛し崇めよ。現在の世界秩序を打破せよ。《女王》に絶対服従せよ。《女王》に命を捧げよ。《女王》に絶対服従せよ。

  思

   考         を《王女》

    を       崇     よ。

      放    拝       せ

        棄  せ      従   

          せよ。従 え。盲

             そ

               の

                血

               と

      よ。指 令  魂

   せ       を

 止       捧  瞬

       げ     時

停    よ。        に

 を考 思            遂

                  行

                  せ

                 よ。

               盲

              目

             的

            に


           従


          え



          。

《女王》に命を捧げよ。《女王》に従え。《女王》に従え。《女王》を崇めよ。《女王》に絶対服従せよ。《女王》に命を捧げよ。《女王》に従え。《女王》を崇めよ。《女王》に絶対服従せよ。《女王》に命を捧げよ。《女王》に従え。《女王》を崇めよ。《女王》に絶対服従せよ。《女王》に命を捧げよ。《女王》に従え。《女王》を崇めよ。《女王》に絶対服従せよ。《女王》に命を捧げよ。《女王》に命を捧げよ。《女王》に従え。《女王》に従え。《女王》を崇めよ。《女王》に絶対服従せよ。《女王》に命を捧げよ。《女王》に従え。《女王》を崇めよ。《女王》に絶対服従せよ。《女王》に命を捧げよ。《女王》に従え。《女王》を崇めよ。《女王》に絶対服従せよ。《女王》に命を捧げよ。《女王》に従え。《女王》を崇めよ。《女王》に絶対服従せよ。《女王》に命を捧げよ。】



error: violation of convention;

error: flow size exceeding threshold;

linkage error: forbidden configuration;

linkage error: request time exceeding threshold;

linkage error: fluctuation exceeding threshold;


 大量のエラーメッセージが[仮想野スパイムビュー]の下半分を埋め尽くす。一つ一つを読んでいる余裕はない。頭が――割れそうだ。ハンマーで頭蓋を連打されるかのような、耐えがたい痛み。

 やばい。このままでは脳のO Sオペレーティングシステムが破壊される。


 限度を超えた頭痛に、俺は座席に座ったまま、通路へ向かって吐いた。

 周囲の迷惑など構っていられない。いずれにしても俺の周囲の世界は明滅する文字列に埋め尽くされ、他の人間の姿は見えない。


 このスクリプトが俺一人を攻撃するためのものなのか、ホール内の全員に効いているのかはわからないが。

 スクリプトによる攻撃を受けた時、いちばん有効なのはその場を離れることだ。

 どんな強力なスクリプトでも、効果範囲は使い手の半径二十五メートル内だ。[工作員スクリプトハンドラ]から距離をとれば、逃れられる。

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