第2章 白ウサギ

(1)※

 ウサギが「手始めには、手押し車に一杯あればたりるだろう」と言っているのが聞こえました。

「何を手押し車に一杯なのかしら?」とアリスは思いました。でも、頭を悩ます必要はほとんどありませんでした。なぜなら、つぎの瞬間には、小石の雨が窓からガラガラとふってきて、いくつかが顔にあたったからです。【中略】ふと見ると、驚いたことに、床に落ちた小石は全部、小さなお菓子にかわっていました。


『不思議の国のアリス』(ルイス・キャロル作、脇明子訳)


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 ガイナント伝道教会の運営する孤児院で育った俺は、五歳になった年の秋、アルプス山脈のふもとにある寄宿学校へ入れられた。だいぶ後になってわかったことだがそこは《バラート》の秘密の訓練施設で、[工作員スクリプト・ハンドラ]になる資質を持つ子供を全世界から集めてきて養成するための場所だった。


 入学の翌日。最初の授業で、初めて出された課題は「これから自分が使う名前を考えましょう」だった。


 俺たちはみんな五歳で、あらゆることが俺たちにとっては遊びだった。偽名を考え出すというのは、気のきいた遊びのように思えた。


 俺の選んだ名前と隣の席の女子の使いたい名前とが、かぶった。

 「クラスの全員が別々の名前を使うこと」というルールだったので、調整が必要だった。二人のうちどちらかがあきらめなければならなかった。


「あんたが譲ってよ! 男子のくせにそんな名前、おかしいよ!」


とその女子は金切り声をあげた。


 俺は譲らなかった。教師が選択を神の厳正な審判に委ね(早い話がコイントスだ)、俺が勝った。隣の席の女子はやむなくその名前をあきらめ、代わりにレジィナ・キアーベと名乗ることにした。

 それが、レジィナと俺との出会いだった。



 俺たちは何もわかっていないアホなガキだった。軽い気持ちで、遊び感覚で選んだその名前を、俺たちはその後何年も――何十年も、《バラート》に在籍している限り――使い続ける運命さだめだったのだ。

 たいていの奴は、数年後死ぬほど後悔した。

 ルートヴィヒ・ライゼンハルト・スターゲイザー十三世とかフロレンティーナ・グローリアス・シャルロットワールとかいう名前をひねり出した連中は、名乗るたびに、話し相手の口の端がこらえきれない笑いにひくつくのを見なければならなかった。おとぎ話の主人公や歴史上の有名人の名前を選んだ奴らは、過去に戻って五歳の自分をぶん殴ってやりたかったに違いない。

 俺も自分の名前をずいぶん後悔した。「ほら見なさい。だからあのとき、あたしに譲っとけばよかったのよ」とレジィナに何度も言われた。


 クラスメイトのハクト・イナバも、後悔している一人だった。「ハクト」というのは奴の生まれた国の言葉で「白ウサギ」という意味だそうだ。

 奴はちょっと珍しいぐらい完全な色素欠乏症アルビノで、モンゴロイド100%なのに髪も肌も真っ白だった。眼底の血液の色が透けて見える桃色の瞳。――それで「白ウサギ」だなんて、悪い冗談もいいところだ。




 ハクトは優等生らしく数多くのスクリプトを使いこなした。

 最も得意とするスクリプトは[茶菓山積スイーツパラダイス]。

 半径五センチ未満の菓子を最大五百個生成し、半径二十五メートル内の標的ターゲットにぶつけるスクリプトだ。


 生成した菓子は食べることもできたので、ハクトの[茶菓山積スイーツパラダイス]はクラスメイトに大人気だった。


 [補助大脳皮質エクスパンション]が「そこに菓子が存在する」と認識するので、食べれば普通に味を感じ、満腹感さえ覚える。カロリーはないから、いくら食べても太らない。

 女子が体重を気にし始めるローティーンの頃から、ハクトは常に女子に囲まれ、[スイーツパラダイス]を発動させるようねだられていた。


 ハクトのスクリプトに興味を示さない女子は、レジィナだけだった。


「甘い物は好きじゃないの、あたし」


と、そっけなかった。

 そのたびに、ハクトは傷ついた表情を隠そうともしなかった。


「じゃあ、おまえの好きなお菓子教えてくれや。俺、何でも作るから。……なんやったら今度の休み、一緒に街へ行かへんか。おまえの食べたいお菓子がないか、探しにいこ」


 さすが優等生らしく、奴は戦略的な反撃を試みたが、レジィナは乗ってこなかった。


 その後、クラスの女子の間で「ハクトを高級菓子店へ連れて行く会」のようなものが発足し、ハクトは週末のたびに女子たちに街へ連れ出されていた。奴に凝った菓子の味を覚えさせ、それを再生させるのが狙いだ。

 きゃぴきゃぴした七、八人の女に囲まれる。年ごろの男にとってはうらやましい限りのシチュエーションだが、奴はちっとも嬉しそうな顔をしていなかった。周りで騒いでいる女の中にレジィナが交じっていなかったからだ、間違いなく。

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