(2)
久しぶりに昔の夢を見たのは――大人が眠るには小さすぎるソファに無理やり体を縮めて寝たせいだろう。
翌朝、俺はアリスを近所のカフェに連れて行った。カウンター席に座らせてやるとアリスはおだやかな顔でメニューを眺め、自分の欲しいものを無言で指さした。
狭い店内に客はまばらだ。カウンターの横の壁に二十年前ぐらいの年式のテレビが埋め込まれ、黒髪の女を映し出している。
伸縮素材のボールに目鼻口を描いて、上下から押しつぶしたような顔立ちの女だった。年のころは四十前後か。
お世辞にも美しいとは言えない顔が画面いっぱいに大写しになっている。朝っぱらから見たいようなもんじゃねえな。
「『神様なんていない。祈ったって何も変わらない』と思ってませんか? それは、祈る神様を間違えているからです。本物の神様は祈ればちゃんと応えてくださいます。しかも、すぐに」
女の、妙に晴れやかな声が響きわたった。
「がんばったって、こつこつ努力したって、うまくいくとは限らないでしょう? いい人だから幸せになれるわけじゃないでしょう? 人間のやることには限界があるんです。幸せは人間の力で手に入れるものじゃない。大事なのは、間違えずに、正しい神様に祈ることです。正しく祈れば、地位もお金も愛も思いのままです。かなわない願いなど一つもありません。神様は何でも実現してくださいます。……ためらっている時間がもったいない。さあ、今すぐお近くの《ローズ・ペインターズ
――そうか。こいつが例の《女王》マキヤ・アスドクールか。
《ローズ・ペインターズ同盟》は昨年あたりからよく名前が出るようになった新興宗教だ。
入会金が高いとか、入会すると定期的に寄付を求められるとか、悪い噂の方が多いが、どういうわけか信者の数は爆発的に増えているらしい。
教祖のマキヤ・アスドクールは自ら女王を名乗り、大勢の信者の上に絶対的に君臨しているという。
この手の集団は、《バラート》が特に目の仇にしている。おそらくすでに調査・内偵の手が伸びているだろう。
こんなインチキ臭い宗教団体なら、確かにとっととぶっ潰しちまった方が世の中のためだな。
いまだに《バラート》的な思考が抜けきれない自分に舌打ちしながら、俺はテレビから目をそむけた。
マスターが俺たちの前に皿を置いた。アリスの前に置かれたのはペタバルフィだった。とてつもなく甘そうだ。見ているだけで胸焼けがする。
「…………お祈り、してるの?」
その声はあまりにかぼそかったので、初めは空耳かと思った。
合掌を解いて視線を向けると、アリスが大きな眸でじっとこちらをみつめていた。
「悪いか」
と反射的に言い返してしまってから、ふと思い至った。
「おまえ、口がきけるんだな」
声を出せることはわかっている――警察であれだけ大騒ぎしていたからな。でも、この子供からはっきりした言葉を聞くのは、これが初めてな気がした。
なんとなく、こいつは言葉をしゃべれないのではないかと感じ始めていたのだ。最初に「アリス」と言ったように思えたのは、勘違いだったんだろうと。
すぐ近くのテーブルにいる若い二人連れの客が、テレビを眺めながらのんびりした声をあげた。
「朝っぱらから宗教放送かよ。教祖様がもうちょっとイイ女だったら、俺、入信してもいいんだけどなー」
「そだね。この人、若作りが痛々しいんよ。……マスター。テレビのチャンネル、ニュースに変えてくんない?」
無表情なマスターが求めに応じてテレビのチャンネルを変えたので、マキヤの講演はぷつりと途切れた。
「……って言っても、いまどき
急に静かになったように感じられる店内。二人連れの会話がいやおうなしに耳に入ってくる。
「神なんてものが必要だったのは、電脳がまだ存在してなくて、人間がすべてを決めてた時代までだよ。昔は人間が地球上の資源の配分を自分たちで決めてたんだぜ? 子供を好きなだけ産んで、人口管理もやってなかったんだぜ? どれだけ原始的だよ。うまくいくわけないじゃん。人には先のことなんてわかんないんだから」
「まあ、行き当たりばったりだったよな。それでよく絶滅しなかったもんだ」
「今はもう祈りは必要ない。全知全能で絶対公平な[ダイモン]が数千年先のことまで予想して地球を守ってくれる。俺たちは安心して任せてればいい」
「昔と違って、戦争もない。飢餓も環境破壊もない。神様も出番なしだな。……」
朝飯を食いながらの会話にしてはヘビーな内容だな。理屈っぽい物言いから察するに、学生か。
単調なニュースの朗読を超えて聞こえてくる二人の若者のやり取りに、俺は知らず知らず耳を傾けていた。
――読み上げられるニュースの中に、
「……今日未明、ウィリアム・ワーデン、通称〈オールドマン〉が変死体で発見された事件に関連して、コルカタ市警は対立するギャング団の頭領ルーラント・サーフェリーを殺人の容疑で緊急逮捕しました……」
俺は思わずテレビを見直していた。
〈オールドマン〉ウィリアムに賭場を襲撃されたサーフェリーが、その夜のうちに報復したのか。動きの速いことだ。
テレビ画面には、見覚えのあるコルカタ中央署の正面玄関が映っている。大勢の警官に囲まれたサーフェリーらしき男が、意気揚々と顔を上げて建物内へ連行されていた。
搾ったらオリーブオイルか何かがしたたり落ちそうな、濃い顔立ちをした三十代半ばの男だった。太い眉とぎょろりとした目、毛虫みたいなもみ上げが印象的だ。
派手な色柄のスーツの襟元で、何かが鋭く光った。
「あんなギャングでも《ローズ・ペインターズ同盟》の信者なんだな」
ニュースを見たがった若者が、感に耐えかねたようにつぶやいた。
俺はその男を振り返った。
「なんで、わかる?」
自分で意図した以上に尖った声が出た。
若者は、見知らぬ相手にいきなり声をかけられて困惑したようだったが、いちおう答えてはくれた。
「わかるって……何が?」
「あの男が《同盟》の信者だと、どうしてわかるんだ、ってことだ」
二人連れは互いに顔を見合わせた。
「ああ。だって、バッジつけてるじゃないか。《同盟》の信者のバッジ」
「最近、政治家や芸能人でもつけてる奴いるっしょ、あのバッジ? テレビでたまに見るよ」
――その答えはなぜか、ひどく不吉な予感をかき立てた。
テレビカメラがサーフェリーのふてぶてしい顔に寄った。その拍子に、スーツの襟元のバッジもはっきり映った。スペードの形をした小さなバッジだ。
ダイヤモンドの銀色の輝き。中央に埋め込まれた濃いピンク色の石。
アリスが身につけているバッジとデザインが瓜二つだった。
これが《ローズ・ペインターズ同盟》の信者の証だというのか。
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