第1章 リデル

(1)

「ああ、望遠鏡をたたむみたいに、身体を小さくできるんだといいのに! 最初にどこをたためばいいかさえわかってたら、きっと小さくなれると思うんだけど。」

 さっきからあんまりかわったことばかり起こるので、アリスはもう、絶対に不可能なことなんてめったにないと思うようになっていたのです。


『不思議の国のアリス』(ルイス・キャロル作、脇明子訳)


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 ――五年後、コルカタ――


「いらっしゃーい、リデルさん。お待ちしてたのよ♡ 相変わらず、墓からよみがえりたてほやほやのゾンビみたいなしょぼくれぶりね~。とても二十代とは思えないしょぼくれぶりだわ」


 いきなりテンションの高い漆黒の巨漢に出迎えられ、俺はため息を押し殺した。


「客に向かっていきなりなんつー失礼かましやがるんだ、このクッキング・マウンテンゴリラが」


 相手の口の悪さに慣れていなければ、即座に扉を閉じて引き返していただろう。


 築九十七年のハイパーおんぼろ雑居ビルの二階にあるこの飲食店は、そうでなくてもツッコミどころが満載だ。店名は『媽媽的店』、内装は朱色を基調とした中国明代風。だがここは中華料理店ではなく、昔ながらのイタリアの家庭料理を出す店だ。そもそも媽媽ままなんかどこにもいやしない。オーナーシェフは野郎(♂)、それも雲突くような巨体を誇る筋肉達磨ダルマだ。

 しかもDNAベースの人種情報によれば、この「ママ」はネグロイド(87.5%)とオーストラロイド(12.5%)のハイブリッドだ。大昔からの原始的な分類法だと”黒人”に入る。


 イタリアンレストランなのに、なんで『媽媽的店』なんだよ。

 モンゴロイドでもないのに、なんで框茅尚とか名乗ってんだよ。

 それに、壁にかかった掛け軸の絵。それたぶん中国じゃねえだろ。日本のフジヤマだろ。


 ツッコむ材料には事欠かない店だが。

 混沌はこの街のデフォルトだ。値段の割にはとびきり美味い料理を出すので、ここはいつ来てもにぎわっている。



 特殊部隊の兵士と言っても通るような茅尚ママの巨体が、しゃなりしゃなりと不気味なしなを作りながら俺をテーブルへ先導した。


「あなたに欠けているのは、人とのふれ合いよ、リデルさん。誰かを必要とし、誰かに必要とされる……そんな日常的な交流が人間に元気を与えてくれるの。一人で生きていたのじゃ、しょぼくれていく一方よ」

「まだ言うつもりか、このカラスのはらわた詰めのジャック・オー・ランタンが」

「誰かに手を差し伸べてみたらどうなの。あなたなら、その気になれば、すぐに相手はみつかるでしょ? しょぼくれてるけど素は悪くないんだから」


 いい加減にしろ、しょぼくれ言い過ぎだ、と俺は茅尚ママのたわごとを遮り、『媽媽のおすすめ♡♡』(ラザーニャ・アッラ・ボロネーゼ)をオーダーした。

 そして、テーブルから立ち去ろうとするママのごつい掌の中に、記憶素子をすばやく押し込んだ。

 ママは、まばたき一つしなかった。何事もなかったように、図体の割には軽やかな足取りで厨房へ戻っていった。

 その後ろ姿から目をそらし、俺は窓へ視線を投げかけた。


 窓の向こうでは、日没直前の四十二番街がおあずけを食った犬みたいにしけたつらをさらしている。

 立ち並ぶのは古さの目立つうらぶれた建物群。どのビルも築九十年を超えていて、あと数年もしないうちに区画刷新リノベーションの対象になること間違いなしの界隈だ。


 ここコルカタは新旧が無秩序に混在する、中央ユーラシア自由経済圏で最もカオスな都市だ。電脳ネットワーク[ダイモン]でも制御しきれない人間の雑多なエネルギーがあふれている。

 俺のような逃亡者が身をひそめるには、うってつけの場所だ。



 不意に、ごみごみした風景に、無数の縦線が走った。雨が降り出したのだ。

 あっという間に激しくなった。街路にいくつもの傘の花が開いた。



 道路の向かい側の歩道に立つ人影が、俺の目線をとらえた。


 遠いのではっきりしないが、まだ学校にも上がらないような年頃の女児だ。長い金髪。膝下丈の青いワンピースに白いエプロンをつけているように見えるデザインの服は、エプロンドレスというやつか。スカートから伸びた両脚は、白いタイツに包まれている。


 亡霊ゴーストだな。レジィナの亡霊だ。

 本物の子供なら、あんな風に、雨を避けようともせず立ちほうけているはずがない。



 ――亡霊なんてこの世には存在しない。非科学的だ。空想の産物だ。

 そんな「常識」という名のお題目が色あせてしまうほど頻繁に、俺はレジィナの姿を目撃し続けてきた。この五年間、ずっとだ。


 七、八歳。ローティーン。ハイティーン。さまざまな年齢のレジィナが、髪を揺らしながら街角にたたずみ、馬車の窓から顔をのぞかせ、通りに面したカフェの椅子に腰かけ、青白い顔でもの言いたげにこちらをみつめる。

 「見間違い」で片づけてしまうには回数が多すぎた。

 合理的な説明が見当たらなかったので、とりあえず「亡霊だ」と解釈することにしたのだ。


 化けて出られる覚えはない。レジィナは俺に恨みなど抱いていなかったはずだ。

 しかし、俺が彼女の姿を見続ける理由はわかる。月日が過ぎた今でも、俺がまだ引きずっているからだ。あの頃何もしてやれなかったことを。



 背中を乱暴にこづかれて、我に返った。


「ちょっと、あんたからも何とか言ってやってくれ、リデルさん。この女どもはクリケットのことをなんにもわかってねえ。今年はスリランカが優勝するなんて言うんだからよ」


 『媽媽的店』の常連客の一人である丸顔の中年男が、興奮した声を張り上げていた。

 俺は、毎年コルカタで開催されるT20方式のクリケット大会『コートボール』についての客同士の議論に巻き込まれ、金髪の女児のことを忘れた。


 ――この街へ流れ着いて二年。できるだけ他人とは関わらないようにしてきたつもりだが。

 気がつけば、いつの間にか、それなりに顔見知りが増えている。




 俺がイタリアン・レストラン『媽媽的店』を出ると、雨はまだ激しく降り続いていた。

 外は完全に夜だった。月という光源のない屋外は、本来なら歩くのにも支障をきたすぐらいの暗さだ。けれども[補助大脳皮質エクスパンション]が自動的に網膜からの信号を増幅するせいで、周囲はそこそこ明るく見える(大多数の人間は、補助大脳皮質のこの補正作用を意識していない。俺のように専門の教育を受けていない限り)。


 俺は四十二番街を小走りに横断した。

 俺の住むアパートは、『媽媽的店』のちょうど向かい側にある。


 例の女児が、さっきと同じ位置に立ちほうけていた。

 全身、濡れねずみだ。服と同じ色の青いリボンがへたれて髪に貼りついている。


 ――亡霊じゃなかったのか。


 俺はちょっと意表を突かれて、足を止め、女児を見下ろした。

 やわらかそうな丸い頬を伝う無数の雨粒、たっぷり水を含んで色が変わっている服。明らかに、生身の子供だ。


 俺は衝動的に、冷たい手を取って、傘の柄を握らせていた。


「そんなとこに突っ立ってたら風邪ひくぞ。ガキはさっさと帰って寝ろ」


 傘を与えてしまうと、俺の体はたちまち雨水に包まれた。


 女児は無言でこちらを見上げている。宝石のように美しく無機的な青い瞳。

 小さな唇がかすかに動き、ひとつの単語をつむぎ出した。


「……アリス」


 鈴がちりんと鳴るような声。記憶を刺激する、その響き。

 一瞬、俺の心臓がはね上がる。


 たぶん自己紹介だな、と状況からして最も合理的な結論を、自分に信じ込ませた。


 相手の名前が何であろうが、どうでもよかった。関わり合いを持つつもりはないし、濡れた衣服が体にへばりついて不快だ。

 女児と傘をその場に残して、アパートまでの短い距離を駆けた。






 雨は深夜近くまで降り続いたようだが、夜が明けると、前夜の大雨が嘘のような快晴だった。窓の外に鮮烈な青空が広がっていた。


 俺の住んでいる単身者向けのアパートの部屋はいわゆる「ハーフユニット」というやつで、かろうじてストリートバスケぐらいならできそうな面積を形ばかりのリビングと寝室に区切ってある、狭苦しい空間だ。四十二番街にはそういう安アパートが多い。

 俺が薄っぺらい模造生体合板フェイクウッド製のドアを押し開けて部屋を出ようとすると。

 すぐ外の廊下に、昨夜の金髪の子供、アリス、が座り込んでいた。


 アリスの傍らで、俺の貸してやった大きめの傘が、廊下にちょっとした水たまりをこしらえていた。


 俺は少しのあいだ言葉を失った。


「……わざわざ返しに来てくれたのか、傘を?」


 アリスは無言でこちらを見上げる。こうやってじっくり眺めてみると、上品に整った顔立ちをしている。もしかすると良い家の子女なのかもしれない。


 だが、それにしては様子が変だ。

 髪も服も明らかに湿っている。頭のリボンはまだへたれたままだ。大雨に打たれていた昨夜から着替えをしていないらしい。まさか一晩中、雨の中で立っていたのか?


 ――厄介ごとの予感がする。

 一人で戸外で夜を明かし、平然としている幼い子供はどう考えても異常だ。親とはぐれた迷子なら泣き叫びそうなものなのに、アリスは無表情で、特に動揺している様子はない。


 面倒なことにはかかわらない。それが生き延びるための鉄則だ。

 俺がこの五年間、《バラート》に見つからず逃げおおせているのは、できるだけ目立たないように注意して生きてきたからだ。


 俺はアリスの前を行き過ぎ、それほど長くもない廊下を抜けて、階段を駆け下りた。

 背後から軽い足音が聞こえたような気がしたが、振り返らなかった。

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