(5)

「言っちゃ悪いが、あんたは頭がおかしいぜ、《♢Aエース》」


 心の底から、百パーセントの確信をこめて、俺は言い切った。


「ヘビの頭を踏みつけて殺すのとはわけが違う。[ダイモン]の自我は、どこか一か所に存在してるわけじゃねえ。世界中をあまねく覆い尽くす電脳ネットワーク、そこを飛び交う無数の信号の集合体だ。[ダイモン]の意識は地球全体に遍在している。一つや二つ……いや、百のデータセンターをぶっつぶしたところで、電子的自我に影響はねえ」


 反論されても、スナーク博士は気分を害した様子もなく、「ええ。表向きはそういうことになっていますがね」と含み笑いまでしてみせた。


「自我の大本おおもとは『他と異なる己を自覚する』ことです。世界に『私』と『私でないもの』が存在しているからこそ、その対立関係の中で『私』は『私』を自覚する。つまり、などというものはあり得ないのですよ。どこにでも存在してユビキタスいるものにとって、『己』と『己以外』という区別は意味をなさない。

 地球上の電脳ネットワークの情報密度は均一ではない、という説があります。均一であればネットワーク上に自我が生まれることはなかったはずだ。どこかに、ひときわ、情報密度の高い場所があるのでしょう。川の流れの中にも、取り残されて澱んだ箇所ができるように。ネットワークと接続しながらも部分的に隔離されたデータセンター。それが[ダイモン]の自我の在処ありかです」


 デスクの向こうのハンプティ・ダンプティは演台に立つときのように派手な身ぶり手ぶりで語り続ける。

 独立した生き物みたいにひらひら動くその手を凝視しているうち、俺はふと、あることに思い至った。


「それは……あんたの思いつきじゃねえな。言い出したのは教祖か」

「……」

「電脳心理学はあんたの専門じゃねえ。そうだろ?」


 でっぷりした手の動きが不意にぴたりと止まった。


「女王は、そんなことは考えていませんでしたよ。あの人が望んでいたのはただ一つ。世界でいちばんの権力者になって、かつて自分を拒絶した昔の恋人を、金と力で取り戻すことだけでした」


 スナーク博士は、女王マキヤについて話すとき、過去形を使った。


「しかし、確かに、女王の存在がなければこの計画が生まれることもありませんでした。『[ダイモン]の自我を物理的に叩けば、電脳による支配を終わらせることができる』という考えは、もともとは、女王の元恋人であるロセッティ枢機卿が思いついたものです。稀代の電脳心理学者にして《バラート》の最高責任者……。彼については、私よりあなたの方が詳しいでしょう?

 ロセッティ枢機卿は、[ダイモン]の自我がどのデータセンターにあるか、すでに確信を持っていたようです。ですが、そのデータセンターへ物理的な襲撃をかけるまでには至らなかった。きわめて厳重に警備されているので近づき得なかった、というのもありますが、主な理由は、人類がすでに完全に電脳に依存しているからです。地球上の文明はすべて電脳によって制御統制されています。経済、政治、環境など大局的な判断を要求される分野において、人間は『自分の頭で考えて決める』習慣を失って久しいのです。[ダイモン]が消滅したら社会は大混乱に陥り、文明は崩壊するでしょう。全世界で数百万人の死者が出ると予想されます」


 ――博士はやはり、俺が《バラート》の一員だったことを知っている。


 それを悟った瞬間、俺は反射的に身構え、周辺一帯に意識を飛ばして様子を探った。半径三十メートル以内に存在する人間すべてを[仮想野スパイムビュー]で捕捉する。


「あんたは知っているのか。[ダイモン]の自我がどこにあるのか。……女王はあんたにそれを話したのか?」


 俺の質問に、スナーク博士はあっさりとうなずいた。


「十二年前。私の所属していたバンダースナッチ研究所は突然、謎の三人組に襲われました。施設は徹底的に破壊され、同僚は全員廃人にされ……難を逃れた私はただ一人、やり場のない憎しみに震えていました。苦楽を共にした仲間も、偉大だったバンダースナッチ博士も、まるで赤子に戻ったかのように知性を失っていたのです。……私は博士のパートナーだったジャバウォック博士の研究所に身を寄せることになり、そこで女王に出会いました。

 女王は、私からすべてを奪った野蛮人どもが《バラート》の人間であることを教えてくれました。《バラート》とはどういう組織なのか、スクリプトとは何か、すべて詳しく話してくれました。ロセッティ枢機卿の理論や研究のことも。

 そこで、私は悟ったのです。――私の恩師と仲間は[ダイモン]に抹殺されたも同然だ。[ダイモン]は自らの支配を永続的にするため、《バラート》を使って先進的な研究をつぶし、人類の進歩を抑圧している。[ダイモン]を破壊し人類を解放することこそ私の使命だ、と」


 建物の三階にいる人間は今のところ十四人。注目すべきは、階段のすぐ手前にいるコーカソイド100%の女児二人だ。《♠J》と《♠Q》の双子だろう。

 俺がここへ入ってくるとき姿を見かけなかったから、面談室にでも潜んでいるのか。


「女王は私に、『復讐』という目的とそのための知識、そして手段まで与えてくれました。彼女のすばらしい娘たち・・。もしLCとの出会いがなかったら……私はただの非合法科学者のままだったでしょう。復讐のために必要な資金と影響力を手に入れることもできなかったでしょう。

 私が出会ったとき、LCはまだ五歳でしたが、母親と同じ――だが母親よりはるかに強力なスクリプトの使い手でした。[空言遊戯クレイジー・レトリック]。相手の心を奪うスクリプトだ、と女王は言っていました。夢中にさせ、熱烈な恋に落とし、何でも命令を聞くようにしてしまうスクリプトだと。あいにく、それは[冗長大脳皮質リダンダント]を持つ人間には効かないので、女王はいちばん欲しい男の心を手に入れることができなかったのですが。

 女王は、LCのクローンを産むために、研究所に滞在していたのです。『愛する男の子供を身ごもるという歓び』を何度も味わうため、クローニングを繰り返していました。よくわからない思考体系ですが……《バラート》を脱走した女王にとって、LCをクローニングする以外に、枢機卿の子を再び妊娠する手段はなかったわけです。子供を『育てる』のではなく『身ごもる』ことにしか興味のない女王は当然、良い母親ではありませんでした。ですから私がLCを手なずけるのは簡単なことだったのです。

 少し優しい言葉をかけてやるだけで、LCは私のために進んでスクリプトを使ってくれるようになりました。LCの力を借りて……私は教団を作り上げました。世界中の政財界、学界、あらゆる分野の有力者たちを支配下に収め、巨大な協力体制を作り上げました。[ダイモン」消滅後の世界の混乱を最小限に抑えるために。――[ダイモン]が消滅するのと同時に、人間だけの力で社会を動かしていける仕組みに切り替えられるよう、長年かけて話し合いと調整を進めてきたのです」

「それが、例の『廷臣会議』ってやつか。毎月ここでダイヤの幹部が集まって話し合ってた……」

「ええ、その通りです。よくわかりましたね? 会議の内容は事務員たちにさえ教えていなかったのに。……同じような会議を、このユーラシア自由経済圏だけでなく、世界中の主要経済圏で開催してきました。何年もね」


 スナーク博士は例によって、ぶっちゃけ過ぎだ。たかが一幹部に対してここまで語る必要はないはずだ。

 《バラート》やスクリプトについて詳しい俺が相手なので、長年ため込んだ思いをぶちまけたくなったのかもしれないが。

 最終的には俺を始末するつもりだから、安心して好きなだけ語っているという可能性もある。面談室で待機している双子はそのための要員か。


「そしてティリーの登場によって……最後のピースが嵌まりました。私は神など信じませんが、ティリーの能力を知って、神の働きを感じずにはいられませんでしたよ。天は人類の味方だ。悪しき機械の支配を打破するため、我々に力を与えてくださったのだ、と……!」


 言葉通り、スナーク博士の顔に畏敬に似た表情が浮かんだ。興奮はなりをひそめ、聖句を唱える敬虔な信仰者のようにうやうやしく、ティリーの名を口にした。


「ティリーはやはりLCのクローンなのか」

「ええ。四人目のクローンです。……ラッシュプールのジャバウォック研究所にいる間、女王は三人のクローンを出産しました。三人のうち二人に[冗長大脳皮質リダンダント]の形成が認められましたが、どの子もスクリプトを使えるようにはなりませんでした。子供たちは三人とも、身元を追跡されないよう注意して養女に出しました。女王が育児を拒否しましたので。……それなのに六年ほど前、女王が突然『また産みたい』と言い出したのです。ロセッティ枢機卿から頼まれたと言っていました。女王は妊娠、出産のため、いそいそとジャバウォック研究所へでかけて行きました。

 ティリーのクローニングに関しては、私は関知していないのです。教団の立ち上げに忙しくて、その頃にはもう研究所から完全に身を引いていました。

 初めから奇妙な点が際立っていました。ティリーはLCにまったく似ていなかったのです。髪の色も違うし……使えるスクリプトも違う。手違いがあったようだから研究所に調べてもらった方がいい、と私は女王に勧めました。けれども女王は『ティリーは父親似だ』と言い張るだけで、耳を貸しませんでした。髪がブロンドなのも、スクリプト[無生三昧イマージョン]を使うのも、父親であるロセッティ枢機卿と同じだ、と……。そんな馬鹿な話はありません。普通のきょうだいとは違うんです。クローンなのだから、ティリーは

 

 LCの本来の髪色は黒なのだ、とスナーク博士はつけ加えた。

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