(3)
目を開けると、俺は固い床に横たわっていた。頬骨と後頭部がサイレンのように痛みをわめき立てている。白い天井をバックに、漆黒の顔が俺を見下ろしていた。
「ここがどこか、わかりますか? 俺が誰なのか覚えてますか?」
最後にこいつの顔を見てから一年以上過ぎてるような気もするし、つい数時間前に別れたばかりのような気もする。時間がゴムのように伸び縮みし、時と場所の感覚はひどく曖昧だ。ここはどこだ? 俺は何をしている? 床に倒れている理由は、おそらく頬に強烈なパンチを一発食らったせいだろう。かなり高い確率で、犯人は目の前にいるライデンだ。倒れた拍子に、後頭部を床に打ちつけたようだ。だが、そんなことより……!
空気中に漂う、なぜか懐かしく感じられる甘い香りを、俺の嗅覚がキャッチした。
俺の意識の流れに呼応して、空気成分の分析結果が[
ぼさぼさ頭の若造のすっとぼけた顔、酒瓶が床で砕ける音。記憶が一瞬でよみがえった。
[仮想野]の隅に表示されている現在時刻が二十三時五十六分であることに気づき、俺は反射的に身を起こした。
「もう真夜中だと? くそっ。どうなってんだ。なんで俺はこんな所で寝てる?」
「あー。……やはり脳震盪を起こしてる可能性がありますね。強く殴りすぎましたか」
ライデンは凶悪な顔に、怒りとばつの悪さが入り混じった微妙な表情を浮かべている。
「言っときますがね。俺は謝りませんよ。悪いのはあんたたちだ。……《ローズ・ペインターズ同盟》の本部がもぬけの空だなんて嘘をついて。俺をそちらの方へ引きつけておいて、二人でこっそり姿を消すなんて。まるでガキの嫌がらせだ。そんなに俺に手柄を立てさせるのが嫌ですか。
あんたらの行き先をつきとめて、ここまで来るのにずいぶん苦労したんですよ? 観光船も定期船も終わった後だったので、自分でボートを漕いできたんですからね? どうにかたどり着いてみれば、二人揃ってのんきに寝てやがる。何なんですか、あんたらは。何がしたかったんですか。……俺には怒る権利がある。そうでしょう?」
「――謝らなくてもいい。殴り返しにくくなるからな」
俺は立ち上がった。眠り過ぎたときのように頭が重い。脳震盪のせいかどうかはわからないが。
目に映るのは、いかにも病院のロビーらしい、白っぽい空間だ。規則正しく並んだ長椅子、受付カウンター、壁に掛かったひまわりの絵。長椅子の一つにハクトが腰かけており、顎を天井に向けて熟睡している。
玄関のガラス扉の向こうは夜の闇に閉ざされている。
ガラス扉の手前には瓶の破片が落ちていて、透明な液体が床を這っていた。
俺は周囲を注意深く見回しながら、背後のライデンに向かって尋ねた。
「『嘘』と言ったな。《ローズ・ペインターズ同盟》の本部が、無人じゃなかったというのか?」
「無人どころか! 二、三十人ほど中にいて、完全に通常営業でしたよ。例の、事務局長だという太った男もちゃんと中にいました。スナーク博士でしたっけ? あの男だけは外から見てもすぐわかりますから」
――俺はなぜここで眠っていた?
[帽子屋]を引っ立ててこの保養所まで来た経緯は思い出せる。玄関から中へ踏み込んですぐ、[帽子屋]が手に持っていた酒瓶を落とした。その後、奴が何か言ったようだが、そこから先の記憶がない。
重要なことを耳にした気がするのだが、脳内に綿でも詰まったかのようで、どうしても思い出せない。
「敵がいるぞ。まだそう遠くへは行ってねえ。建物の中にいるかもしれねえ」
俺はライデンを振り返った。
「[
俺の言葉に、ライデンははっと目を見開いた。
「そう言えば、最初は――俺がこの建物から三十メートル圏内に入った時点では、三人の人間を知覚できていました。すぐに一人は消えて、二人だけが残りました。要するに、あんたたちです。あんたらが居眠りしてるようにしか見えなかったので、その消えた一人は敵ではなく、たまたま近くを通りかかった通行人だろうと判断していたんですが……」
「奴は、謎のスクリプトと[
「同時発動? 訓練も受けていないド素人が? ……まさか。俺でも同時発動には苦労するのに……!」
「おまえのレベルの話なんかしてねえよ。少なくとも、状況から判断して、敵にはそれができてるって話だ」
「……!」
プライドが傷つくか何かしたらしい。ライデンは分厚い唇を尖らせ、やみくもに[
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id ('mary_ann')
[無間童唱]は、限界を超えて耳ざわりな不協和音で対象者の集中を乱し、スクリプトの形成を妨害する。
効果はてきめんだった。俺の[仮想野]に、二十代の男がぱっと映った。直線距離にして十三・九メートルのところだ。
[帽子屋]が[暗中夜行]を維持できなくなり、姿を消していられなくなったのだ。
ライデンと俺は駆け出した。直線距離は約十四メートルだが、通路が曲がりくねっているためそれより長い距離を走らされた。俺たちは別々のルートを選んだが、五・一秒後、ほぼ同時に「応接室」と書かれた扉の前に達した。ライデンが足を持ち上げるより早く、俺が扉を蹴破った。
「うわ、もう来たの? 早すぎだろ。野生の走力ってやつ?」
[帽子屋]が間抜けな驚きの声をあげた。
物が多すぎるせいで狭苦しく感じられる部屋だった。ど真ん中に置かれた巨大な応接セット。それを囲むように配置された棚には、壺だの工芸品だのといった骨董品がずらりと並べられている。
[帽子屋]は靴を脱いでソファに横たわっていたが、俺たちの姿を見て身を起こしたところだった。
テーブルにはマサラ・ドーサやサモサなど大量の軽食と飲み物のポットが置かれ、長時間滞在できる態勢が整えられている。
俺の視界の端で黒い影が揺らめいたように見えた。
ライデンが瞬時に移動し、[帽子屋]の側頭部に蹴りを入れやがったのだ。たぶん「野生」呼ばわりされて腹が立ったんだろう。
[帽子屋]は見事に吹っ飛び、ソファから転げ落ちた。
「おい! 頭を狙うんじゃねえ。気絶させたら尋問が遅れるだろうが」
俺は怒鳴りつけたが、ライデンは小鼻を膨らませ、むすっとした怒りの表情を変えなかった。
――俺もよく「乱暴だ」「手が早い」と言われるが、こいつの方がうわ手だな。
幸い、[帽子屋]は気を失わずに済んでいた。床に転がったまま、うめき声を発した。
ライデンがぎょろりとした目を俺の方に向けた。
「この男、何者なんです?」
「そういうことは普通、ぶっ飛ばす前に訊くもんだろ。……こいつは、スナーク博士とティリーが船に乗ったと嘘をついて、俺たちをこの保養所へ誘導した男だ。そして……」
脳の片隅で何かがうごめいた。俺の口がひとりでに動き、俺の知らない情報を吐き出した。
「《ローズ・ペインターズ同盟》のスペードの幹部でもある。《♠A》だ」
「俺はこの時間軸で、あんたにそんな話をしたことはない」
と、いきなり[帽子屋]が謎めいたことを叫び始めた。
「あんたの言っていることは、ただの推論だ。あんたが過去に知覚してきた情報の蓄積に基づく『あてずっぽう』だよ」
ライデンがふんと鼻を鳴らした。
「ただのあてずっぽうかどうか、検証するのは簡単だ」
奴はいきなり、[帽子屋]の
見たところ、[帽子屋]のポケットの中身を振り出そうとしている様子だ。とんでもなく雑で野蛮な野郎だな。
ハクトがライデンを持てあます気持ちがわかった。俺は吊るされている[帽子屋]の服のポケットに手を突っ込んだ。思った通りの場所に、なじみのある手応えの固い塊が入っていた。つかみ出してみると、案の定それは細かいダイヤが埋め込まれたスペードのバッジだった。
ライデンは分別臭い表情で、俺の掌のバッジを見下ろした。
「検証完了ですね」
つぶやいて、ぱっと手を離した。
[帽子屋]は頭から床に落ちた。悲鳴がぴたりと止んだので、気絶でもしたのかと思ったら、奴はライデンではなく俺を睨んでいた。その視線には強い意志がこめられており、錐のように突き刺さった。
「あんたは、どうやら……
相手の発した「円弧」という語が、奇妙に俺の記憶を刺激した。池に投げ込まれた石が水面に残す波紋のように。だが波紋と同じく、その揺らぎもすぐに消えた。
「おまえのスクリプトは……『時間を結んで輪を作る』スクリプトだな。その輪の中に、ハクトと俺を閉じ込めていたってわけか。何時間も」
LCからもらったヒントを思い出し、俺は推論を進めてみた。床に転がったまま、[帽子屋]は顔をしかめ、小刻みにうなずいた。
「まあそういうこと。不思議なのは、あんたがどうやって円弧から脱出したのかってことさ。俺の作る円弧は内側からは脱出不能なんだよ。なのに……この変てこりんな歌のせいで、俺がスクリプトを使えなくなるより早く……あんたは円弧から抜け出していた。何があった? 円弧の中で、あんたは何を体験した?」
この男の言う「変てこりんな歌」というのは、ライデンの[
何を体験したかと問われても、記憶はよみがえってこない。そもそも「時間の輪」とはいったい何なんだ。
わからないことだらけだが、それでも推測できることがあった。
「ひょっとすると、この暴力魔人に脳震盪を起こすぐらい殴られたせいかもな」
ライデンを親指で指してそう言ってやると、[帽子屋]の渋面が深くなった。
「脳を
――ライデンに殴られたおかげで、俺が強力なスクリプトの支配から逃れられたのだとすれば。
頃合いを見て奴を殴り返すのはやめてやってもいい。礼を言う気にまではならないが。
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