(15)
[
それを食らって、レジィナに何が起きたのか。ハードウェアの消滅を知覚したか――それとも、電気信号である意識が瞬時に消滅したのか。
どちらにしても、電子的意識としての存在を維持できなくなり、彼女は消えてしまった。
苦しくはなかっただろう、と信じたい。
「何も感じない」とレジィナ自身が言っていた。その中には苦痛も含まれる。
レジィナを見送って、かっきり十秒後。俺の体に異変が現れた。
全身が急に重くなった。腕と脚が一斉に筋肉痛を主張し始めた。
あり得ないほどの悪臭を知覚した。動物どもがたむろする公園で嗅ぐ臭いを、何百倍も強烈にしたようなやつだ。異臭は物理的な痛みをもって、鋭く鼻腔を刺す。
おそろしい寒さが、俺の全身を包み込んだ。冷気という名の衣服をまとったかのようだ。体じゅうが凍りつき、こわばる。
そして――目の前が完全な黒に塗りつぶされた。
何も見えない。すぐ鼻先に暗幕が下りたかのように、視界は分厚い黒に閉ざされている。
それだけじゃない。[
自分の立ち位置の緯度経度標高も、地形情報も、温度湿度も、施設概要も、周囲三十メートル以内に存在する人間の個別データも、何一つわからない。
外界とのつながりを突然断ち切られ、俺は裸で戸外に立っているような頼りなさを覚えた。
「ティリー! ティリー、どこにいる!?」
俺の叫びに答えて、「アリス!」というかぼそい叫びが、すぐ近くで聞こえた。
俺は声の方角へおそるおそる手を伸ばした。何も
冷えきった小さな手が、俺の手にからみついてきた。
俺たちはしっかりと手を握り合った。
「おーい、アリス」
ハクトの声が聞こえた。何かを腹に秘めているような、ためらいがちな発声だ。
「おまえ……何か異常あらへんか? [
「それを訊くってことは、おまえにも異常が起きてるのか」
「今『おまえ
「[
少し沈黙があった。
「まさか。電脳ネットワークそのものが、停止しとるんか? レジィナと一緒に、[ダイモン]の自我も……[ダイモン]全体が消滅してしもたってことか? 全世界で?」
ハクトが愕然としたように叫んだ。
俺は試しに、スクリプトを発動させてみようとした――激しい頭痛がいつの間にか消えていたからだ。だが脳内は妙に
「そうらしいな。もう、いがみ合ってる場合じゃねえぞ、ハクト。スクリプトが使えなくなってる」
「マジで? ……うわっ、ほんまや。どないしよ!?」
人類は[ダイモン]によって制御されてきた。[ダイモン]は人間を環境に合わせることで、人間の快適な暮らしを実現してきた。
[ダイモン]のおかげで、俺たちは明暗も寒暖も、極端な騒音や悪臭も、知覚せずに生きてこられた。
また、[ダイモン]は人間の体内にも作用し、免疫力や代謝を最適な状態に保ってきた。
それが一切合切消え失せた結果が、これだ。
俺たちが生きている場所は、本当はこんなにも臭く、耐えがたいほど寒い場所だった。[ダイモン]が俺たちの知覚を制御して、不快さを感じさせないようにしていただけなのだ。
体が急に重く感じられるのは、[ダイモン]による体力の底上げがなくなったせいだ。
そして――視野を塗りつぶす、この黒。これがいわゆる「闇」というやつか。
視神経からの入力を自動的に増幅してくれる[ダイモン]が消滅した今。俺たちは、十分な光がなければ、物を見ることができない。太陽が昇らない限り、視界は回復しない。
それにしても、初めて体験するこの「闇」というやつは、思った以上に圧倒的だ。視界を奪われただけで、足を前へ踏み出す力が奪われてしまう。なすすべもなくその場に立ち尽くすしかできない。
俺は、握りしめたティリーの手を感じながら、ただ立ち呆けていた。
何をすべきか、どう動くべきか、皆目見当がつかない。
もし本当に[ダイモン]が完全消滅したのなら――この世界は、おしまいだ。すべての科学技術、すべての社会構造が一瞬で消えてしまった。待ち受けるのは混沌。地獄のような混沌だ。
世界中のあらゆる場所で湧き起こる、全人類の絶望の叫びが聞こえるようだ。
そのとき。
暗闇の中に、光が現れた。
俺は見上げた。神を仰ぐ信仰者のように。
ハクトの手の中に小さな炎があった。儀式で使う蝋燭に火をともすために、説法師や教父はライターを携帯していることが多い。それがこんなときに役立ったのだ。
ちらちらと頼りない炎ではあったが、それでも驚くほどの広範囲が、うすぼんやりと照らし出されていた。
はるか上にあるように感じられる穴の淵の輪郭。そこに取りついているハクトの姿。斜面のそこかしこに転がる死体。
炎はすぐに雨に負けた。世界は再び闇に閉ざされ、「くそっ、消えてしもた!」というハクトの叫びが響いた。
――[ダイモン]が消えて初めて、俺は闇というものの威力を知った。
闇を知って初めて、俺は光のありがたさを知った。
今ちらりと照らし出された光景。その記憶があれば十分だ。
たとえ何も見えなくても。たとえ、斜面までの正確な距離、斜面の勾配と材質、転がる死体の数と位置が[
たとえ世界が終わっても。俺たちはまだ生きている。これからも生き続けなくてはならない。
いつまでもこんな所に突っ立って、雨に打たれ続けているわけにはいかないのだ。ティリーに風邪をひかせちまう。
さっさとこの穴から出て、屋根のある場所へ移動する。それが手始めだ。
俺はティリーを背負い、穴を出るために歩き始めた。
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