(8) Retake(リテイク)
フ
ォ
ン
ハクトがスクリプト[
「痛っ! くそーっ! このお返しは必ずしますからね!」
ダルハウジー広場の真ん中でうずくまる大男を、行き交う人々が迷惑そうによけて通る。
俺は奴の横を駆け抜け、バザールに突入した。雑踏ををかき分けながら進み、先刻後にしたばかりの《ローズ・ペインターズ同盟》本部へたどり着いた。
扉は固く閉ざされていた。施錠されており、びくともしない。
俺は半ば絶望に駆られながら黄色い壁を見上げ、[
建物はもぬけの空だった。「検出結果:〇件」のメッセージが[仮想野]の片隅でひらめいた。
誰もいない。ついさっきまで普通に働いていた事務員たちも全員引き払ってしまったようだ。
――ティリーをさらわせたスナーク博士が姿を消すのはわかるが。なぜ、全員いなくなったんだ?
すぐそばに果物屋の屋台がある。振り返った俺と、屋台の親爺の視線が合った。俺は歩み寄った。
「ここのビルの連中、みんな出て行っちまったみたいだな。あんた、見てたか?」
みずみずしく甘い香りが俺を包む。原色が目を刺す果物の山の向こうで、干しイチジクのようにしなびた親爺が仏頂面でうなずいた。
「ああ。ついさっきだ。社員旅行か何かじゃねえのか。みんな大きな荷物を持って、並んでぞろぞろ出て行った。ずいぶんとはしゃいでたぜ」
「……その中に、五歳ぐらいの金髪の女の子はいなかったか。ハンプティ・ダンプティみたいにまん丸な男は?」
「まん丸な男はいたよ。よく見かける顔さ。女の子は……知らねえなあ。いなかったと思うが」
「連中がどこへ行ったか、心当たりはないか?」
「いやあ……こっちだって、そんなことわざわざ尋ねたりはしねえからなぁ」
そこまで言ってから、親爺は何かを思い出したように手を打った。「そう言やぁこんな物をもらったんだった。いつもリンゴを買いに来てくれる姉ちゃんに」とつぶやきながらポケットを探る。
つかみ出されたのは、派手な色合いで「ベンガル水上交通公社」と印刷された紙切れだった。
乗船券をまとめ買いしたときにもらえる次回割引券だ。「フーグリー・ライナー 五パーセントOFF券」の文字が躍る。
受け取った割引券を、俺は呆然と見下ろした。
「フーグリー川下りの船旅に出た、ってことか、全員揃って……?」
親爺は肩をすくめた。
「さぁな。……なんだったら、持ってけよ、その券。あんたにやる。俺は船なんざ乗らねえから」
俺がバザールを出ると、ダルハウジー広場の片隅でハクトとライデンが険悪な様子で睨み合っていた。今にも殴り合いを始めそうな雰囲気だ、もしそんなことになったら一瞬でハクトが地面に沈むだろうが。
そんな状態でも、俺が現れたことに気づいたらしい。奴らは睨み合いを中断して、早足でこちらへ向かってきた。
「ずいぶん早かったな、アリス。《ローズ・ペインターズ同盟》の本部で大暴れしてくるんちゃうかったんか」
ハクトがのんきな声をあげた。
「まるで暴れてきてほしかったような言い草だな」
「アホなこと言うな。平和がいちばんやて。手ぶらで戻ってきたところを見ると……ティリーちゃん、おらへんかったんか?」
平和がいちばん、という台詞はこの上なく薄っぺらい。
俺は、雁首揃えて目の前に立ちはだかる二人組を見比べた。
どうあってもこの二人につきまとわれるのだとすれば。せめて利用してやるとするか。「仲間になった」わけでは断じてないが。
「おまえら当然、《ローズ・ペインターズ同盟》の所有不動産は調べ済みなんだろ。フーグリー川沿いに、《同盟》が別荘か何かを持ってねえか? ひょっとするとスナーク博士の個人名義の不動産かもしれねえが……」
「フーグリー川沿い?」
ハクトはアイシールドの奥の赤い瞳をまたたかせもせず即答した。
「確かダイヤモンド・ハーバーに《同盟》の研修所があったはずや。元は病院やった建物を買い取ってる。……それがどうかしたんか」
「スナーク博士と《同盟》の連中が全員、大きな荷物を抱えて出て行ったらしい。フーグリー・ライナーの割引券を残していったところを見ると、船で移動した可能性がある。コルカタの南は鉄道網が整備されてない……南へ行くなら、船でフーグリー川を下るのが速い」
「つまり、目的地はダイヤモンド・ハーバー、ってことか……!」
――スナーク博士はこれをすべて計画していたのだ。
俺を《同盟》本部へ呼び出し、その隙に《♠K》にティリーをさらわせる。
事務員ともども、あらかじめ予約しておいた川下り船に乗り込み、コルカタの約五十キロメートル南にある研修所へ移動する。
ダイヤモンド・ハーバーはその華やかな名に似ず辺鄙な所だ。そこで博士は誰にも邪魔されず「計画」を実行に移すつもりだろう。
ひょっとすると、[ダイモン]の自我を宿すデータセンターが、ダイヤモンド・ハーバーの近くにあるのかもしれない。
ライデンの奴が、大きな目玉をぎょろぎょろうごめかせながら、俺たちの会話に割って入ってきた。
「ということは、今、《同盟》の本部は無人だってことっスか?」
「ああ。誰もいなかった」
俺はうなずいた。ライデンの小鼻が興奮でふくらんだ。
「絶好のチャンスだ! 奴らの悪事の詳細がつかめるかもしれない! 俺、
「おい、《同盟》に手を出すなって上から言われとるんやぞ。忘れたんか?」
というハクトの叫びをきれいに無視して、漆黒の巨漢は軽やかにバザールの方角へ走っていった。おー勝手にしろー、と俺は見送った。
かなり高い確率で、ライデンは大した情報を見つけられずに終わるだろう。《同盟》本部に侵入して隅から隅まで捜索したとしても。
果物屋の親爺は「社員旅行か」と言っていたが、《同盟》の連中がコルカタを出たのはバカンスのためではない。この旅は、本部機能の移転だ。奴らが持っていたという大きな荷物には十中八九、移転先で業務を続けるのに必要な重要書類がぎっしり詰まっている。
ハクトと俺は顔を見合わせた。
「ほな行こか。血の気の多いアホは放っといて」
「放っといていいのかよ。いちおうおまえが面倒を見てる研修生なんだろ、あいつは?」
「かまへん、かまへん。ああいう元気すぎる子は、建造物侵入でコルカタ市警に逮捕されるぐらいでちょうどええんや」
俺たちは辻馬車を拾い、乗り込んだ。行先は「スタジアム前発着場」。フーグリー・ライナーの最寄りのターミナルだ。
俺はポケットから取り出した割引券に視線を落とした。
券面には、水上を滑る白い小型船のイラスト、そしてそれにかぶせるように「ベンガル水上交通公社」「フーグリー・ライナー 五パーセントOFF券」の文字が印刷されている。
――消えたスナーク博士を追うための手がかりとしては、いかにも心もとない。具体的な情報は何もないのだ。
だが、ティリーを取り戻すためには、どんな細い糸でもたぐっていくしかない。
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