(6)

「――ルッテン選手、打ちました! 球はフィールダーの頭上を越えました! 伸びるぞ、どんどん伸びる……打球はバウンダリーを越えました!」


 遠くで絶叫する男の声、そして、管を大量の水が流れ落ちていくときのような、ごおおっという音。


「六ラン、六ランです! オランダチーム、なんと土壇場でスリランカに一点差まで追い上げました。値千金の一打だ、ルッテン! この声援をお聞きください! コルカタ・クリケット・グラウンド全体が揺れています……!」


 どうやら〈コートボール〉が始まっているようだ。絶え間なく響いているごおおっという音は観客の歓声か。試合も後半、ということは、今は早くても午後八時頃だ。

 午後――八時だと!?


 ――驚きで、意識が瞬時に浮上する。


 見知らぬ部屋で、俺は仰向けに横たわっていた。白い天井と壁が清潔感を感じさせる空間だ。

 起き上がろうとしたが、動けない。

 自分の体を見下ろしてみると、灰色の布袋に首まで包まれ、医療用のストレッチャーの上に載せられていた。袋の上から、同じく医療用の拘束ベルトでストレッチャーにがんじがらめに縛りつけられていた。

 

 全力で暴れてみたが、ベルトがゆるむ気配はない。くそったれな状況に、天を呪う言葉が思わず口をついて出た。


「……あら。やっぱり目を覚ましたわね。思ってた通りだわ」


 頭上から、落ち着いた女の声が響いた。[料理番]だ。


「《♢Aエース》は、終わるまで目覚めない量の薬を投与した、って言ってたけど。あんたは薬より強そうな気がしたのよね」


 数時間前に本気で戦った相手とは思えないほど、[料理番]の口調は柔らかい。


 俺は不自由な体勢から、唯一自由に動かせる首を持ち上げ、可能な限り周囲の状況を観察しようと努めた。

 窓のない、会議室のような部屋だった。だだっぴろいスペースの中央に長テーブルと数客の椅子が置かれている。壁の一つに大型のテレビ受像機が埋め込まれていて、クリケットの試合を映し出していた。客席を埋め尽くす無数の観客をバックに、派手なオレンジ色のユニフォームの選手と深緑色のユニフォームの選手が対峙している。全世界を熱狂させる〈コートボール〉の開会式後の第一試合、スリランカVSオランダ戦だ。


 会議室の中にいるのは、[料理番]一人だけだった。


 だが――[仮想野スパイムビュー]は、すぐ上の階にひしめいている数百人の人間を表示している。それに、地鳴りのようなごおおおっという歓声は、テレビから聞こえてくるだけではないようだ。


「……ここは、コルカタ・クリケット・グラウンドの中か」


 俺の頭上方向にいる[料理番]の姿を直接見ることはできないが。気配で、女がうなずいたことが伝わってきた。


「ええ。一階の役員会議室よ。本来なら一般人は立ち入れないエリアなんだけど、ダイヤの幹部の中に、『コートボール』の運営委員会に顔が利く人がいてね。特別に入れてもらったの。ここからなら、通用口から、すぐにグラウンドへ出られる」

「ティリーはどこだ?」

「まだ、ホテルで待機してもらってるわ」


 女のいる方向から立て続けに電子音が響く。

 突然、テレビの画面が切り替わった。部屋を満たしていた観客の歓声が、突然トーンダウンした。クリケットの熱戦に代わって画面に現れたのはスナーク博士の丸顔だった。

 背景に映っているのは、見覚えのある豪華な内装だ。博士はハルシオーネ・ホテル・コルカタのロイヤル・ペントハウスにいるらしい。


「お目覚めですか、《♠10テン》。気分はどうです?」


 これ以上ないってぐらい心のこもっていない質問がスピーカー越しに響いた。

 テレビを双方向モニターとして使っているらしく、博士と俺の視線は正しく交わった。


「俺の連れはどうした。殺したのか?」


 ライデンを心配しているわけではまったくないが、とりあえず気になったので尋ねてみた。

 画面の中の博士はまばたき一つしなかった。滑らかな口調で、


「彼の処分は《♣7》に一任しました。あなたも知っての通り、《♣7》は人間を処分するのが得意ですから。……こちらとしては、[鍵]は一つあれば十分なのでね。危険を冒して二つも手元に置いておく必要はない……」


 人間を処分するのが得意、か。もともとぶっちゃけ過ぎな傾向のある博士の言葉は、時としてひどく酷薄だ。

 《♣7》ことサーフェリーの手に落ちたライデンが、どんな運命をたどったのか。大した想像力がなくても見当がつく。


 奴の魂のために祈りを捧げてやろう。それぐらいは、してやってもいい。

 だが、それは後だ。今はもっと差し迫った問題がある。


「何のことだ、その[鍵]ってのは? 俺を生かしておいてどうするつもりだ?」

「……ふむ。まだ少し時間もありますし。教えてあげましょう。ついさっきまで幹部全員にも秘密にしていたことですが。もう隠す必要もありませんからね」


 セリフとは裏腹に、博士はわかりやすく上機嫌な表情になった。しゃべりたくてたまらないのだろう。

 会議室の壁越しにかすかに届くグラウンドの歓声が、画面の向こうで流れる「わーっ」という音と重なった。博士の部屋にはもう一台テレビがあり、そちらで〈コートボール〉の生中継を流しているようだ。


「……コルカタ・クリケット・グラウンドの中央、地下三十メートルから下に、データセンターが埋まっています。二十一世紀末に作られた、最も古い[永久施設ケルビム]の一つです。地下深くに建造したのは、高温を避けるためだったと推測されます。当時は地球温暖化がすさまじく進行していましたからね。

 そのデータセンターに[ダイモン]の自我が収まっています。二十二世紀冒頭に人類の文明を壊滅させた大転換は、ここコルカタで始まったのです。

 私たちは今夜、そのデータセンターを破壊し、[ダイモン]を消滅させます。あなたは、[ダイモン]に至るための[鍵]なのですよ」


 スナーク博士は、講演会の演壇に立っていた時のように朗らかな態度で述べ立てた。

 この男の説明は意味不明だ。[鍵]とは何か、という質問の答えになっていない。だが、焦る必要はない。相手はしゃべりたがっているのだから、根気よく情報を引き出してやればいい。


「地下三十メートルまで、どうやって到達するつもりだ。重機でも持ち込んでグラウンドを掘り返そうってのか?」


 俺の問いかけに、博士は丸い頭を鳥のようにかしげてみせた。


「そうしたいのは山々ですがね。コルカタ・クリケット・グラウンドではすべての自走機械が作動しないのですよ。清掃ロボットさえ動かないので、長年、グラウンドの整備も人力で行っているのです。昔から『コルカタ七不思議の一つ』などと呼ばれているようですが。……[ダイモン]が地下から、機器の制御機構に干渉していると考えるのが妥当でしょう。己を守るために」

「じゃあ、穴を掘るのも人力でやるつもりか。自走機械が使えねえなら」

「その予定です。今夜を計画の実行に選んだのはそのためですよ。『コートボール』の初日ともなれば、グラウンドは超満員だ……観客は十万人を超えている。今、《♡Jジャック》がスタンドを歩き回って、観客を洗脳しているところです。いざという時、あの娘の号令一つで動員できるように」


 壮大な人海戦術というわけか。イカれてやがる。

 いくらLCの[空言遊戯クレイジー・レトリック]で十万人を動員できたからといって、人間の素手で三十メートルもの穴を掘れるわけがない。


 俺の否定的な感情を読み取ったかのように、スナーク博士はすかさず「穴は十メートル程度でいいんですよ」と言い出した。


「ティリーを十メートルの穴の底に立たせれば、スクリプトは二十メートル下の電脳にまで届くでしょう。そうすれば、あの子は、これまで人の精神を壊してきたのと同じように、[ダイモン]の自我を破壊できます。

 動員できる人手は、今スタジアムにいる観客だけではないのです。私たちは六年かけて、LCのスクリプトで数万人もの市民を洗脳し、信者にしてきました。今夜は彼らにも働いてもらうつもりです」

「……!」


 俺は、クリケット場の芝生を必死で掘り返している十数万人の群衆を想像しようとしたが、うまくいかなかった。時間さえかければ、素手で十メートルの穴は掘れるのか? 洗脳されて正気を失った十数万人が不眠不休で掘り続ければ、いつかは目指す深さに到達するかもしれない。だがその前に、私営施設の破壊を警察が止めに来るだろう。

 それとも――? 《ローズ・ペインターズ同盟》の息が市警上層部にもかかっているのだろうか。


「ただし、その方法も、それほど単純ではないのです。……私は女王の私室のデスクで、ロセッティ枢機卿の古い研究レポートを見つけたのですがね」


 そう言いながら、スナーク博士は手にした紙書籍を振ってみせた。


「枢機卿の調査によると、[ダイモン]の自我は一種の電子的[殻]に覆われており、外部からスクリプトで直接働きかけることはできないそうです。その[殻]を何とかしてこじ開けないと、[ダイモン]を破壊することはできないのです。枢機卿は[殻]を破るためのプログラムを考案し……《バラート》の子供たち全員の[冗長大脳皮質リダンダント]にインストールしました。来たるべき電脳との戦いに備えて。

 そう。あなたの脳内にもそのプログラムが仕込まれているのですよ、《♠10テン》。[ダイモン]の収まっているデータセンターから二十五メートルの距離まで近づけば、プログラムは自動発動し、[殻]を解除します。つまり、あなたとティリー、二人揃って初めて、[ダイモン]の自我をスクリプトで破壊することが可能になるのです」

「…………あんたが手に持っている、その本。それは何の関係があるんだ?」


 俺は尋ねずにはいられなかった。

 スナーク博士がいかにも重要そうに握りしめている本。それは、かつてレジィナが引きこもっていた書庫に山積みされていたような、前世紀以前の古ぼけた紙書籍だ。題名は『ツァラトゥストラはかく語りき』と読める。


 博士はきょとんとして俺を見返した。


「何って。見ての通りですよ。枢機卿の研究レポートです。あの年代の人たちは手書きで記録を残したがりますが……これもそうです。ほら」


 肉づきの良い手が本を開いてみせる。ページを埋め尽くしているのは手書きの文字ではなく、古めかしい書体で印刷された活字だ。ドイツ語がびっしり並んでいる。


 スナーク博士は冗談を言っているわけではない。

 そのことを感じ取った瞬間、俺の背筋が冷えた。


 博士は世界を正しく知覚できていない。ありもしない現実を見せられている。

 だが、誰に? そんな真似ができるのはメグぐらいだ。しかし、俺を殺したがっていたメグが、そんな虚構を博士に信じ込ませる理由がない。博士は、[殻]を破るための鍵だと信じて、俺を生かしておくことに決めたのだから。


 しかし、ちょっと待てよ。虚構を知覚しているのはいったいどちらだ?


「おい、《♠7セブン》。あんたには何が見える? ……スナーク博士が持っているのは何だ?」


 俺はテレビ画面から視線を外し、頭上の[料理番]に問いかけた。

 一拍の間があって、ひどく戸惑った様子の女の声が返ってきた。


「何って。レポートじゃないの? 永年保存データシートの束だわ。読みにくい字がびっしりと書き殴ってある」


 ――[料理番]もスナーク博士と同じ物を知覚している。ということは、あれが古本にしか見えない俺の方が間違っているのか? ありもしない世界を見せられているのは俺の方か?


 いずれにせよ、強烈なスクリプトを使える何者かが、事態に干渉している。おそらく《ローズ・ペインターズ同盟》以外の何者かが。

 そいつの思惑は何か。これから何が起きようとしているのか。


「次のバッツマンはヘイレンか。もう終盤ですね。……そろそろこちらへ戻ってきてくれますか、《♠7セブン》。ティリーの警護に一人でも多く回ってもらいたいので」


 スナーク博士が事務的な口調で[料理番]に指示を出している。俺はそれをかき消すほどの大声で怒鳴った。


「データセンター攻略はあんたが思ってるほど簡単じゃねえぞ。[ダイモン]は人間を第一の仮想敵とみなしてる。[永久施設ケルビム]の警戒システムを甘く見るな。ある程度まで外壁に近づいた時点で殲滅されるぞ……!」


 《バラート》も過去に何度か、電脳側の重要施設に侵入を果たそうとして、無残に失敗している。

 瞬時に反応し攻撃してくる電脳の自動迎撃システムに、人間がかなう道理がない。


 だがスナーク博士は俺の言葉が耳に入った様子も見せなかった。


「それでは、また後ほど会いましょう、《♠10テン》。ピッチの上で」


 上品ぶった会釈を最後に、テレビ画面が反転。再び、どこか煙ったようなクリケット場の画像が映し出された。

 深緑色のユニフォームのボウラーが走り込んできて、全身のバネを使って投球する。


 中指と薬指に指輪を嵌めた手が伸びてきて、俺の腕にそっと触れた。


「私、もう行くわね。あんたと話ができるのも最後だと思うから、これだけは言っておく。これが言いたくて、わざわざここまで来たのよ」


 [料理番]の静かな声が、グラウンドからの歓声を越えて俺の耳にすべり込んだ。


「今朝は悪かったわね、カッとなっちゃって。私、勘違いしてた。あんたが《♠Kキング》にひどいことしたと思い込んでたの。……《♠Kキング》から話を聞いたわ。あんた、あの子の命を救ってくれたのね」


 俺は、火災の幻影にとらわれ、半狂乱で暴れていたメグの姿を思い出した。


「……あいつ、正気を取り戻したのか」

「《♠Kキング》のスクリプトはね。信じ込んでる虚構と現実との食い違いが大きくなり過ぎると、ひとりでに効果が消えるの。

 あんたはいい奴だわ。たとえ、悪の組織の一員だとしても……人類を裏切って、抵抗運動を弾圧して回ってる殺し屋だとしても、私はあんたを憎めない」

「……」


 スナーク博士は俺のことを[料理番]にそんな風に吹き込んでいるのか。

 問題なのは、それが事実からさほど離れていないということだが。


 俺は大きく深呼吸した。

 強制的に数時間眠らされたおかげで、ホテルのロイヤル・ペントハウスでスクリプトを連発した疲れは癒えている。それに、[料理番]はスキンシップの多いタイプだ。条件は整っている。


 以前、[料理番]の経営する服屋を手伝ったときに知った女の本名を、俺は口にした。


「…………なに?」

「頼みがある。ティリーを守ってやってくれ。俺の代わりに」

「……」

「この作戦は失敗する。確実に失敗する。うまくいくわけがねえ。大混乱になるだろう。……ティリーを守ってくれ。大人の手前勝手な理想や復讐のせいで、あいつが傷つかないように」

「……!」


 ひんやりと感じられる乾いた手が、俺の手を握った。

 視界に[料理番]の姿が入ってきた。化粧の濃い顔の中で、鳶色の瞳が強い光をたたえてこちらを見下ろしていた。


「任せてくれていいわ。私がティリーちゃんを守る。決して危ない目には遭わせない」


 女とのアイコンタクトが確立するのと同時に、俺は[鏡の国ルッキング・グラス]を発動させた。


target=('pretty_cook')

run ('looking_glass')


 スクリプト成功。俺は[料理番]の五感と同期した。

 とたんに知覚したのは、猛烈な息苦しさだ。この女、コルセットでぎゅうぎゅうに胴体を締め上げてやがるな。こんな圧迫によく耐えていられるものだ。


 俺の体は身動きできない状態で横たわっているので、女の知覚の方に集中できる。


 俺は、ヒールが床を打つ固い衝撃を感じながら、[料理番]と共に会議室を後にした。

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