(2) 2周目

迷迭香ローズマリーだよ。ここがだ」


 謎めいたことをつぶやき、[帽子屋]はちらりと笑って見せた。


「ちなみにローズマリーの花言葉は『追憶』、『私を想って』、『あなたは私を蘇らせる』さ。ロマンティックじゃね?」

「何わけのわかんねえこと言ってやがるんだ、てめえは」


 空気を満たす青くさい香りが鼻腔にまとわりついてくるかのようだ。俺はいら立っていた。この香りはなぜか人の神経にさわる。


 [帽子屋]はへらへら笑い続けていた。さっきまでとまるで態度が違う。こいつは急に、自信たっぷりで強気な態度を見せ始めた。切り札を持っている人間の態度だ。――何か仕掛けたのか?


 俺は[帽子屋]への警戒をゆるめず、足元の床に視線を移した。

 瓶が割れ、透明な液体が床に広がっている。俺は[仮想野スパイムビュー]に表示される環境分析を深化させた。温度の変化は検出されない。床が溶け始めている様子もない。瓶が割れた前後の空気成分の変化からして、透明な液体の正体はローズマリーエキスのようだ。


 [帽子屋]ののんびりした声が俺の思考に割り込んできた。


「逃げたりしないから、この腕、放してくれない? 尾行がバレちゃったのは計算外だったけどさ……どっちみち、ここで少しあんたと話をすることになってたんだ。《♢Aエース》にそう言われてる」


「……」


 俺はハクトと視線を交わし、それから敵に注意を戻した。


「何が狙いだ? 話をするだけならこんな所じゃなくても……船の上でもできただろう。なぜこんな僻地へきちまで誘導した?」


 あはっ、と[帽子屋]は笑い声をあげた。真っ黒な瞳が愉快そうな輝きをたたえて俺を見上げている。


「ありていに言っちゃうと、ここが、誰にも邪魔されない場所だからさ。……せっかくだから全部話してやる。んだから。

 《♢Aエース》はあんたを殺したくはないんだよ、《♠10テン》。最後の最後、本当にどうしようもなくなったとき、ティリー様に言うことをきいてもらうために、あんたを人質に使えると思ってるみたいだ。だから、コルカタからほど良い距離にある、この場所であんたをするのさ。袋に入れて冷蔵庫に保管するみたいに。いつでも新鮮なまま取り出せるようにね」


 口調が明るい分、その非人間的なセリフがいっそう不気味に響いた。


「……もちろん、冷蔵庫の食べ物と一緒で、取り出すのをうっかり忘れて腐らせちゃう可能性もある。って言うか、そっちの可能性の方が高いかもね」

「……!」


 危険の予感に、俺の体がひとりでに動いた。考える前に[帽子屋]のみぞおちとこめかみに拳を叩き込んでいた。若者はかすかなうめき声と共に床に沈んだ。


「おー。出たな、おまえの『先手必勝タコ殴り』モード」


と[帽子屋]を見下ろしながらハクトがつぶやいたが、特に反対している様子でもなかった。


 俺はしゃがみ込んで、意識を失った[帽子屋]の服を探った。ポケットからスペード型のバッジが出てきた。表面が細かいダイヤで覆われ、真ん中に濃いピンク色の宝石が埋め込まれた、おなじみのバッジだ。


 こいつはスペードの幹部だ。

 [事実無根トータル・ファンタジー]を使う《♠K》か、全幹部の上に立つ《♠A》か、それとも、スペードの幹部に登用されたばかりの新入りか――?


 俺はハクトを見上げて尋ねた。


「『時間を結んで輪を作るスクリプト』ってのに心当たりはあるか」

「……いや、あらへん。聞いたことないわ。《ローズ・ペインターズ同盟》の奴ら、オリジナルを追求しすぎやろ」

「もし、それがこいつのスクリプトだとすれば……」

「そう言やこの坊や、さっき『結び目』がどうとか言うとったな。俺らはもうその『時間の輪』の中、ってことか」


 俺たちは口をつぐみ、四方八方に注意を飛ばして事象改変の気配を探った。五感で感じる世界に――[認識界エンベロープ]に違和感はないか。通常の物事のことわりから外れた不自然なほころびはないか。


 明確な異常は知覚できない。

 この六階建ての建物にいるのは俺たち三人だけだ。建物は、自治体データベースで公開されている登記簿とほぼ同じ形状をしている。物理的なトラップも仕掛けられておらず、爆発物のたぐいも存在しない。


 だが――この何とも言えない嫌な感じは、いったい何なんだ。


 俺はつぶやいた。


「この男がスクリプトを使うのはなかったぞ。それに、もしこいつにセキュリティフィルタをかいくぐる裏技があったとしても……こいつが気絶するのと同時にスクリプトも停止しているはずだ」

「そりゃそうやけど……ちょっとこの建物、調べてみぃへんか。なんや気持ち悪いわ、ここ」


 俺はハクトの提案に同意した。[帽子屋]が意識を取り戻せばいろいろ尋ねたいこともあるが、それまでにはかなり時間がかかるだろう。ただ待っているのも芸がない。


 それに、ハクトの感じている気持ち悪さはおそらく、俺が感じているのと同じものだ。

 ――[仮想野スパイムビュー]の表示によると、この保養所内に俺たち以外の人間はいない、はずだ。だが、妙な気配がある。目に見えない場所で大勢の者がうごめいているような。


 俺はロビーの隅にある器具庫らしい狭い部屋に[帽子屋]を放り込んだ。奴が意識を取り戻しても出られないように、扉の前に長椅子を移動させ、積み上げた。

 俺がその作業をしている間、ハクトは先行して建物の調査に出発したようだった。


 やがて、俺の名を呼ぶハクトの声が聞こえた。

 椅子の積み上げ作業を終えた俺は、声の方角へ走った。


 そこは食堂かカフェらしい広い部屋だった。庭に面した壁一面が窓になっていて、刈り込まれた芝生を眺められるようになっていた。適当な間隔を置いて十五台のテーブルが並んでいる。そのうちの一つ、壁際のテーブルに、突っ伏している人影があった。


 男らしい。服装からすると中年だ。

 死んでいた。死肉にたかる無数のうじのため、体の輪郭が揺れ動いて見えた。

 椅子に座った状態で静かに息を引き取ったのだろう。テーブルにはティーカップが置かれたままになっていた。


 俺は軽く目を閉じ、死人の魂のため神に祈りを捧げた。


 ハクトは部屋の入口近くの床に座り込み、本格的な還魂の祈祷を始めている。奴をそのままにして、俺は死体に近づいた。

 歩いている途中、[仮想野スパイムビュー]に「健康上の危険:空気が汚染されています」というメッセージが表示された。おそらく腐敗臭というやつが空気を満たしているのだ。一定レベル以上の臭気は[補助大脳皮質エクスパンション]によって自動的にカットされるため、俺たちには知覚できないが。人が死んでしばらくたつと、すさまじい臭いを発して腐ると昔の文献で読んだことがある。


 あの状態の死体からヒントを見つけるのは困難だろうが、それでも調べてみなければ。

 俺は男の死因を知らなければならない。なぜだかそういう気がした。


 そのとき、ぎょっとするほど近くで陽気な声が響いた。


「探検ごっこを楽しんでるところ悪いが、時間切れだよ♪」


 [帽子屋]だ。

 そんなはずはない。意識を取り戻すにしては早すぎる。それに――奴は器具庫に閉じ込めてある。あそこから出るためには、積み上げてある長椅子を扉の前からどけなければならない。相当大きな音がするはずだ。


 俺は周囲を見回した。だが室内には死体とハクトの姿しかなかった。


 姿なき[帽子屋]の声は続いた。


「今回はここまで。ここが、だ」

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