第7話 待てど暮らせど

 夏休みの残りもほとんど無くなり、明後日からは学校。二学期が始まる。何だかそわそわし始める。

 幸が帰ってくる気配が一向に感じられないのだ。俺ン家の裏が幸の家だが、もぬけの殻のままだ。

 連絡を取りたくても、取りようがない。

 そわそわがイライラに変わり始めて、俺は部屋の中をぐるぐる回り始めたものの、それでも落ち着かなくて、どたどた階段を駆け下りた。

 店には親父の姿がなかった。仕方ないので鍵を鷲掴みにして、玄関へと向かう。

 下駄箱の上に置いてあったヘルメットを抱えて、ドアノブに手を伸ばした。

 手が届く前に、ドアが開く。

 夏の眩しい光が薄暗い玄関に飛び込んでくる。その光と共に飛び込んできた影が、玄関先で蹴っ躓いて転んだ。

 持っていたヘルメットが、手からするりと抜け落ちて、床に転がった。

 俺は苦笑の溜息を漏らしてしゃがみ込み、転んだ影に声を掛ける。

「大丈夫か? ……だから、何時も言ってるだろ? 無闇に走るなってよ」

「痛たたたた……。だってぇ……」

 目の前に「待ちくたびれたもの」が転がっていた。やっと帰って来やがった。

 俺はその頭に手を載せて、感触を確かめるように撫でてやる。

「おかえり、幸」

「おにーちゃん、ただいまぁ!」

 くすぐったそうにはにかんだ幸は、元気一杯の笑顔を俺に向けた。

 ああ、やっと帰ってきたんだな――そんな実感が俺を満たしていく。

「エータロ、後はよろしくぅ!」

 タカ姉の声だ。

 声の方に顔を上げると、あの日、幸を連れ去ったワゴンが走り出すところだった。笑顔のタカ姉と瑞穂おばさんが俺たちを見ている。

 幸が俺の手を取った。

「ねぇ、いずみ亭にスパバーグ食べに行こっ! 今日はおかあさんの奢りだからっ!」

「そう言う訳だから……衛ちゃん、お願い! ……幸連れてって、好きなだけ食べさせてやって。ずーっと車の中でせがまれて大変だったのよ……」

 俺を拝んで苦笑する瑞穂おばさん。

 瑞穂おばさんにそこまで頼まれたら、俺も断る訳にはいかない。しかも、呑み喰いの代金はおばさん持ちってことは、たらふく喰っても俺の財布は傷まないって訳だ!

「分かりました! ……てゆーか、ご馳走になります!」

 俺は深々と礼をして、ニヤリと笑った。

 タカ姉が瑞穂おばさんに「知ーらないんだ」と呆れ顔になっている。

 瑞穂おばさんの笑顔に、不安そうな引き攣りが混ざったのは言うまでもない。それでも、気丈にOKサインを送ってくれた――武者震いしながら。


「――スパバーグ、スパバーグったらスパバーグ! いっずみ亭のスパバーグーっ!」

 スパバーグってのはいずみ亭の看板メニューであり、学生連中おれたちの定番中の定番だ。で、いずみ亭は我が街の老舗の洋食屋レストランで、知らない市民やつはモグリだと言われるほどの名店だ。

 てくてく歩きながら、幸が今、絶賛熱唱中なのは、作詞/作曲:佐寺幸の「スパバーグの歌」である。まだ、小声で歌っているのが救いで、こんなもの大声で歌われたら、とてもじゃないが隣でなんか歩けない。

 あの日喰い損なったスパバーグを食べに行こうって、どんだけスパバーグが喰いたかったんだよ。

「……」

 久しぶりに聞いた所為か、いい声してるよなぁって素直に思った。コイツが即興で作ったはずの「スパバーグの歌」がTVで流れていたような気になってしまう。

 放送部の武元が言うには、「ただカワイイだけのアニメ声ってのとはまた違う、癒やし系っつーか、聞いてるとホッとするよーな声っつーか……とにかくサイコー!」だそうである。……そこまでベタ褒めなのもどーかと思うが。

 で、武元に「入部してチョーダイ!」と、どっかのCMよろしく、熱烈なラブコールを受ける始末。

 当の幸も満更でもなかったみたいだが、いきなりの勧誘に困惑気味だった。放送部に入りたそうであり、遠慮してそうでもあり。唸りっぱなしで一向に踏ん切りの付かない幸は、結局最後にゃ「おにーちゃん、どうしよう……」と泣きついてきやがった。恐らく、天文部と掛け持ちになるのが負担になる、とか考えたんだろう。

「運動部じゃねーんだから、大丈夫だろ?」と言ってやったら、幸は「おにーちゃんがそー言うなら」と、次の日には武元に入部届を出していた。

 昔からこいつは大切なことを決めるときは俺に頼りっぱなしだ。進学先を決めるときもそうだったし、進級して理系文系の選択をするときもそうだった。

 ……全く、自分の意思とか希望とか、そういったものが無いのか、と心配になる。

 その癖、頑固で一度決めたら梃子でも意思を曲げない……って、そーすると、意思はあるのか。

 話が横に逸れたが、そんな訳で、幸は天文部の副部長をやってるにも関わらず、放送部の番外部員として名を連ね、校内放送やら高文連やらに出ている。それがまた、好評を博したり、入賞したりするのが凄いところで、幸の潜在能力を見出した武元の人を見る目を認める外――

「おにーちゃん……おにーちゃんってばぁ!」

 目の前に頬をぷうっと膨らました幸が居た。腰に手を当てて、大層お冠だ。

「久し振りに二人でいずみ亭に行くってのにぃ」

「悪かった。ちょっと考え事してたんだよ」

「うん! 許す!」

 幸が思いっきり破顔した。

 そんなにいずみ亭のスパバーグが食べられるのが嬉しいのか、今度は大層ご機嫌だ。

 まぁ、病院食は大して美味くないって言うからな。一月も入院してりゃ、好きな食い物や、美味い料理が喰いたくなるのも当たり前か。

 さっきの「スパバーグの歌」が今度は鼻歌になっていた。

 ロータリーを抜け、橋に差し掛かる頃には、幸のはしゃぎ具合もかなり落ち着いてきて、今は俺の隣を歩いている。とは言え、あくまでさっきと比べてであり、立ち止まって海を見たり、振り返ってロータリー上の花時計を眺めてたり、と忙しないことは忙しない。

「何キョロキョロしてんだよ。観光客みたいだぞ? この辺の景色なんざ、ガキの頃から飽きるほど見てるだろ?」

 幸は「はぁ」とがっかり風味の溜息を吐く。

「……分かってないなぁ。わたしはほぼ一ヶ月ぶりにシャバに出てきたんだよ? ずーっと懐かしい故郷の景色に想いを馳せてきたんだから」

「シャバって……お前ね、刑期終えた囚人じゃねーんだから」

「同じようなもんだよぉ……手術終わってから、しばらく目には包帯巻かれてたし、包帯取れてからも目が開かないんだよ? 目蓋がひっついたみたいになって開かないの。無理に開けようとしたら痛いし、おかあさんには怒られるし。……わたし、ずーっとずーっと真っ暗闇の牢屋に閉じ込められていたような感じだったんだから――」

 目を開けられない――本当に目の手術をしたってことか。それにしては、手術の痕なんかはさっぱり分からない。……流石は瑞穂おばさんだ。

 瑞穂おばさんは日本国内でも有数の優秀な外科医だ。どうして、こんな片田舎の個人病院である高階医院なんかで働いているのかが不思議なくらいで、実際、月の三分の一は家に居らず、日本中を手術のために飛び回っている。

 そのおばさんが手掛けた幸の目――一体、どんな手術をしたって言うんだ?

「――だからね、目が見えるって、とーってもステキなことなんだなぁってつくづく思ったの」

 幸の話はまだ続いていたようだった。

「……あ、そーだ! おにーちゃん、今夜、高階医院の屋上に付き合ってよ! 久しぶりに天体観測がしたいんだー」

「はいはい。仰せのままに――」

 まぁ、今日ぐらいは振り回されてやるか。埋め合わせもしないといけないしな。

 それに、これからいずみ亭で、俺はたらふく喰うつもりだから、その飲食代くらいは幸の言いなりになってやるのも悪くないだろう。

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