第8話 腹ぁ一杯だ

「もー、おなかいっぱぁい! しあわせー」

 ドアを開けた途端に幸の身体が宙を舞った。そして、大の字のまま落下した。

 落ちた先はベッドで、「わーい、久し振りの自分のベッドだぁ」、とごろごろしながら足をばたつかせている。

 俺は「はぁ」、と一つ溜息。おもむろに机の前にあった椅子に腰掛けて、その様子を見ていた。……まぁ、一ヶ月ぶりの我が家か……はしゃぎたくなるのも当たり前か。それ以上に、ベッドに飛び込んだ衝撃で幸の腹がパンクしないか、と心配になった。

 いずみ亭では散々喰った。本当に「食」より「喰」の字が相応しいくらいに喰い散らかした。

 驚いたのは幸の食べた量だ。

 スパバーグを皮切りにして、ピカタに照り焼きチキンピザ、マカロニチーズグラタンをおかずにしてハヤシライスを頂き、〆のデザートにはチョコレートパフェときたもんだ。

 ピザとグラタンは俺も頂いたが、それを差っ引いてもかなりの量だ。

 それでなくても、いずみ亭の「盛り」は他の店と比べると多目なのだ。

 例えば、スパバーグ――アレは別に「大盛り」と頼まなくても、フツーの男子生徒であれば満腹になるくらいの量がある。女子やちょっと食の細い奴であれば、残したところでおかしくはない。体育会系の奴らだと腹八分目といった感じだ。

 そんなスパバーグを幸はぺろりと平らげる。大盛りでもイケるらしいが、それだと、「チョコパフェが食べられないじゃない!」だそうだ。

 全く、身長百四十センチそこそこの癖に、その身体の何処に収まるのか不思議なくらい食べる。その割に横にも縦にも大きくならないから更に不思議だ。まぁ、いつもチョロチョロと動き回っているから、カロリー消費が激しいんだろう。燃費の悪い奴だ。

 現に今だってベッドではしゃいで……って、いつの間にか幸のバタ足が止まっている。

 その上、気持ちよさそうな寝息まで立てているではないか。

「……」

 苦笑いと溜息が漏れた。俺は静かに立ち上がると、そろりと部屋を抜け出した。音を立てぬようにノブに手を添えたままゆっくりとドアを閉め、足を忍ばせて階段を降りていく。

「……さて、おばさんに挨拶して――」

 独り言を呟ききる前に、居間のドアが開いて瑞穂おばさんが顔を出していた。

「幸、寝ちゃったでしょ? ……で、衛ちゃん、ちょっとお話があるんだけど、いいかな?」

「あ、はい……」

 瑞穂おばさんの声は真剣そのものだった。話とは間違いなく幸のことだろう。

 俺はいつもは幸が腰掛けている椅子に座る。おばさんはお茶を持ってくると自分の席――俺の正面に座った。

「今日はありがとね、衛ちゃん」

「改まって言われるほどのことじゃないですよ。……俺もたらふくご馳走になったし」

 満腹の腹を突き出して、さする格好をすると、おばさんがぷっと吹き出した。

「確かにそうよねー。あのいずみ亭で、お酒も飲まないで七千円相当をたった二人で食べるなんて、相当なものよ? どれだけ欠食児童なのよ、二人とも――」

 ……う、そんなに喰ってたのか。

 いずみ亭での勘定は幸に任せて、俺は爪楊枝咥えてたもんだから、総額までは知らなかった。

「――でも、その三分の二は幸が食べてたでしょ?」

「よく分かりましたね、おばさん」

「まぁ……ね。幸の大食いは今に始まったことじゃないけど、これからはもっと凄くなる。……そうね、今までの二倍くらいにまではなるかもしれない」

「えっ!」

 思わず声が出てしまう。現状でも幸の大喰らいは半端ないのに、その二倍にまでなるかもって……。

 半ば驚いたままの俺に、瑞穂おばさんは話を切り出した。


 事の発端となった、幸の網膜褐縮硬化症。その治療のために、幸と瑞穂おばさんほぼ一ヶ月、俺の前から姿を消した。

 治療方法がないはずの病気の治療——瑞穂おばさんも幸俊おじさんも

「治療不可能」と言われる病気の治療法を必死で模索したに違いない。

 前におばさんも言っていたが、実は網膜褐縮硬化症には理論上の治療法は無い訳ではなかった。

 何が何でも変異メラニンの沈着を喰い止め、生命を守るのであれば、脳に届くまでに、諸悪の根源である染色体異常を起こした網膜色素上皮細胞のある組織を丸ごと、完全に取り除いてしまえばいい。

 言葉にすればいとも簡単なものだが、実際にやるとなるとそんなに簡単にできるはずがない。視神経の終端には、視床や中脳という生体活動の根幹を担う部分があり、手術をすればそこを傷つけてしまう危険性が高い。ほんの僅かな傷でも致命傷になってしまうのだ。だからと言って、沈着部分の見極めが甘くなってしまうと、変異メラニンがわずかでも残ってしまい、元の木阿弥となる。非常にシビア、且つデリケートな手術で、執刀医の技術が極限まで要求される。

 その上、患者の視力は永久に失われる。

 だからなのか、今までその方法が採られた例しは一度も無かったのだ。

 しかし、その難易度激高な術式が、幸に施され、更には病魔に侵された両目を、そっくりそのまま人工視覚システムに換装する手術が行われた。

 この手術がIASAの準備した施設で行われ、執刀をしたのが瑞穂おばさんだった。

 考えすぎかもしれないが、瑞穂おばさんがここまで神経外科医としての技術を高めたのは、幸の手術の為だったんじゃないかって思ってしまった。

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