第2話 お前もサボりなのか?

 ついでに言えば、「おねーちゃん」もいる——タカ姉のことだ。俺はタカ姉と呼ぶが、幸はおねーちゃんと呼んでいる。

 昔から病弱で身体が小さかった幸は引っ込み思案な奴で、それを近所に住んでいたタカ姉とその子分(なのが情けないが)の俺が、引っ張り回して遊ぶようになった。それ以来、幸は俺のことを「おにーちゃん」、タカ姉を「おねーちゃん」と呼ぶようになった。

 まぁ、幸とはそんな頃から付き合いのある腐れ縁だ。

 昔からだが、本当に世話の焼ける奴なんだよなぁ。

 少し時間を置いたからか、幸の様子が大分落ち着いてきたようだ。

 しかし、まだどこかしら目の焦点が合っていないように感じる。だが、もう衝動的な行動に出ることはないだろう――そう確信して、幸にやんわりと問い質す。

「少しか落ち着いたか? その顔なら大丈夫だよな? ……だったら言うが、飛び降りようなんてバカな真似は止せ。どんな理由があるにしてもな」

「……やっぱり……分かってた?」

「あのなぁ、今まで見たこともねぇような辛気臭ぇ面した上に、タンクから一歩踏みだそうとしてたじゃねぇか。俺じゃ無くたって分かるぜ」

「だって、だって……だってだってだってぇ!」

 幸の大きな瞳から、涙が堰を切って流れだした。丸っきり小さな子供だ。

「落ち着いたらでいーから、理由を言ってみろ。聞くだけなら聞いてやる。……それも『兄』の務めだしな」

 ひとしきり泣いた幸は、これまでに至る経緯をぽつりぽつりと話し始めた。

 年に一度、定期的に目医者に通っているって話も初めて聞いたが、このところ目の調子が思わしくなく、母親の瑞穂おばさんに連れられて行った目医者で、衝撃の事実を耳にしたそうである。

 それは、自分の目が「網膜褐縮硬化症」と呼ばれる難病にかかっているということだった。今まで定期的に通院していたのは、その病気の進行具合を逐一調べるためだったのだ。

 で、この「網膜褐縮硬化症」という病気は罹った人間に失明をもたらし、その上確実に死に至らしめるという。しかも、治療法は見つかっておらず、病状の進行を止めることも、遅らせることさえできない――完全にどん詰まりの最悪の病気だった。

 ――ただし、それが全て本当のことであれば。

 別に幸を疑っている訳じゃないが、コイツは昔から早とちり、早合点が得意中の得意であり、話半分以下でも全てが分かったようなしたり顔をする。

 その所為で、俺は今まで何度煮え湯を飲まされたか、覚えてないくらいだ。

 だから、今回も話半分で聞いて話を盛っているんだろう——と踏んでいたら、案の定そうだった。

 母親と目医者の話をドア越しに盗み聞きしていた上に、途中からは居たたまれなくなってその場から逃げ出したそうである。

「まぁ……気持ちは分からんでもねぇが、俺から一言言わせてもらえば、『バーカ』としか言えねぇよ」

「な……!」

 幸の頬がぷうっと膨らんで、何だか文句言いたげだ。だが、ここは間髪入れず畳み掛ける。

「だから、俺の話も最後まで聞けっつーの! ……いいか? 話聞いたったって、ドア越しの盗み聞きでしっかり聞いたって訳じゃねーんだろ? しかも、話の途中で聞くの止めてるじゃねぇか! ちょっと短絡的過ぎやしねぇか? ……昔っから言ってるだろ? 話半分聞いただけで分かったような気になるなってよ! ……大体なぁ、お前は――」

 更に二の句を継ごうとしたところに、幸がぼそりと言った。

「でも、今、目が見えないのは本当なんだもん……」

 幸の表情から、嘘を吐いてないのは分かる。俺に向ける瞳も、何となく焦点が合ってないところをみると、その何とかって病気なのは事実だろう。

「だったら、目も見えないのに、そんなところ上がるんじゃねぇ。危ないだろが!」

「ここに上がったときは見えてたんだもん!」

 相変わらず、口だけは減らねぇ。

「仕方のねぇ奴だな。目が見えるようになるまで待っててやるから、それまでそこで大人しく座ってろ!」

「はぁい……」

 全く手の掛かる——だが、こんな奴でも学校での成績はすこぶる優秀で、試験の番付じゃ理数科の連中に混ざって上位を賑わせている。ところが、「天は二物を与えず」とはよく言ったもので、運動に関してはからきしだ。とんだり跳ねたり走ったりは標準を遙かに下回り、体力もない。

「……おにーちゃん?」

「どうした?」

「ありがとう! ……そうだよね、わたしの聞き間違いかもしれないもんね。わたし、おかあさんとちゃんと話してみる!」

 俯いていた幸が俺の方を見て笑う。視点はまだ微妙に俺に合っていない。

 しかし、その笑顔を見て少しほっとした。

「よーし、いい子だ。……んじゃ、景気付けにいずみ亭にスパバーグ、喰いに行こーぜ!」

 スパバーグは幸のお気に入りだ。

 てんこ盛りのスパゲッティの上に大きなハンバーグが乗っていて、その上にこれでもかってくらいのミートソースのかかった、レストランいずみ亭の看板メニューだ。値段も手頃なので、市内の高校生の間でも定番中の定番だった。

 こいつはちんちくりんのくせに喰う量だけは一人前だからな。

「うー、嬉しいけど……わたし、今、お金持ってない……」

仕方しゃーねぇなぁ。奢ってやるよ」

「やたっ!」

 幸が満面の笑みになった。その上、万歳までしている。相変わらず大袈裟な奴だ。

「あ、おにーちゃん! だんだん見えるようになってきたよ!」

 ほっとした声が漏れた。視線が修正されて、俺の目とぴったり合った。瞳がほっとした色に染まる。

 もぞもぞと立ち上がろうとした幸を諫める。

「まだ座ってろ。ちゃんと見えるようになってから立つんだぞ」

「はぁい」

 海へと風が吹き下ろし始めた。

 風に踊らされた髪をかき上げて、幸が微笑む。

「もう大丈夫! ……んしょっと! そっちに降りるよー」

 そう言って、幸が立ち上がった瞬間――

「……あれ?」

 不意に幸の身体がよろけた。

 そこに何の気まぐれか、風が一瞬強くなる

「――!」

 手を伸ばしたときには、幸の身体は既に空中にあった。

「幸ーっ!」

「おに――」

 幸の手が俺の手を掴もうとするが、届かない。

 そして――

 俺は幸が落ちるところを目の当たりにした。

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