サテライト・ガール ——先進科学シリーズ①

大地 鷲

第一章 サテライト・ガール

第1話 授業なんざ出てらんねーよ

「ヨーロッパに——」

 などと呟いたからといって、別に「——行こう!」と続ける訳じゃない。俺が行きたいのはこの建物の屋上だ。じゃあ、何でそんなことを口にしたかというと、そいつは単なる語呂合わせだ。

4682ヨーロッパに」ってことだ。

 目の前の数字付きのパネルからカチリと音がした。ドアノブを回すと、きいぃ、と古めかしい音を残してドアが開く。

 いつ見てもアンバランスだ。防犯上の都合とやらで、錆だらけのドアに似つかわない新しめのナンバーロックが取り付けてあるのだ。

 ドアをくぐってバタンと閉めると、再びカチリと音がした。自動施錠オートロックって奴だな。

 目の前には階段。建物の外側にある非常階段だ。

 手摺りも踏面ふみづらも錆だらけ。普段は使われていないことがよく分かる。とは言え、非常階段が活躍する状況なんかにゃ、出くわしたくはないけどな。

「……ふあぁぁ」

 目的地に辿り着く前に欠伸が出た。

 全くいい陽気だ。あまりにもいい天気過ぎて、授業に出るのが勿体ない。海霧ガスが猛威を振るい始める七月の道東で、雲一つない青空に恵まれるなんてのは、滅多にあることじゃない。

 故に、午後の授業は自主休校として、日向ぼっこで過ごすのが有意義な時間の使い方に違いない。高校二年ともなれば、授業の出席日数のやりくりなんざぁ慣れたもんで、あと二、三回さぼったところで、どうってこともない。

 そんな訳で、俺はこの建物の屋上を目指していた。

 ここは俺ン家の近くにある高階医院って名前の病院だ。「医院」なんて名乗ってるが、内科、外科、小児科の看板を掲げていて、入院も出来るそこそこ大きな病院で、何でも終戦直後に建てられたらしい。それだけの年代物なだけに、建物はオンボロで作りも古い。今どき、外にむき出しの非常階段なんて。この病院以外で見たこともない。

 まぁ、だからこそこうやって部外者の俺でも簡単に入り込むことができるってもんだけどな。……だが、それほど部外者って訳でもないか。

 高階医院ここの一人娘である高階貴音たかしなたかねは、俺にとっちゃ姉貴みたいなもんだし、その「タカ姉」からここの鍵の番号も教えてもらったんだしな。

 少し強いくらいの日差しが俺を出迎えた。

 視界が急に開ける。

 目の前に見える海は碧かった。見上げた空も、何処までも高く蒼かった。

 少し強いくらいの陽光の下、大きく伸びをした俺は指定席とも言える古びたベンチに横になる。

 おもむろに閉じた目が眠りを誘う闇に覆われ、雑多な音が聞こえてくる――カモメの鳴き声、タグボートのエンジン音、クレーンの駆動音……のどかだねぇ。

 そんな子守歌をバックに転た寝しかかった頃、混ざってきた別の音に、すぐ側にまで来ていた眠気が引っ込んだ。

「……ん?」

 俺はむっくりと身体を起こした。

 音は俺が少し前に昇ってきた階段のところから聞こえてくる。

 がん、がん、と小煩いが力無く、その間隔も間延びしている。だが、間違いなく足音だ。間もなく誰かがここに来る。

 誰かったって、鍵の掛かった非常階段を使える奴は、この病院の人間じゃない限り、俺以外には一人しかいない。

「……みゆきか?」

 足音が止んだ。

 姿を現したのはやっぱり幸だった。

 ここは彼女あいつのお気に入りの場所だ。昼間は給水タンクに腰掛けて港の方を眺めているし、夜は夜で天体望遠鏡を担いで星を眺めにやってくる。

 だが今は授業中だ。俺と違って、優等生の幸が授業をサボるなんざ、早々あるもんじゃない。……そういや、午後から病院に掛かるから休むって言ってたっけか。

「……」

 俺は声を掛けるのを躊躇ためらっていた。

 元気印がトレードマークみたいなあいつが、ぼーっとしながら給水タンクに向かっていたからだ。いつもなら、先に俺を見つけて声を掛けてくるような奴が、だ。

 幸はそのまま据え付けの梯子を昇って、給水タンクに腰掛けた。

 確かに、あそこは幸の指定席みたいなもんだが、どうにもしっくりこない。

 気になった俺は、できるだけ静かにゆっくりと歩み寄った。

 いつもとは違う幸——近付いたことでそれは一層確かなものになった。小さい頃からずっと見ているから、そんなのは手に取るように分かる。

 元々喜怒哀楽の激しい奴で、泣いて笑って怒っていうのが基本なんだが、そのどれでもない幸がタンクの上に座っている。

 ショートの髪が風になびいて踊っても、それを気にする風もなく港をじっと見つめている。

 そんな幸が、急に両手で顔を覆って嗚咽を漏らし始めた。

「——!」

 流石にこれには驚いた。何があったってんだ? 明らかな挙動不審。これはとして問い質す必要がある。

 その矢先、幸がすっくと立ち上がった。

 そして——


「み、幸じゃねーか。お前もサボりか?」

 俺はできるだけ平静を装って、幸に声を掛けていた。

 内心、びくびくだった。いきなり立った幸は何を考えたのか、給水タンクの先――何もない空中に一歩踏み出そうとしていたのだ。

 だが、何とか幸の足は止まってくれた。

「お、おにーちゃん!?」

 半分ひっくり返ったような声を上げ、ただでさえデカい目が、更に大きく見開かれる。それでも何とか取り取り繕おうとしたのか、幸は再びその場に座り込んだ。

「……そ、そー言う、おにーちゃんもサボり?」

「土田の物理なんざぁ子守歌にしかならねぇからな。……にしても、優等生のお前が授業サボるなんざぁ、珍しい事もあったもんだな」

「……えへへ、まぁね」

 平常心、平常心――正直、すぐにでも問い詰めてやりたかったが、ここで下手を打って衝動的な行動を取られても困る。

 ……そういや、前にもこんな事があったはずだ。だが、その辺りの記憶は、何だか靄みたいなのが掛かっていてあやふやだ。……どうにも思い出せない。

 あの時はどうしたんだっけか……。

 俺は然したる妙案も思い浮かばないまま、空を見上げていた。

「うん、いい天気だ。絶好の昼寝日和だぜ」

「……おにーちゃん? だからといって授業サボってもいいって理由にはならないよ?」

 窘めるような口調はいつもとそんなに変わらない。だが、何故だか目線は俺に合っていなかった。

 だが、迂闊なことは口にはできない。差し障りのない話題でいつものこいつに戻さないといかん。

「それにしてもだ。んなとこにぺたんと座り込むな。……パンツ、汚れるぞ」

「お、お、おにーちゃんにパンツの心配までされたくないよっ!」

 幸はさっきから俺のことを「おにーちゃん」と呼んでいるが、俺たちは断じて兄妹などではない。俺たちは同い年で同じクラスだ。それに、こいつは佐寺幸さでらみゆきで、俺は伊東衛太郎いとうえいたろう。苗字も違う。

 だからといって、複雑な事情がある訳でもない。

 俺たちは所謂幼なじみって奴で、幸は小さい頃から身体ガタイのデカい俺を「おにーちゃん」と呼んでいる。それだけの話だ。

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