第4話 俺だって本当は行きたいんだよ

 網膜褐縮硬化症——

 この病気は本当に失明をもたらし、最終的には生命さえも奪ってしまうのは事実だった。そして、一度罹ったら完治することのない、文字通り「死に至る病」……。

 医学の進んだ現代でも、治療法がしっかりと確立していない重篤な病気は、筋萎縮性側索硬化症ALSをはじめとしてたくさんある。しかし、大抵のものは完治はできなくとも、一時的に進行を遅らせたり、止めたりすることができる。しかし、網膜褐縮硬化症はそれすらもできなかった。

 諸悪の根源は染色体異常を起こした網膜色素上皮細胞だ。謂わば一種のガン細胞で、代謝不能な変異メラニン色素を産生する。

 変異メラニン色素が沈着した細胞は壊死を誘発しながら、まずは網膜を中心としてドミノ倒しのように広がり、続いて眼球をも蹂躙していく。

 侵攻はそれだけでは止まらず、視神経にも沈着して、最終的に脳の一部である視床に到達する。それを遮る術はない。そして、視床が完全に闇の色に染まるとき、死が訪れる。

 この病気は先天性のものであり、幸の網膜には染色体異常を起こした網膜色素上皮細胞があったのだ。

 少しずつゆっくりと、俺に理解出来るように中身を噛み砕いて、瑞穂おばさんは網膜褐縮硬化症のことを説明してくれた。

 背筋が冷たくなっていった。

「そ、それって、幸は……死——」

「そんなことは絶対にさせない!」

 瑞穂おばさんが俺の言葉をぴしゃりと遮った。そして、真っ直ぐな視線で俺を見据える。

「衛ちゃん、おばさん……これから幸の病気の治療に行ってくるから――」

「で……でも、治療方法はないって」

「——実はね、方法はない訳じゃないの。ただ、簡単な方法じゃないし、医療行為からは逸脱しているかもしれない。……でも、幸の生命を守るためなら私はやる。……本当は夏休みに入ってから、幸にもちゃんと説明した上でするつもりだったの。だけど、前倒しで計画を実行するわ。それに関してはもう話を付けてあるの。間もなく——」

 そのとき、手術室のドアが開いた。

「佐寺先生——」

 タカ姉だった。珍しく、瑞穂おばさんを一人の医者として呼んでいた。

 その横には俺の知らない女性ひとが立っている。

「——土岐環ときたまきさんが見えました」

 タカ姉の隣にいたショートカットの女性がにっこり笑ってペコリと頭を下げる。

「初めまして、土岐環と申します。……生前、佐寺博士には大変よくして頂きました」

「貴女が土岐さん……貴女のことは主人から伺っております。こちらこそ、大変お世話になりました。申し遅れましたが、私は妻の瑞穂と申します。よろしくお願い致します。……早速ではありますが、幸の手術の件は本当によろしいんでしょうか?」

 深々と丁重な礼を返したおばさんの声には、少しだけ不安が混ざっていた。

 土岐さんって女性は笑顔そのままで大きく首肯する。

「はい! 博士からちゃんと言付かっております。IASA、並びにスター・フィールド社も全面的にバックアップ致しますので、ご安心下さい。……表に車を用意してあります。準備をよろしくお願い致します」

 そういや、瑞穂おばさんは「幸の治療に行く」と言った。つまり、高階医院ではやらない……いや、できないって事だ。何処か設備の整った病院に幸を搬送するってことだろう。で、この土岐さんって人が、幸の搬送をしてくれるのか。

 それにしても、スター・フィールド社って、あの総合企業のか? あそこの会社は病院まで経営してるのか? それにIASAってなんだ?

 有名企業と、聞いたこともない横文字が、どうして幸の治療に関わるんだ?

「それじゃ、衛ちゃん、行ってくるわね」

「じゃあな、エータロ! ……しばし、みゆとの別れだ。ちゃーんと待ってろよ!」

 瑞穂おばさんとタカ姉が、幸を乗せたストレッチャーを手術室から運び出す。……タカ姉も一緒に行くのか。

 少し遅れて、俺もタカ姉の隣でストレッチャーを押していた。

「誰なんだよ、あの女性ひと

「……ああ、環さんか? あたしの高校時代のセンパイさ」

 タカ姉は札幌の四ツ葉女学院という、女子高に通っていた。

 道内でも屈指のお嬢様校に、タカ姉のようなじゃじゃ馬が通っていたっていうのは、未だに謎だったりする。

「そのタカ姉のセンパイが、どーして幸のことに関わってくるんだ?」

「気にすんな。大人には色々と事情ってもんがあるんだよ!」

「……」

 俺はそれ以上は何も訊けなかった。質問が無かった訳じゃない——逆に多すぎて何から訊いたもんだか、分からなかったのだ。

 程なくストレッチャーは終点に着いた。

 高階医院の玄関には救急車ではなく、大きなワゴン車が横付けされている。

 ストレッチャーはそのままワゴンに積まれ、瑞穂おばさんとタカ姉が「行ってくるね」と一言残して、乗り込んでいく。

 俺はその様子をずっと見ていた。

 そんな俺に、先に助手席に乗り込んでいた土岐さんが声を掛けてきた。

「そこの大っきな子! キミは乗らないの?」

「あ、俺は……」

 言葉を続けられなかった。

 本当は一緒について行きたかった。……しかし、そうもいくまい。

 だが、自分から否定するのは何となく嫌だった。

「……あ、そっか。学校があるか。じゃ、無理だよね。……キミ、名前は?」

「伊東衛太郎です」

「衛太郎クンね。幸ちゃんのカレシ?」

 いきなり彼氏とか言われて困惑する。

「ち、ち、違います! ア……いや、た……ただの幼なじみです!」

 ここで「アニキです!」と言うのもおかしな話で、しどろもどろになりながらも「幼なじみ」と言うのが精一杯だった。

「幼なじみかぁ。……心配だろうけど、大丈夫だよ、衛太郎クン! 幸ちゃんはちゃーんと無事に戻ってくるから。幸ちゃんのお母さんの腕とタカの力を信用しなさい! だから、キミは幸ちゃんの帰りを指折り数えて待っていてね!」

 俺はぺこりと頭を下げた。

「うんうん! ……それじゃ行こうか!」

 土岐さんの掛け声で、車は滑るように走り出し、俺の前から消えていった。

 俺は車が完全に見えなくなるまで、高階医院の前に立ち尽くしていた。

 俺がもっとしっかりしてれば、幸がこんな目に遭うこともなかった――そんな思いがずっと俺を苛んでいた。

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