第10話 いい月夜だねぇ

 高階医院の屋上での待ち合わせの時間は午後九時だったが、幸のことだから天体望遠鏡を担いでくるに違いない。

 あの天文部員は自分の身体は小さい癖に、自前の天体望遠鏡は大きいのを持っている。口径が二百ミリとかで、よくある細長い望遠鏡じゃなくて、シュミット何とかって型の、長さが短くて太いタイプのものだった。

 高校進学のお祝いにプレゼントされたそうだ。

 持っていくのはその望遠鏡本体に加えて、三脚だの何だのと結構な大荷物になる。俺としてはとっとと終わらせて帰りたいから、さっさと荷物を運んでやろうと早めに家を出て、幸の家に向かっていた。

 その途中、幸とばったり鉢合わせになる。

「あ、おにーちゃん!」

「よぉ。……って、手ぶらなのか?」

 珍しく幸は何も持っていなかった。正確には、スナック菓子の入ったコンビニ袋を持っていたが、いつもの望遠鏡一式は何処にもなかった。

「うん、今日はね、自分の『眼』だけで観てみようと思うんだ。……ウチのおかあさんから聞いたと思うけどさ、わたしの両方の眼はね、ナノマシンを使ったサイバネティクスって技術で作られたものなんだ。それでちゃんと見えるかどうかのテストしたいんだぁ」

 そうか……人工視覚システムでもちゃんと思うように天体観測ができるか、自分なりに見極めるつもりなんだな。

 あっけらかんと幸は言ったが、内心は少々どきどきしてるに違いない。

「まぁ、荷物無いなら俺も楽ができて助かるぜ。それにしても、お前、病気が治ってよかったな。失明しなくてもすんだし、死ななくてもすんだ」

「うん、よかったよぉ。わたしさぁ、ホント……死ぬんだって思ってたから……。死んじゃったら、おにーちゃんにも、おねーちゃんにも、おかあさんにも二度と会えなくなっちゃうんだよ? そんなの考えられないもん!」

「よく言うぜ。タンクの上で自分から飛び降りようとしたのは何処の誰でしたっけねぇ?」

「……あ、あれは、思わずだもん! 衝動的にだもん! 意地悪なんだからぁ! ……それにね、何も伝えないで死んじゃうのはイヤだもん。死ぬまでには絶対、お――」

 幸の言葉が途絶えた。

 見ると両手で口を押さえている。

「……ん? どーした?」

「な、な、何でもないよ。……うん、何でもない!」

 幸は口を押さえたまま、頭を後ろへ倒す。丸っきり薬を飲み込むような仕草だ。……これは、あれか? 言葉を飲み込んだって奴か?

 俺が眉を顰めるのを見て、幸は今度は頬に両手を当てて、「気にしない、気にしない」と笑って誤魔化している。

 赤くなってるようにも見えるが、暗くてよく分からん。

「何、ほっぺた押さえてんだよ。……で、死ぬ前に誰に何を伝えたかったんだ?」

「だからぁ、気にしないの! ……ふっふっふ、まだ時は満ちていないのだよ……」

 まぁ、これ以上問い質したところで、素直に吐く訳ねーからな。今日のところは見逃してやるか。

 角を曲がると高階医院が丸いお月様に照らされていた。

「お、満月か。風流だねぇ」

「満月じゃないよ、今日は月齢16.2。日本風に言えば、『十六夜いざよい』だね」

 幸がドヤ顔で窘める。

「はいはい。天文学者サマにゃ敵いませんよっと」

 俺は溜息交じりに、高階医院の非常階段のドアロックを解錠けると、大仰に畏まったアクションで幸に先を譲った。

「うむ、苦しゅーない! ……って、えへへ、おにーちゃん、ありがと! ……わぁ、わたし、この階段、やっぱり好きー」

 古めかしい音を確かめるように、幸は非常階段を一段一段ゆっくりと上がる。途中の踊り場で立ち止まって、階段からの景色を眺めながら。

「とうちゃーく! ね、見て見てー。手が錆で赤くなった」

 屋上に着いたところで、手摺を掴んでいた手のひらを俺に突き出す幸。

「……お前、そんな手のままで、菓子なんか食うんじゃねーぞ!」

「そんなの分かってますよーだ! ……んもー、おにーちゃん! わたしのこと子供扱いしすぎ!」

 そう言いながらも、院内に続くドア脇にある水道で、そそくさと手を洗う幸を見てると、苦笑しか出てこない。

「で、今日は何観るつもりだったんだ?」

「んー、何ってことはないんだぁ。……でもね、おにーちゃんには教えておきたいことがあるの」

「俺に?」

 ハンカチで手を拭きながら、幸は大きく頷いた。……何を見せるつもりなんだか。

 こうして、今夜の天体観測が始まった。

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