第二章 もう一人の幸

第13話 俺は眠かったんだよ

 誰が言ったか、「無限に広がる大宇宙」

 目前に広がる星空を見れば、それもむべなるかな、とは思う。

 観測方法に多少のコツは必要だが、こんな繁華街に近い街中で、天の川を確認できることも、幸ならずとも素晴らしいことだ、とは思う。

 しかし、だ――

 それ以上に俺は眠いのだ。このまま目を閉じさえすれば、穏やかな眠りの深淵へと誘われるに違いない。……そうだ、寝よう。眠ってしまおう。

 さらば、今日の日よ。また会う日まで――

「おにーちゃん! 屋上の地べたで寝ちゃだめだってば! 風邪引いちゃうんだからぁ」

 急に現実に引っ張り戻された。

 重い目蓋を開けば、そこには幸の顔――が俺を覗き込んでいる。

 俺はむっくりと起き上がった。

「……幸?」

 ここはいつもの高階医院の屋上である。……ああ、そうか。俺は今夜も幸に付き合わされて星空散歩に来てたんだっけな。

 俺たちは二人揃って、屋上に寝転がって天頂の星空を眺めていたんだ。

「すまねーな。今日は道場行ってきたからよ」

 俺は学校では部活はやっていないが、小学四年から空手を習っている。週一程度のもんだから、大して強いってことはない。

「大丈夫? もう帰る?」

「心配すんな、続けろ」

「分かったよぉ。それじゃ、続けるよ? ……次はこの間もやったけど、おさらいで『秋の星座とギリシア神話』ね――」

 ちょっと不満げな幸だったが、渋々といった感じで口を開く。

「――秋の夜空はね、明るい星が少ないの。一等星はみなみのうお座のフォーマルハウトだけ。でもね、その代わり、秋の夜空にはロマンチックがたくさん詰まっているんだよ――」

 だが、話が始まってしまえば、渋々だった口の動きも次第になめらかになってくる。

 幸の口調は今夜も天文指導員そのものになっていた。今年の夏は丸っきりできなかったから、冬休みに向けての予行練習のつもりかもしれない。

「――あそこに見える大きな四角形が俗に言う『秋の大四辺形』、ペガスス座です。英語読みだと『ペガサス』だけど、星座名はラテン語読みなので『ペガスス』になります。あの大四辺形の左上の星はアルフェラッツ。実はこの星だけはペガスス座ではなく、隣のアンドロメダ座のアルファ星なんですね――」

 こんな風に星と星座の話を広げながら、佐寺天文指導員の解説は続く。

 流石、放送部にスカウトされて、賞まで取っちまう実力は本物で、話し方、間の取り方は見事なものだ。今日みたいに雲一つない星空だと、プラネタリウムのような星座絵図が無くても十分に堪能できる。

 だが、如何せん、俺の身体が限界に近かった。

 暗いところで寝転がっている所為か、消えたはずの眠気がぶり返してきた。

 幸はノリに乗って話を続けている。にもかかわらず、俺の口は図らずも大きく開く。噛み殺すこともできない大欠伸が漏れていた。

「……すまねぇ」

「ううん。疲れているおにーちゃん誘ったわたしが悪いよ。稽古がある日だってのは分かってたんだけど、今日は大気が安定して、星が綺麗だったからさぁ」

 幸は天文指導員からただの幼なじみに戻っていた。

「今夜はもう帰って寝ちゃって! んで、しっかり休んでよね! 明日から学校だよ!」

 ここまでにっこり微笑まれては、俺は帰らざるを得ない。

 実際、眠くて仕方ないから、ここは素直に帰って寝ちまうか。

「んじゃ、帰って寝るわ。……つーか、お前。本当に一人で大丈夫なのか?」

「……あのねぇ、何度も言うけど、わたし、高二だよ? おにーちゃんと同い年。だから、外見とか言動で判断しないでよぉ」

 幸の溜息は深い憂いに満ちている。

「分かったよ。……本当に帰るぞ? いいのか?」

「しつこいぞー。だ・い・じょ・う・ぶ!」

 あっかんべーをしてくる幸――んなことやってるから、こっちは心配しちまうんだよ……。

「はいはい。だからって、夜更かしし過ぎんじゃねーぞ?」

「うん!」

 踵を返した俺は、幸に振り返りもしないで手をふった。そして、非常階段をゆっくりと下りていく。

「……」

 不思議なもので、あれだけ眠くて半ば朦朧としていた頭が、動き出すとクリアになっている。

 二階の踊り場まで来たとき、不意に好奇心が頭をもたげてきた――よーし、本当に大丈夫かどーか、見届けてやろうじゃねーか。

 その場でUターンをして、抜き足差し足忍び足で再び階段を上がる。そして、屋上すれすれのところで頭だけを覗かせる。

 珍しく、幸は空ではなく、港の方を見ていた。

 その横顔が月明かりに浮かぶ。

 ……意外と大人っぽく見えるもんだな。月光の魔力、恐るべし。

 ややもしばらく港を見ていた幸は、今度は月を見上げると大きな溜息を吐いて、肩を落とす。

 なにセンチメンタルになってんだか。

 レアな幸を拝めたのはここまでだった。

 月から視線を離して大きく伸びをした幸は、毎夜の如きルーチンワークに取り掛かる。

 まずは、ゆっくりじっくり星空を眺めていく。手にしたメモに、色々書き込んでいるが、あれは流れ星の数、人工衛星の数なんかだ。

 手術前のように、望遠鏡を覗くことは少なくなったが、その分、自分の眼でしっかりと観ている。

 ただ、前は黙々とやっていたのが、今はぶつぶつと独り言のように呟いては空を見上げていた。

 幸の眼がナノマシンの配置を変更することにより、望遠鏡みたいになることは知っている。しかし、それは「○○して」、と言うように声に出さないといけない。

 多分、今も「倍率上げて」だの、「ナントカ記号を表示して」だの言ってんだろう。

 つまり、「眼」に対して命令コマンドを音声入力する、といった具合だ。物思うだけでそれができれば、随分と楽なんだろうが。

 そんな幸をしばらく見ていたが、確かに大丈夫そうだ。

 一、二年前なら、「おにーちゃん、一緒に居てよぉ」などと、泣きそうな顔をしていたはずだが、随分と成長したもんだ。「おにーちゃん」は嬉しいぞ!

 ……んじゃ、俺も帰って寝るとするか。

 ほっとした俺の口から大欠伸が飛び出したとき、幸の口からは思いっきり素っ頓狂な声が飛び出した。

「——誰っ!?」

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