俺は……!1

 厳冬ますます身を縮め候。

 秋が終わったと思ったらすぐに極寒。肌に付着した表面上の水分が氷結したのではないかと思うような冬日である。これでは通学中に勉強もできん。いかん。焦る。


「おはよう田中君」


「……おはよう」



 何でもない朝だが、癪に触る。何に? 決まっていよう。佐川にだ!


 憂のなさそう面だな佐川。家庭円満。成績優秀で彼女までできた貴様にとって、さぞかし人生とは面白可笑しいものであろうな。まったくもって羨ましいよ! 人生代わってくれまいか!?


「……」


「どうしんだい? 元気がないようだけれど。相談なら乗るよ田中君」


 それは情けか? それとも哀れみか? 順風満帆な貴様にはさぞかし俺が惨めに思うだろうな。なぁ佐川よ!


「……」




「田中君?」



 止めよう。惨めすぎる。


 いかんな。最近追い詰められているせいか陰が入ってきよる。斯様な矮小、匹夫の思想よな。一同心を改めよう。心経、心経……仏説摩訶般若波羅蜜多心経……よし。落ち着いた。


「……田中君。大丈夫かい?」


「何でもない。すまないね佐川君。あまりの寒さ故、頭が回っていなかった」


「そうなのかい? 今年は特に冷えるようだから、風邪など引かないようにね」


 今年は冷える。か。毎年聞くなその台詞。ボジョレ・ヌーボーではないのだ。毎年毎年過去最高の寒さと宣う習慣は止めていただきたい。聞くだけで気が滅入る。もういい。話題を変えよう。


「時に佐川君。君、次の試験対策はできているのかい? もしよければ、数学の方を参考にさせてほしいのだけれど」


「それは勿論、対策は立てているしいいのだけれど、数学ならいまや田中君の方が上手なんじゃないかな。現に、前の模擬試験は君がクラスで二番手で、僕は三番手だったし」


「あれはたまたま。それに俺のは、付け焼き刃とはいわないけれど一朝一夕の代物。浅く根付いた幹に実るは所詮名もない畔の花。百代の年輪に刻まれた神体には、とてもじゃないが敵わないさ」


 これは謙遜ではない。確かに前回の模擬試験は俺の方が上だった。だが、これぞという設問を、佐川は外さない。此奴は、難く、配点の高い問いには全て正答を記していたのだ。

 勉学をやるようになり俺は佐川の強かさに畏怖の念すら覚えていた。此奴の聡明さは闇雲に勉学だけを続けてきた人間のそれではない。戦いに身を置いてきた者が得られる、狡猾なまでの閃きを有しているのだ。ガリ勉と侮ってきた自分が、誠、恥ずかしい。


「……田中君は、勉強は好きかい?」


「? どうしたんだい。急に」



 藪から棒だな。その質問に答えるのは構わぬが、意図を測りかねる。


「いや、聞いてみただけさ。どうなのかなって……」



「まぁ、最初はやる気すら起きなかったけれど、今や習慣ライフワークとなってしまってはいるね。ページをめくらんと落ち着かない。毎日毎日の予習復習は苦にならなくなったよ」


 控え目に言ったが事実だ。

 何せ人生がかかっているのだ。必死にならねば明日は拾えず、必死になれば苦など感じる余地さえない。命さえ厭わぬ研磨が活路開き生を拾う。死の境地に至れば、これ即ち極めたる也。勉学とは、これ死狂い也。



「……そっか……それは、いい事だね!」


「……」


 急にどうした。一寸影が差したな佐川。ただでさえ精気がないから妖の類いに化けたのかと思ったぞ。よく分からんが、勉学に対しネガティヴな感情を持っているのか? だとしたら……意外だな。俺が、てっきり好きでやっているのだとばかり思っていたのだが……ちと聞いてみるか。


「佐川君。君は……」



「佐川様。田中様。おはようございます」


「あ! 原野さん! おはよう!」


 ……タイミングの悪い。


 だがまぁいい。考えてもみれば、他人ひとの込み入った話しを聞くなど少々軽率であったな。いくら親しい間柄といってもあまり個人の領域へと足を踏み込むのは失礼千万。佐川の阿保とてプライバシーはあるのだ。それを侵害していい人間など存在しない。権利と尊厳は絶対。例外はない。切り替えよう。先までの考えはなし。三人揃って、共に登校しようではないか。





「……揃ったようだし、行こうか」





 冬の、薄灰色をした朝。いつものように話しながら、いつものように歩く。寒さは堪えたが、それでも、笑みが絶える事はない。不本意ながら、満ちている。

 今ほど平和な時もないだろう。人と肩を並べ語らう事が、斯様に心穏やかにするとは知らなかった。だが同時に不安となる。この平安はいつの日か崩れる仮初めの安楽なのではないかと、何故か沈む。不慣れな為なのか、単なる小心か判別はつかないが、それがじわと蝕んでいく感覚は確かで、穏やかでありながら、陰鬱とした猜疑心に苛まれる。

 それが軽蔑すべき歪な欲望から来ているのは承知していた。しかし、分かってはいても抑えられぬ感情の奔流が俺の中に確かに存在し、つまらぬ事だといって、その欲望を捨てる事を許さないのである。






 皮肉な事に斯様な症状は、心が満ちれば満ちるだけ悪化していった。そして次第に俺は、佐川や原野と距離を置くようになった。










 丁度祝日を入れた連休。当てもなく歩く。

 冷たい風が何処へなりと運んだ。

 花も葉もない木々が見下ろす街道を通り、幼子とその母親が戯れる公園を眺めながら塵と共に去り、腰を曲げた老婆が座るベンチを過ぎて、誰もいない坂道で汗を流し、畔に咲いていた花の残骸の悲哀にひしがれ、塀の上を渡る野良猫と目を合わさぬように、朽ちた廃墟に身を縮め、工事が進まぬ荒涼たる空き地に目をやりながら、痩せた老犬と挨拶を交わし、卒業した中学校のグラウンドを横切って、参拝もせず神社へ入ったかと思えばわけもなく溜息をつき、そのまま近くを流れる川と共に降っていけば、夕陽は斜に落ち山にかかりて、訪れる逢魔時の一瞬を彩るべく、影と黄昏の装飾を施しているのであった。

 風は止んだ。辿り着いた先は、職場体験にて俺が体験学習をしたスーパーであった。







「確かに、いい川だな……」


 さして時が過ぎたわけではないが、妙に懐かしく感じる。あのような経験でも、今ではいい思い出だ。二度とやりたくはないが……





「おや? 田中じゃないか」



 誰だ。馴れ馴れしく俺を呼び捨てにする奴は。生憎と俺は今機嫌が悪い。相手によってはタダでは……




「久し振りだな」



「……店長」


 ヤンキーであった。

 この川を見た時に何となく出会う予想はしていたが、まさか本当に顔を合わせる事になるとは。しかし、相変わらず人相が悪い。


「どうした。うちで働きたくなったが? 時給は最低賃金だが、廃棄品を拝借するくらいの事は目をつむってやるぞ?」


 誰が斯様な底辺職に……いや、確かに底辺の働き口だが、このヤンキーの仕事は貶す事ができんな。今、一所懸命な人間を馬鹿にする気にはなれん。それに一応、世話にはなったから。義には礼を、礼には義を返すのが人の道である。そこを外れるわけにはいかん。例え心中であったとしても腐すのは控えよう。


「ただの、散歩です……」


「……そうか」



 沈黙。


 気付いたのだがこのヤンキー、言葉が続かぬと決まって煙草を吹かす癖があるようだ。二の句を思案しているのか気まずさから逃げているのか知らぬが、存外人間らしいところを見せるものである。


「貴様、暇か?」


「え? あぁ……はぁ……」


 暇だから斯様な場所に来ているのだろう。まぁ暇というか、どうしたって憂さが晴れぬから仕方なくうろついているだけなのだが、多忙でない事は事実であり、誰が見てもそう感じるであろう。わざわざ聞くような事ではない。それをどうして……


「なら付き合え」



「え、どこに……」


「来れば分かる」



 無茶苦茶を言うな! まったくこいつは本当に人の都合を考えん奴だな! いや、都合を考えたからわざわざ暇かなどと聞いたのか……いや、それにしても、そんな、急すぎではないか? いや、暇と答えた以上、行かぬわけには行かぬのだが……あぁもういい! ままよ! どうせフーテン紛いの徘徊を続けていたのだ! 今更なにを恐れるものか! なるようになれ!





 何処へ行くかも分からぬままヤンキーの後ろについていく。どうでもよくなったとはいわぬが、少し自暴的な感情が走っていたのは疑いようがない。それが佐川と原野に対して動く、寂しさという感情であると理解はしていた。だが、それを認めるにはいかない。俺が奴らに対し友情を感じているなど、認めるわけにはいかんのだ!


 しかし、鬱屈したした感情とは裏腹に、夕陽を反射しながら流れる川が美しい。どうして俺の心はあのように美しくなれないのか。あぁ、憂鬱だ。

 

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