俺は……!3

 目覚めた。

 カーテンの隙間から標のように差し込む陽の光が、布団越しからでも分かるくらいに温かい。



「本日は試験」




 ツイッターにそれだけ書き込む。どうせ誰も反応など……うん? おや珍しい。誰かがリプライを飛ばしたてきたぞ。いったい誰だ。えぇ、本文は「頑張ってください」と。アカウント名は……ヘカベー……?






 ……






 誰だこいつ!? 知らんぞ貴様なんぞ! 急に何だ! ビックリするではないか!




 ……まぁいい。気を取り直して準備しよう。せっかく暁に起きたのだ。時間は有効に使わねばな。あくびを一つ。颯爽と部屋を出てリビングへ。今朝は俺が朝食を作ってやるのだ。腕がなるというもの。久方振りの厨故、頭の中でしっかりと順次を立てていこうではないか。では、いざ参る!


 立つはキッチン。狙うは馬鈴薯。人参。大根。皮を剥いて出汁に入れ一煮立ち。味噌と少々の味醂と醤油を入れて完成。根菜の味噌汁は息白し日によく合う。

 続いて、豆腐を皿に移し麺つゆを投入。そのままサランラップをかけ電子レンジへ。加熱している間に葱を刻む……よし。完璧な時間配分。切り終わると同時にnuke it 完了。熱を帯びた豆腐に刻み葱と一味を掛けこちらも完成。冷奴ならぬ温奴である(湯豆腐ともいう)。

 最後に卵をフライパンに落とし加熱。目玉焼きである。焼き方は片面サニーサイドアップ。(水蒸ボイル両面ターンオーバーなど邪道である)。同時進行で納豆を魯山人の黄金回数(四百回)にて作成。これも首尾よく目玉焼きの上がりと一致。皿に並べて食事の準備はこれ万端である。






「おはようございます。朝食、作ってくれたのですね。ありがとうございます」


 母の起床タイミングも、完璧完美バッチリではないか。


「気にする事はない。単なる気紛れだ」


 脳が完全に覚醒するには起床から六時間の猶予が必要らしいからな。此度の搔起はいわばついで。別に褒められるような事ではない。


「どれ、さっさと食べてしまおう。目玉焼きも豆腐も、冷めてしまったら不味いからな」


「そうですね。では、いただきます」


 さっさと胃に入れ、片付けを済ませて予習をしたい。此度の試験は下手を踏めぬ。万事を尽くしても尚足りぬのだ。


 ……



 ……足りぬ。

 確かに足りぬ。だが……







 果たして俺は、そうまでして母と有村との仲を引き裂きたいのだろうかというと、即答はできなかった。

 勿論、有村めは気に入らんし、できれば顔も見たくはない。奴が義理の父となるなど虫酸が走る。


 しかし、もし俺の存在が母の重荷となっていたとしたら。幸福に届かんとする母の身の枷となっていたとしたら。それは、それは……







「まぁ。私の作った味噌汁よりも美味しいじゃないですか。親不孝な子ですね」


 母が見せた微笑。

 病んだ痕跡など影も見せぬ母慈愛。



 ……俺はここに告白せねばなるまい。この母の微笑を。深き無償の愛が向けられるのを、俺だけの特権として、俺の中だけに、永遠に封じておきたかった事を。


 母との別れがもたらしたものは、尽きる事のない悲しみだった。決して満たされぬ渇きだった。婆にどやされるよりも、悪童共に追いかけ回されるよりも、母の不在が俺の意気を痩せさせた。来る日も来る日も母を望んだ。そして、ようやくその日が訪れた。それが終わってしまうのは、酷く、悲しい。悲しいのだが……


「……」



「どうか、しましまか?」


「いや、ゆっくり食べてくれ」


 腰を落としている母に彼方に消えし追憶の片鱗を重ねる。母は俺のために生きてきた。俺に半生を捧げてきた。その母の苦労と想いを巡らせると、どうにも、やるせなくなって、奈落に引きずり込まれたような暗黒が胸を覆う。



 母よ。貴女の人生は、幸せだったのでしょうか。それとも……



 ……




「ご馳走様だ! 片付けはやっておく故、食したら放っておいてくれ!」


 落涙を誤魔化すために飯を掻き込み、空いた食具と調理道具を先に洗う。

 冷たい水が素肌に刺さる。母はこれを毎日やっているのかと思うと堰き止めていた涙がまた氾濫しそうだ。いかん。顔を洗って誤魔化そう……



 ……寒い。



 隙間風に凍えながら自室へ。しばし机に向かう。気が付けば良い時間。登校の準備を済ませ、母が使った食器を片付け外。輝く太陽が空に座し、眩しい。










「おはよう。田中君」


「あぁおはよう。今朝も寒いものだね」



 佐川は相変わらず、佐川であった。そして……



「今日はお早いのですね」


「試験故、少しな」


 原野も相変わらず、原野のであった。



 いつも通りの場所で交わす、佐川と、そして原野との挨拶。これもまた、いつも通りである。


 しばらく前から再び一緒に登校するようになったが、二人は、俺がおらぬ間の事を何も聞かなかった。何日かぶりにこの場所に来ると、「久しぶり」とだけ言って、何事もなかったかのように俺を迎え入れてくれたのだ。


 良き友を得たと思った。

 そして、自らの矮小さを悔いた。つまらぬ事で、終生得難き縁を断つところであったぞと、自らを咎めた。



「対策は万全かい?」


「無論だよ。後はどれだけ実力を発揮できるか……それにかかっているね」


「カンニングするなら、お手伝い致しましょうか?」


「いらん!」



 原野の性根の悪さにも、一種の愛着が湧いてしまっている。相容れぬ人間だが、嫌いではない。



「原野さん。あまり田中君を揶揄っちゃあいけないよ?」


「佐川様ったら、冗談ですよ。冗談。でも、これくらいにしておきますね」


「そうだね。それがいい」


 佐川め。すっかり原野の扱いが上手くなっておるではないか。出会い始めはしどろもどろもいいところだったというのに、成長したものだな。


「佐川様は馬鹿真面目なんですから」


「人間、真面目が一番さ」


「……」


 ……むぅ。やはり場違いではないのか俺は。アベックの仲に割って入っているこの状況は、野暮天極まる唐変木てなっているのでは……いや、よそう。そんな考えこそ野暮のつくねだ。必要以上に気を使うのも逆に失礼。俺も二人も、あくまで一つの人間として付き合っているのだ。そこへ妙な思案を捏ねるなど俗な小人の在り方。俺は、そうではないだろう? 


「そんな事より、田中君。もし、有村先生が義父となったら……」


「是非もないよ。死ぬ程嫌だがね」


 これは本音だ。どうしようもないのだ。


「田中様は、有村先生くらい厳しい人に見てもらった方がよいのではないでしょうか」


 こう言われると、無性に反を起したい衝動に駆られる。原野め。それを分かってわざと言っておるな? 女の腐ったような奴だなまったく。



「……他人事だと好きに言えるものだな」


「原野さん。言ったそばから……」


「いや、いい。口と性格の悪さも原野らしささ。それより、そろそろ行こう。寒い」



 戯れるのも結構だが、俺は寒いのは嫌いだ。さっさと教室へ入り、ストーブの前で試験の最終確認をしたい。



「……田中様が京を褒めてくださるだなんて、珍しい事もあるものですね」


 あれが賛美に聞こえたか。つくづく理解しがたい脳の構造をしているようだな貴様は。それとも、耳に変換器でも付いているのか?


「……もしや田中君……原野さんを狙っているんじゃ……!?」


 貴様も大概だな佐川。一度その頭を開いて見てみたいものだ。




「それもまた、面白いですね」


 ……正気か? 

 原野、左様な事を言ってしまったら、佐川が……


「……馬鹿な……そんな馬鹿な……!」


「さ、佐川君?」


 何かぶつぶつと呟いておるが、大丈夫か佐川よ。


「今日は先に行くから! さよなら! 」



 ……行ってしまった。まったく原野め。ややこしい事をしてくれたものだ。佐川は妄想が暴走しがちな癖があるというのに。あぁ、どうしたものやら……と、どうした。何を笑っているのだ原野よ。さすがに傷心した相手を笑うのは悪徳の心得ではないのか? これは咎めた方がいいだろう。人として忠告せねばなるまい。


「原野よ。貴様、いくらなんでも人をからかって笑いものにするのはどうかと思うぞ?」



「田中様。佐川様は、わざとお道化を演じられたのですよ?」


「……?」



 なんと、あれが演技とな?



「……いったい、なぜ?」



「田中様を気遣っての事でございます。田中様がお暇していたので、私と話しがし難いだろうと考えていたに違いありません」


「なるほど。しかし、ならばそう言えば……いや、言えぬか」


 それこそ、俺に余計な気を使わせてしまうからな。


「はい。佐川様は、田中様の事を、いつも心配しておいででした」


「……そうか」



 そうだな。佐川は、そういう奴だった。




「俺は、まったくの馬鹿だったな」


「……それでも、佐川様の大切な人です」


「……嬉しいものだな」





 原野と二人で歩く。何を語るわけでもないが、不思議と話は途切れず、くだらぬ笑いが絶えない。

 原野は思ったよりも砕けていて、愉快な奴だ。寒さの中。俺は原野の横顔を見ながら、斯様な人間と供にいるのであれば佐川は幸福だろうと確信し安堵する。そして俺も、間違いなく幸せだ。

 ありがとう。佐川。原野。

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