俺は……!4

 学校に着く。試験の日だが、変わらず騒がしい。



「此度の試験は実に不味い。落第もやむなしだ」


「一夜漬けで建てた学びの礎が音を立てて瓦解していく……神は……神はバベルに雷を落としたもうた!」


「田中の馬鹿が馬鹿の防波堤だったのに、最近何を血迷ったか勉学に精を出してきよった。これはいよいよ危ない。これも田中の馬鹿が道化役を降りたせいよ!」


「そうだ! 我らがこうして窮地に陥っているのも、全ては馬鹿の田中が狂ったからよ! おかげで安全地帯が消え失せてしまったわ!」



 好き放題言ってくれる。まぁ、普段人を小馬鹿にしているが、奴らもそれほどおつむは良くなかったからな。下には下がいると胡座をかいていたツケが回って来たのだ。存分に焦るがいい。





「田中君」


 佐川か。ふむ。どうしたものか。「おや。佐川ではないか。えらく爽やかだな。先ほどまでとはえらい違いに驚いているぞ」などと、白々しく演技をするのも詮無いか……そうだな。馬鹿な真似はよして、平素通りにしておこう。



「あぁ、佐川君。朝はすまなかったね」


「こちらこそ申し訳ない。原野さんから、誤解だというメッセージを受け取って我に帰ったよ。いや、恋というのは、人を狂わせるね」


 知っている。原野が隣で目を細めながらスマートフォンを弄っていたからな。だが、そんな事を述べる程に野暮ではない。


「気にする事はないさ。ところで、試験に向けて最終チェックをしたいのだけれど、一緒にどうだい?」


「無論だよ。田中君、あぁそれと、古文を少し見てもらいたいんだけど……」


 おや。佐川が見て欲しいとは、珍しい。


「構わないけれど、文系は君の方が上だろう?」


「漢文は苦手なんだ。田中君、君、数学ばかりじゃなくて他の科目の成績もみるみる上がっているだろう? 他に頼める人もいないから、力を貸してほしくって」


 うむ。本来なら数学に注力したいところだが、此奴の頼みであるなら仕方ない。応えてやろう。


「そういう事なら喜んで助力しよう。佐川君には今まで借りを作りっぱなしだったからね」


「本当かい!? ありがとう! 田中君!」



 残り時間は僅かだが、まぁ良い。数学は三時間目。即ち、本日最後の試験である。途中の休み時間と、試験で余った時間を使って何とかしよう。


「ではやろうか。佐川君」


「うん! やろう!」


 覇気に満ちているな。これで本当にノイローゼを煩わせていたのか、俄かには信じられんが……原野め。登校途中に妙な事を吹き込みおって。どうしても意識してしまうではないか……











「佐川様がなぜ明晰な頭脳を持ちながら、やや格の落ちるこの高校へ入学したのか、ご存知ですか?」





 原野がそんな事を聞いて来たのは、学び舎に到着する間際の事であった。





「さぁ。知らんな」


「……あの方は、中学の頃からずっと勉学に打ち込んできたそうです。笑う事も泣く事も知らず、ただ、机に向かっていたと……」


「そういえば、奴の家系は代々志学の訓を持っているのだと誰かが言っていたな。確か、兄がサンクドペテルブルグ大学へ特待生として渡露したとか……」


「はい。加えて父君は学士院。母君はバイオ工学の権威でノヴォシビルスク大学の最高客員教授らしいのですが、共々殆ど家にはいなかったそうで、毎日、学業の課題がメールで送られてくるくらいしかコミュニケーションがなかったそうです」


「不憫なものだな。だが、それならどうしてこんな学校へ?」


「精神を病んでしまったのだそうです。佐川様は、遥か高みに望む兄の存在に挫折したと仰っていましたが、それよりも……」


「……両親の不在に、耐えられなかったのだろうな」


「……京もそう思います」


 親がいない底知れぬ孤独も悲しみも、俺は痛い程分かる。


「けれど、田中様と出会えてよかったと。ご両親には呆れられ、兄君には蔑まれたけれど、終生の友と出会え、ここに来てよかったと、そう申しておりました」


「……そうか」


 仰々しいな。左様に恩を感じられると、逆に面倒だぞ。



「いちいち大げさな奴だ。精神を病むと、どうも物事を誇大させるからいかん」



「その通りです。まったく、いつまでも田中様に義理を通さなくてもいいのに……」


「なんだ? 嫉妬か?」


「そんなものじゃありません!」


 図星か。普段の人を食ったような態度からは、想像もできん声を上げていたぞ貴様。




「田中様……京がこの話をした事は、佐川様には……」


「言わんよ。奴が話したくなったら聞くが、そうでないなら、わざわざ口にする必要がないからな」


 いらんことを喋るのは卑しくさもしい。寡黙は男の美徳である。聞いた話を右から左へ流すなどといった下衆の極み、この田中は致さぬ。



「ありがとうございます」


「些細な事だ。礼はいい。それより、言うなと言うのであれば、貴様はどうして……」


「さぁ。京にも、分かりません」


「……分からんのか」


「はい。そうです。分かりません……あぁ、もう着いてしまいましたね。それでは、ご機嫌よう田中様。また後でお会いしましょう」











 今思い出しても、原野の奴、妙であったな。なんとも言えぬ、人懐こい顔というか、妙に親しげのある眼差しであった。あの表情がどのような意味を持っているのか、俺にはどうにも分からん。

 ……これが女を知らぬ男の限界か……不甲斐ないな。どれだけ妄想を働かせても、女心というのはまるで霞のように実態が掴めんのだから、如何ともし難い。




「田中君? どうしたんだい?」


「いや、何でもない。さぁ、さっさと勉強に取り掛かろう」


「そうだね! ならば、小国寡民からお願いしたいのだけれど……」


「よろしい。やろう」







 漢文を読みながら俺は、佐川の青白い肌と痩せた身体を見た。不健康極まりない体躯は男子としては不出来で頼りなく、病を患っているのではないかと思う程に肉が薄かった。斯様な痩躯でよくぞいままで死ななかったなと悪い意味で感嘆し、俺は気の毒な気持ちとなる。



「どうしたんだい? 田中君」


「いや、何でもない」



 溢れそうな涙に堪え、佐川との勉強は終わった。試験が始まり、そして終わっていく。出来不出来は分からない。ただ、そんなものはどうでもよくなってしまった。俺は試験の最中、ずっと、原野から聞いた佐川の半生とその軟弱な体躯を思い返し、悲嘆していたのだから。




 

 ……年頃の男が肉も脂も浮かばずに、骨ばかりの作りとなるであろうか。

 馬鹿な。そんなはずあるわけあるか。何もないわけがないではないか。


 佐川はずっと耐えていたのだ。助けも救いもないまま、一人で忍んできたのだ。此奴もまた、悩みを、大きな苦しみを抱えていたのだ。



 ようやくそれに気が付いた。俺も奴も、互いに個々の苦しみを持っているのだ。

 大小の差はあれ、人は皆、生きるに当たりそれぞれ苦悩が付いて回る。それは、先の佐川は勿論。原野も、母も、そして、有村も例外ではない。人は苦しみの中で生きているのだ。苦しみの中にある、一縷の幸福に縋り生きているのだ。その幸福を奪う権利は、誰であろうと持ち得ない。


 ならば俺は、俺は、母と有村の幸福を……





 数学の試験が始まった。

 設問の答えが、まるで透視をしているように容易に思える。今日まで勉学を続けてきたのは無駄ではなかった。時間はまだ十二分にあるが、答案用紙は全て埋まり、幾らか見直しをしても、満点は確実だった。


 だが、本当に俺は満点を取ってもいいのだろうか。母と有村の幸せを奪っていいのだろうか。

 母は苦しみながらも病を乗り越え、滅私の精神を持って俺を育ててきたのだ。その母の、歳をとってから産まれた淡い恋の一幕を踏みにじっていいのだろうか。

 そして有村。奴は嫌いだ。嫌いだが、マイホームまで立てながら、妻子を捨てて母を選んだ男の覚悟を、知らぬと捨てていいのだろうか。







 人は皆、刹那の幸福を求め、地獄のような日々を生きている。


 生は苦しく、世は地獄のように非情なれど、それでも、人間には、光を求め、手に入れる権利がある。それは、人類に等しく与えられた、たった一つの、希望なのだ。






 解で埋まった答案。目線の先は、配点二十の微分積分……ややこしい問いだが、解けない事はない。いやらしい有村が確実に仕掛けてくるだろうと、片端から過去問やドリルを仕上げてきたのだ。式はツラツラと続き、表には俺が解いた、見事な曲線が描かれている。



 ……



 …………



 答案用紙が滲んだ。

 落ちた雫が、虹をかき消した。

 

 

 試験の終わるチャイムがなるまで、俺は、流れる涙を止める事ができなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る