秋
俺が返り討ちにしてくれる!1
葉が色づき始めていた。
夏の暑さは相変わらず居座っているくせに、移り変わりだけらしっかりと魅せるのだから憎い演出である。この分ならじき紅葉狩りもできそうだ。茶でも引っ掛けながら落葉を愛でるのも悪くはないな。いや、日本に生まれてよかった。美しき四季こそ、この国の誉れよな……
などと微睡んでいる場合ではない!
何の為に必死に公式を書き込んだノートを持ち歩いているのだ! 暗記だ暗記! 頭の中に公式を焼き写さねば、俺の明日は暗黒の淵へと沈むばかりなのだぞ! さぁペラペラめくるぞ一頁! 俺の脳よいざ動け! まぁ、もう学び舎は目の前なのだがな!
「なんだ田中。朝から勉強とは、随分優秀になったな」
「……!? あ、有村……!」
有村! こいつ、いけしゃあしゃあと!
こいつが、こいつがいなければ俺は母と二人で仲睦まじく過ごす生活があったのだ! 人生において糞の役にも立たぬ数学の習学などせずとも済んだのだ! この恨み、この憎しみは消えぬぞ有村ぁ! 末代まで祟りに祟り、貴様の血族が皆不幸となるよう呪いの限りを尽くしてくれるからなぁ!
「貴様! 不敬だぞ! 先生を付けんか先生を!」
「ひ、も、申し訳ありま……」
いかん! 落ち着け! 深呼吸だ!
……よし。安静完了。心拍正常。いかんいかん。危うく飼い犬が如く屑に尻尾を振るところであった。条件反射で萎縮する癖を治さねばな。俺とした事が失態失態。まったく、斯様な不埒極まりない教師に何を怯え畏る必要があるというのだ。抱くは反抗。向けるは牙。燃やす心は怒りの炎である。毅然とした態度を持って、露骨に不信感を見せてやろう。
「……どうも、先生。ごきげんよう。さようなら」
「……」
ナイスなしのつぶて! 有村め、言葉を失いおったわ! この隙に教室へ行こう。馬鹿に構っている暇はないのだ。引き続き公式を頭に叩き込みつつ警戒歩行。読み歩きによって視界が狭まる弊害が発生している故注意せねばならぬ。歩きスマフォなどという汚物のような言葉が流行っている今日の頃、前を見ずに歩いて事が起きれば、何を言われるか分かったものではない。最近では二宮金次郎も手に持った本を取り上げられたとニュースで見た。これも時代とはいえ、馬鹿らしい話だな……
「きゃっ」
しまった意識がそれていた! 気を引き締めた途端にこれだ! と、ともかく謝罪をば!
「あ、も、申し訳ありません!」
おのれまさかの接触ご無礼とは不覚にも程がある! しかも相手は女ではないか! これはまずい! 痴漢とされたら言い逃れる術がない! あ、あ、謝らなければ! 謝り倒さなければ俺の未来が……と、なんだ、そんな必要はないようだな。なんたってこいつは……
「なんだ、原野ではないか。悠長に歩いていては危ないぞ。気を付けよ」
まったくお騒がせだな魔女め。勢いで頭を下げてしまったじゃないか。俺は寛大だから許してやるが、他の人間だったらどうなっていたか分からんぞ? 一年なのだから、ちゃんと前を向きながら後ろも気にして歩け。
「誰かと思えば田中様ですか……そちらからぶつかってこられたのに、なんだとはご挨拶ではありませんか。
なんだ。斯様な事で反を示すか。尻の穴の小さな奴め。まったく、瑣末な事で怒るよるとはカルシウムが不足しているのではないか? いかんぞぉそれは。女はただでさえ骨粗鬆症になりやすいのだ。食事はバランスよく高水準なものを摂らねば産後に憂慮が残ってしまうぞ? ……いや、いやいや。待てよ。あぁ成る程。そうかそうか。分かったぞ。さては此奴、生理だな? それ故此れ程ピリとしているのか。ははぁ納得納得。で、あれば正論はいかんな。月の時期の女は輪をかけてヒステリックとなっている。下手に刺激をすればこちらの命が危ない。仕方ない。今日の所は折れてやろう。
「そう怒るな原野よ。ほんの冗談だ。男の馬鹿に付き合ってやるのも、いい女の務めだぞ?」
いい女の務め。か。そらぁ原野はいい女なんだが……いや、自分で言っておいてなんだが、持ち上げ過ぎたかな。だがまぁいいだろう。女など所詮は愚かな生き物なのだ、適当にまつり上げておけば「まぁ嬉しいわ」と嬌声を上げるに決まっている。男女共同参画だとか何とか騒がれてはいるが、社会を、文化を、歴史を作ってきたのは全て男なのだ。故に原野よ。貴様も俺の傍らで笑みを見せるがいい。それこそが貴様の、女の幸せなのだからな。
「勝手を申さないでくださいませ。理不尽に媚びへつらうくらいなら、京はいい女でなくて結構です。いっそ、現代の日野富子として悪名を世間に轟かせてご覧にいれましょうか?」
……
寒気がする。笑えぬ冗談だ。というより、
えぇい口惜しい。口惜しいが、仕方がない。ここは素直に謝罪の口上を述べてやる。だが調子に乗るよ? これはあくまで建前というやつだ。
「ふむ。冗談が過ぎたようだな原野よ。すまん」
頭を下げつつ舌を出す。
「そ、そこまで頭を下げなくともいいでのに……もう分かりましたから、どうか頭を上げてください」
そらみろ。
「そうか! そこまで言うならよっこらしょ! 上げよう! 頭を!」
「……田中様、本当に謝っていますか?」
「む、無論だ!」
勘が鋭いやつ!
「……まぁいいです。そんな事より、お勉強、続いているんですね」
「それこそ無論だ。俺が一度決めた事を途中で投げ出すわけがなかろう」
どうだ恐れ入ったか原野よ。俺は忘れぬぞ。勉学に勤しむ俺の姿を見た貴様が、開口一番「持って十日」と吐いて捨てた事を。
「あら、そうでしょうか? 私の記憶では、田中様は何でもかんでも投げ出すいっちょがみだったように思えますが」
失敬だなこいつ。殺生沙汰をご所望か?
……いや待て。いかに不遜不敵な腹黒魔女の原野とはいえ、ここまで不敬であろうか。いや、そんなはずはない。此奴は異常者だが淑女である。斯様に直接人を小馬鹿にするのは異常だ。
ふむ……
これも乗りかかった船(毒食らわばともいうが)。今日の原野は何かあるはずだ。知らぬ仲でもなし。よかろう。浮世の義理というやつだ。相談くらいは乗ってやるか。
「原野よ。なにやら調子が異なようだが、何かあったか?」
「……え?」
「何かあったのかと聞いているのだ。今日の貴様、少し変だぞ」
「……」
「話なら聞いてやるぞ? なに、遠慮はするな。俺の器は惑星規模だ。如何なる苦難も呑み込み、貴様に光明を与えてやろう」
解決できるかどうかは貴様次第だがな!
「……そうですね。何かあったかといえば、何かありました。しかし、人様のお耳に挟むようなものではありませんので……」
なんだこいつ。可愛くないやつだな。だがまぁ、本人が言いたくないのであれば仕方がない。重なる非礼を水に流し、ここは引いてやろう。何より、俺は忙しいからな」
「そうか。まぁ、話したくなったらいつでも来るがいい。さらばだ原野よ。達者でな」
「……はい。ありがとうございます。また、礼を失してしまい、申し訳ありませんでした」
……珍しく殊勝な態度ではないか。ますます気になるところだが……いや、止めよう。触れられたくないものを無闇にいじくりまわすのは粋だ無粋だ以前の問題だ。魔女といえど此奴も人間。それくらいの気は使ってやらねばな。
「なに。気にするな。では、本当にさらばだ。そろそろ時間がない故な」
「はい。それでは田中様。また、お会いしましょう」
深く頭を下げるではないか原野。ふむいい心がけだぞ? ふだんから俺を敬うように……おっといかん予鈴だ。急がねばな。
あぁ、今日も学校が始まるのか……煩わしい煩わしい……
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