この俺が働いてやろう!7

 飛び散った焼肉のタレ。誰に命じられたわけでもなく掃除をする。白い雑巾に染みていく油汚れに嫌悪感が湧く。しかし、俺がやらぬわけにはいかない。何せ事の発端が俺なのだ。素知らぬ顔して体験学習を続けられる程、図太い神経を持ち合わせてはいない。


「申し訳ございません。ただいま清掃中です。ご迷惑をおかけします」


 行き交う客に謝罪をするヤンキーの声を聞くと自分が責められているような気分になる。失態を晒した情けなさと無念が胸を突き刺し、叫びたいのに声が出せないという破綻が苦しい。それは勿論、陳列を上手くできなかった事への罪悪感もあるのだが、それよりも深く罪の意識に苛まれている理由は……


「あの婆め。やってくれたな……」


「さすがに今回はクビなんじゃないか?」


「……」


 焼肉のタレを陳列したのが、倉木の婆だと広まってしまっているのだ。

 その風評は周りの願望。自身が嫌っている人間を貶めるのは至上の悦楽であり、殊大義名分があれば批判も正当化さ無抵抗な存在を一方的に嬲れる。その様子はさしずめダックハントのようだ。しかも、婆はそれを否定せず言われたい放題言われ、ヤンキーもまた、叱責もせずに粛々と事後処理を進めており、それがまた、周りの人間の嗜虐心に拍車を掛けている。


「早く辞めればいいのに」


「無駄な仕事を増やしやがった」


「いっそ死んで方が本人も幸せなんじゃないか?」





「……」



 この状態は檄を飛ばされるよりも堪える。公衆の面前で土下座を強要された方がまだ良いと思えるくらい惨めな気持ちだ。散々罵られ、冷視される婆と、客に頭を下げ続けるヤンキーの存在が俺の血を凍らせ、腹を重くする。屈辱とか恥辱とか、そういった忿怒を伴う感情ではなく、ただただ悔恨の念が胸を占め、息をするのさえ辛い。雑巾の絞り音が、まるで俺の嘆きのように軋んでいる。無常だ。早々に帰宅し、指の一つも動かさずに目を閉じて項垂れ続けたい。憂鬱。無理という一言が頭の中に浮かびこびり付いている。これから先、俺は学校を卒業し働かねばならぬのだろうが、今日の出来事ですっかりと社会進出への自信が失われてしまった。自室に篭り、隅角で永遠に三角座りをしていたいと思い始めてきている。俺らしからぬ惰弱ぶり。だが、それも無理からぬ事ではないか。齢十七にして、斯様に過酷な現実を突き詰められれば、誰しもが労働に対する幻想を打ち砕かれ、親の年金が潰えるまで無労働主義者として燻りたくなるに違いない。まったく辛い。こんな気持ちのまま、残り二日間を過ごさねばならぬというのか。俺は間違っていた。こんな事なら、職場体験など否が応でも拒否すればよかった。欲をかき試験の加点など欲するのではなかった。大馬鹿ものだ。もはや取り返しが付かなくなってしまった。眼に映るもの全てが灰色に見え、終末が如く色褪せている。あぁ苦しい。辛い。生きているのが堪えられない。今すぐ腹を割いて血花を咲かせ、詫びの言葉を撒き散らし恥を拭たい。このままでは俺は本当に死んでしまうかもしれない。これ程までの挫折は初めてだ。いったい何がどうしてこうなってしまったのか。神は俺にどうしろというのか。絶望的な運命を前に、俺は抗う術を知らないというのに!


「田中君」


 誰だ。俺は今、話をする気分では……あ……



「……倉木さん」


 婆……俺を咎めにきたか。無理もないな。無実の罪を着せられたうえ、真犯人はのうのうと、素知らぬふりして雑巾掛けをしているのだ。文句の一つも、いや、平手の一つも浴びせたくはなろう。

 婆よ。貴様には俺を責める権利がある。存分に正当な罵詈雑言を並べて尽くすがいい。この場に限り、俺は全てを甘んじて受け入れよう。さぁ言え! 俺に対する批判を口にしろ! 心置きなく! 気が済むまで!



「田中君。大丈夫? ごめんねぇ。おばさん、うっかりして変な置き方しちゃったみたい。焼肉のタレ、こんなに積んだ事なかったから、失敗しちゃったぁ」


「……え?」


 何を言っているのだ婆。この焼肉のタレを積んだのは……


「店長にも怒られちゃったけど、許してくれたよぉ。やっぱりあの人は優しいねぇ。田中君も、よくしてもらうといいよぉ」


 ……なんだと? ちょっと待て。どういう事だ婆。よもや貴様、俺の代わりに罪を……いやしかし、ヤンキーは俺が積んだと知っているはずだ。何せ彼奴が俺に命じたのである。それを承知で、倉木の婆を人身御供にしようというのか。いや、それは駄目だ。いかん。言わねば、本当の事を……


「倉木さん! あの、この焼肉のタレは……」


「しぃ」


「……」


「田中君はいいのよぉ。初めてなんだからぁ。それに、おばさん、いつも失敗してるから、今更何をやっても大して怒られないのよぉ。だから気にしないでねぇ」


「……」





 ……


 言葉が出ない。

 俺は何をしている。今こそ立ち上がり、この件は自分が悪い。と、皆の前で申告すべきではないのか。それが何故できない。できないばかりか、何故胸を撫で下している。この矛盾を、俺は良しとするのか? 婆の笑みを前にして、泉のように湧き出す己が罪悪への嫌悪が広がっているではないか。

 それだけではない。俺はこの婆に、弱者の化身たる木乃伊のなり損ないに同情され、庇われ、尚且つ微笑を向けられているのだぞ? それでいいのか田中よ。貴様はこのままおとなしく、逃亡者の精神を持ち続けて生きていくつもりか。自らの罪から目を背け、一生にまとわりつく影を作って人生を歩んでいくつもりなのか。


 自問自答。

 絞られていく雑巾が軋む。細く、醜く、不恰好で、まるで俺の未来を表しているように……




 ……わけがあるか。


 

 ……そんわけがあるか!




 何を考えているんだ俺は! 俺はこの俺だぞ! 田中だぞ! 田中である俺が左様に狭量で惨めであるはずがあるわけがなかろうが! はっはっは! まったく馬鹿だった! 慣れぬ環境故、肝が縮んでおったわ! 迂闊迂闊! いやはや不覚! いや、呆けていたわ 斯様な事態となったのは想定外であるが、起こったものは仕方がない。過失を認め、名誉挽回に努めるが真の男の潔さ! それを忘れていた! この田中、危うく女々しく生き様を汚すところであった! 

 それに更にいえば、目の前の屑供が先ほどからひそひそと聞こえるよう汚言を吐いていくのが気に食わん! 気に食わんのだが、その陰湿に歪んだ性根を照らしてやるのが、俺の役目と心得た! 愚民供! 俺がクライストとなってやる! 満ち満ちる後光から目を背けず心に刻め! そして改心するのだ! 闇に落ち、ドブのように腐敗した心根を、今こそ洗い流し胸を張って生きるがいい!  はっはっは……


 おっと危ない。高笑いが出そうであった。ここは我慢だ。いまはその時ではない。


 それでは気を取り直して……ゆくぞ! 謝罪へ!





「て、店長ぉ!」


 声が少し裏返ってしまったがまぁ良し。抑えきれぬ詫びの心をしかと受け取れ金髪ヤンキー! 誠意溢れる我が姿! その両目を開き見届けよ!


「……田中君か。今忙しいんだ。後にしてく……」


「申し訳ありません! ご存知とは思いますがこの焼肉のタレを陳列したのは俺なんです! どうか罰を与えてください! 信賞必罰は仕事の骨子! それを歪めてしまえば残るは馴れ合いと堕落です! 俺はそれを良しとはしません! ですからどうか、相応の処遇をお願い申し上げまするぅ!」


 決まった! 完全なる土下座が今決まった。

 シンと静まる店内! 延々とこだまるする俺の声! 周りの人々は皆一様に異物を見るようにして俺に視線を定めている事だろう! だが! 



 構うものか! これが男の生き意地よ!



 乾ききっていない床は焼肉のタレの臭いがする。油が顔につき大いに愉快だ。汚れはするがしかし、自らに反して生きるよりははるかにマシである。

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