この俺が働いてやろう!8
「田中君! 困る! 一回頭をあげろ!」
許しが出た。頭を上げよう。そして目を見て再び陳謝だ。平伏謝罪は下げて上げて申し開く。ここまでが一セットである。
「本当に申し訳ありませんでした!」
しまった。勢い余ってまた頭を焼肉のタレ溜まりに擦り付けてしまった。うむ。ニンニクの香りがよく効いているな。実に食欲をそそる。改めて勿体無い事をした。今度母に購入を勧めてみよう。
などと考えている場合ではない。今は心からこの狼藉に対し深謝せねばならん。
いや、まったく面目ございません。本当に申し訳ありませんでした! 全てはこの田中の不徳とするところ! どうぞ煮るなり焼くなり好きにしてくださいませ!
「いいから! 一度上げた頭をまた下ろすな! とりあえず立て!」
ヤンキーめ。狼狽しておるな。せっかくの強面が台無しだぞ? まぁいい。ともかく、指示に従おう。
「分かりました! ともかく一度起立します!」
「頼むぞ、本当に……」
起立成功。静まる。見渡せば店内。うぅむ……今更ながらに思うがこの謝罪、少しばかり向こう見ずな行為であったかな。客のいる中、高校生が土下座をすれば今の時代あっという間に拡散炎上大事件である。幸いな事に携帯電話やスマートフォンを構えている人間はいないようだが、この異常事態は口伝えであっという間に町内連中の耳にはいるであろう。悪事千里を走るとはいうが、悪事でなくとも噂話なんてものはすぐに知れ渡るもの。前時代から今日に至るまでゴシップ誌が廃刊にならぬのを見れば瞭然の事実であろう。
……いかんな。
鑑みれば鑑みるほど、生き急いだ感が湧き上がる。あいやしまった。軽率だった。些か自己の満足が先走ってしまったか。しかしもう遅い。覆水は盆に返らぬのだ。やってしまったものはどうにもならん。すまんなヤンキー。だが、人の噂も七十五日。約二ヶ月の間、辛抱してくれ。さて、では、謝罪の続き、仕る!
「本当に、本当に申し訳ありませんでした!」
腰の角度は九十度。両手は真っ直ぐ腿に密着。視線は真下に直滑降。靴先二足、相手に向ける。歪みなき直線こそが立礼の基本にして極意。いかがかなヤンキー。いや店長。完璧なる謝罪を前に声すら出せまい。だが、許す許さぬは貴様の腹一つ。そして当然、不許『ゆるさず》の札を掲げるのも無理からぬ事。それに関してどうのこうのと喚くつもりはない。しかし店長。この俺の謝意。分かってくれ。伝わってくれ! 先ほど、この自らの一方的な謝罪に疑問を投げかけはしたが、胸がざわつき、どうしても頭を下げずにはいられないのだ! 故に店長! 二つの意味で申し訳ない! 気苦労絶えず心労計り知れぬとは存ずるが、どうかこの田中の懺悔、聞き届け、受け入れてはくれまいか! もはや排泄に等しい下劣な欲求なのかもしれぬが、俺は謝りたいのだ! 謝りたくて謝りたくて堪らないのだ! 店長! 何度もいうが許してくれなくてもいい! ただ、ただ一つ、謝る許しだけはいただけないだろうか! でなければ俺は一生不埒者だ! 過ちを鑑みない破廉恥だと言って回るような人生となってしまうのだ! あぁそれは嫌だ! 我慢ならない! 考えただけで憤死してしまいそうだ! 店長! どうか店長! どうか、どうか俺に謝意をさせ続けて欲しい! 後生だから! どうか! どうかこのまま……
「わ、分かった! 分かったから、一旦裏に行こう田中君」
通じた! 俺の誠意が伝わった! このまま話もされず通常業務に戻るかと思ったが、場を設けてくれるか店長! よしよしいいだろう! 裏へ行ってやろうではないか! 例えそこで蹴る殴るの仕打ちがあろうとも此度は不問に処そうではないか! 腹は括っているのだ! 打首獄門以外であれば仔細なし! 行くぞ店長! 今こそ俺の咎を糾弾するのだ! さすれば俺は、全てを認め償うだろう! これぞ誠の贖罪なり! いざ向かわん! 審判の地へ!
……
バックヤードを抜けやってきた更衣室。誰もいない空間。ただ静かな空間だけが、そこにはあった。
「困るな田中。あれは倉木さんがやったという事で片が付いたんだよ。それを引っ掻き回されると、こちらとしてもいい迷惑だ」
「……え?」
「この件は落着していたんだ。お前は黙って雑巾掛けしておけばよかったんだよ。言わなかった俺も悪いがな」
「……」
……ふざけるなよヤンキー。全て婆の責任となっただと? そんな出鱈目が許されるわけがなかろう! それではあの婆がまるて奴婢ではないか!? 今は江戸か桃山か!? 違うだろう! 日本が平成となり何年経った! いい加減時代から錯誤した価値観を改めよ!
「……気に入らんか。そうだろうな。俺も、くだらない決断をしたと思うよ」
知るかそんな事! 結局貴様は同調圧力に負け婆一人を悪とする道を選んだのだ! だかそれでは良心が痛む故に懺悔を俺に聞かせるのだ! だがそのような自己満足な自己否定、聞く耳持たん!
「そんな判断間違ってますよ! 俺が言うのもおかしいですが、是非俺に責を問うてください!」
「責といってもな、職場体験の学生が何を背負うつもりなんだ。学校へ報告したって、せいぜい小一時間叱られるくらいだろう。こっちもつまらん詫びの言葉を聞かせられて終いだ。事象は覆らんし、改善もできん。意味がないんだよ。お前を咎めても」
「そんなものは論点のすり替えです! 詭弁じゃないですか! 俺は、倉木さんが不当な仕打ちを受けている事を問題にしているんです!」
「……馬鹿だなお前は。倉木さんが悪くないなんて、みんな知っているに決まっているだろう」
「……どういう意味ですか?」
「そのままの意味だ。そもそも、倉木さんはあの時間、精肉の手伝いをしていた。周知事項だ」
「じゃあ、何で……」
「言っただろう。あの人はサンドバッグなんだ。周りの連中は、叩ければ事実がどうあれ関係ないのさ」
……なんだそれは。
貴様、それを良しとするのか!
「ふざけるな! 貴様それでも店長か!」
一度は退いたが二度目はないぞ! 今度こそ貴様の性根を叩き直してくれる! 歯を食いしばれ腐れヤンキー! 断罪の時だ! この俺が成敗してくれる!
「……舐めた口叩くじゃないか」
……!
「……うぅ」
なんという重圧……睨まれただけで怯んでしまった……これはあの爬虫類面の川島とは比べ物にならん迫力……俺は今、恐怖している……このヤンキーの、凄まじい気迫に……!
「確かにお前は正しい。清廉潔白とはまさにこの事だろう。そこは認める。だがな。俺の、店長としての役目は、いかにして店を回し、利益を上げるかだ。それは当然本社の意向。例えば、あの人が労基やらなんやらにリークするのであれば、当然対策はする。しかしな。あの人はそんな事を絶対にしない。だから利用させてもらっているんだよ。そうすれば、店は纏まるし、適度にガス抜きもされる。それで全てが丸く収まるんだ。だから、余計な事はするな」
……なんたる悪辣。此奴、婆をスケープゴートにするとは……人道から逸れるのもいい加減にしておけよ貴様!
「そんな事、承服できません!」
「何だと?」
「っ……!」
臆するな俺よ。斯様な卑劣漢に何を恐れる。湧けよ血! 踊れよ筋肉! 悪の権化を討つ為に今こそ立ち上がるのだ田中よ! 敵は目の前、裁きの時だ!
人の気配。瞬間、扉の開く音。何奴だ! 空気機が読めぬな!
「店長ぉ。もう、いいんですよぉ」
突如開いた扉。そこにいたのは……
「倉木さん……」
倉木の婆は笑っていた。だが、その細い瞳の奥底には、切ない光が宿っているのだった……
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