この俺が働いてやろう!9
婆め。何しに来おった。貴様に関した話だが、貴様には関係ないぞ。
「店長。そんなに自分を悪者にしないでください。これまでの件は、全部、私がお願いした事ですから、そんな風にされたら、逆に困ってしまいますよぉ」
なんだ。なんの話だ。お願い? 婆が店長に何を言ったと言うのだ。
「決断は私がしました。それに事実、倉木さんには辛い思いをさせています」
「いいぇ。店長は、ちゃんと私を庇ってくださってますから」
……
話が見えん。二人の世界で俺は蚊帳の外か? 気に入らん。婆め。急に割って入って来たかと思えばいきなり話を掻っさらいおって何様のつもりか。貴様は世界の中心ではないのだぞ? まずは場を伺い人を立てたらどうだ? 端役は端役らしく、影に徹した方が身の為だぞ?
「田中君。ごめんなさいねぇ。私を心配してくれたんでしょぉ?」
「え、え!? あ、いや、そんなつもりは……」
いきなりこっちを向くな婆! 思わず吃ってしまったではないか! というか、そもそも貴様を心配したわけではない! 俺は人権を侵害するような不当な社会を是正すべく、悪の基幹たるこのヤンキーに正当性を説かんとしていただけに過ぎんのだ! 別に、貴様の事などどうでも良いのだ! 俺は理不尽を嫌悪しているだけなのだからな!
……
……そう。この世界は理不尽なのだ。弱者ばかりが憂き目を見る世の中なのだ。だが、間違っている。そんなものは許さない。許せない。許すわけにはいかない! 人は皆幸福でなくてはならんのだ! いかなる身においても、平等に幸福でなくてはならないのだ! 故に、故に俺は……
昔の記憶が頭を過ぎる。
暴力の痛みと、自分を守る人間がそれに晒される悲しみの記憶が、預けられた先での惨めな生活の記憶が、戻った際、やつれ、ボロボロになりながらも、強く抱きしめてくれた愛しき人の暖かさの記憶が……!
やめろ! そんなもの思い出したくもない!
「田中君どうしたのぉ。大丈夫?」
「あ、はい。大丈夫です」
……しまったな。嫌な記憶を思い出してしまった。切り替えよう。
「倉木さん。お願いしたって、いったい何を頼んだんですか?」
「簡単な事よぉ。店長に、私が何をされても、何もしないでくださいって」
……
異常者なのかこいつは。
他者からの蔑みに自らの存在意義を見出す変態だろうか。そうだとしたら質の悪い人種だ。なるべく近づきたくはないのだが……
「私はねぇ。後一月で辞めるの。身体がいうこと聞かなくなってきたからねぇ。十年働いてきたけど、もう無理できなくてねぇ……」
「そうなんですか……」
まぁ、その痩躯を見れば分かるが……
「仕事もそんなにできるわけじゃないし、そのせいで、人に迷惑を掛けちゃってるから、せめて、嫌な気持ちをぶつけられる存在になりたいって思ったの。私は、他に何もできないからねぇ」
婆。お前、それは……
「そんな事……そんな考えは、駄目ですよ!」
上手く言い表せない感情が湧き上がる。なんといえばいいのか知らんが、ともかく不快だ。そんな自己犠牲にもならない、卑屈すぎる行いをなぜ平然とやっていられるのだ! 歪んでいるぞ婆! そのようなもの、承認欲求の異常な発散にしか思えぬ! 即効改めるべきだ! 嫌な事は嫌と述べ、承服できぬ事には堂々と反を称え、そして残り余生を恙無く送るべきなのだ! それが、それが人としての正しい生き方だろう!
「いいのよぉ。私は、役に立てる事が、幸せなんだからぁ」
「そんなわけないじゃないですか! そんわけ……」
言い切る事ができない。婆の目が、俺の言葉を詰まらせる。婆がなぜ笑っていられるか、まるで理解できない。現に怒鳴られていた時の貴様の顔は、顔は……!
「田中君。泣かないでぇ。ほら、飴あげるから」
泣いてなんか……いない、泣いてなんか……
「倉木さん。ここはいいので、仕事に戻ってください」
「分かりました店長。それじゃあ田中君。またね」
婆が出て行く音が、静まった部屋に響く。寂寞なる空間が舌の奥を重くさせ、息をするのさえ苦しい。
何も言えない。考えがまとまらない。ただ、婆の悲痛と笑顔が浮かび、内臓全てが締め付けられるような感覚を覚え、嘔吐しそうな程に気分が悪い。
俺は間違っていたのか。ただの傍観者として、目の前の理不尽を眺めていればよかったのか。俺はこの店にいきなり来て、出来上がっていた秩序や規律を無闇に突き、いらぬ混乱を与えただけではないのか。
自らの道が見えない。
自身を肯定できない。
俺はいったい何をしていたのか。何をしたらいいのか。何をしたらよかったのか。
分からない。分からない上に、もうすべてが遅すぎる。俺は結局何もできなかった。糞の役にも立ちはしなかった。惨めだ。哀れだ。生きているだけで死にたくなりそうだ。俺は間違っていた。間違っていたのだ!
「……お前は間違ってはいない」
「……」
「間違ってはいないが、人間、そればかりじゃどうにもならん。覚えておくといい」
「……」
月並みの台詞だな。だが……
「……はい」
ヤンキーの低い声が救いに思えた。俺は、もはや、その救いに縋る他なかった……
その後の二日間。俺は婆が虐げられる様を見ていた。
胸が、酷く痛んだ。
だが、それが普通なのだ。
婆を嬲る人間達の顔は一様に醜悪で、やもすると婆以上に惨めな存在に思えたのだが、それを黙って見ている俺は、さらに下層に位置しているような気がして、自憤に駆られ、それでも何もできず自嘲し、俺は馬鹿だと言い続け、職場体験は終わりを迎えて、それから月を一つ跨いだ。
「田中君。どうだい。今日、放課後にルノアールなんて」
佐川か。悪いが、貴様と無駄話をしている暇はない。
「悪いね佐川君。今日、俺は用事があるのだ。付き合うことはできない」
「そうなのかい?」
「そうだとも。代わりに原野を誘うといい。最近暇だと嘆いていたからね」
「は、は、原野さんと、ふ、二人だなんてそんな! む、む、む……り! 無理だよ田中君! 不可能だ!」
相変わらずの童貞力だな佐川。いい加減男にならねばならんぞ? 仕方がない。手を貸してやろう。どれ、スマートフォン、スマートフォン……アドレス、アドレス……よし。ポチッとな。
「もしもし。本日、佐川が貴様と茶をしばきたいそうだ。そちらに向かわせる故、教室にて待機しているように」
よし。
「田中君……今のは、もしかして……」
「喜べ佐川君。原野のやつ、嬉しいですわ! などとほざいておった。早う迎えに行ってやれ!」
「そ、そんなの、無理! 無理だよ!」
「ならば待ち惚けさせておくといい! それでは失礼するよ佐川君! アディオス!」
ではな眼鏡。今日こそ
「田中君!」
「……なんだい佐川君! まだ何かあるのかい!?」
「君、最近、思いつめていたようだけど、もう大丈夫なのかい!?」
……佐川め。佐川の分際で、俺に気を遣っていたというのか。生意気な奴め。だがまぁ、此度は許してやろう。時間もないからな。
「……大丈夫さ! 明日また会おう! 佐川君!」
「うん! 田中君!」
佐川と挨拶を交わし、走る。職場体験で訪れたあのスーパーへ……
辿り着く。黄昏が川を金色に染めている。水流の音が、清らかで、美しい。向かうは裏口。さて、金髪のヤンキーは……
しかし、相変わらず汚い店だな。二度と来ることもないと思ったが、まぁ、なんだ。けじめやら禊やらでもないのだが、一応、礼は通しておかねばいかんだろう。
「何だ。不法侵入か」
「ひぃ!」
相変わらず背後から! まったく、堂々と正面から出てこい!
「お、お久しぶりです……」
「何の用だ。廃棄品ならやらんぞ」
誰がいるか! 俺は乞食ではないぞ!
「いえ、あの、倉木さんは……辞める前に、挨拶とお礼をと……」
「そうか。見かけによらず殊勝なやつだな。倉木さんなら陳列をやっているから、勝手に話してこい」
「わ、分かりました!」
ふん。場所が分かれば貴様と話す事はない。ではなヤンキー! せいぜいお山の大将を気取っているがいい!
「田中!」
「は、はい!」
でかい声で呼ぶな! 寿命が縮まってしまったぞ!」
「倉木さんの事、一応感謝しておく。ありがとな」
「……はい!」
柄にもないことを……だが、悪い気はせんな。
などと呆けている場合ではないな。行こう。このまま、あの婆の元へ……
……
「倉木さん」
「あらぁ田中君じゃないのぉ。どうしたのぉ」
婆に道すがら買った菓子をやる。少話しをして、終わる。婆は相変わらずの笑顔だ。俺はその笑顔の中に、かつて世話になった人間の影を重ねる。
店に差し込む夕陽が、音もなく沈んでいく。街は光を失い、闇と静寂に包まれる。だが、それまでは、この黄昏は! 紛うことなく燃え、輝いている! 俺は婆の姿にこの黄昏を見た! 老婆の魂に、輝く落陽を見た! 陽はいずれ沈む。だが、太陽はその間に熱く眩しく、煌々と燃え続けるのだ!
俺は、その太陽の存在を忘れない。常闇に閉ざされ、一縷の光すら失われようとも、きっと、心の中で輝きを見続けるだろう……!
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