夏だ!山だ!この俺だ!

 山。

 物は試しで来てみたがなかなか良い。山道はなだらかで空気は澄んでいる。

 最初は四方八方から鳥の囀りが聞こえる深緑の檻だと思ったが、影と風により暑気は和らぎ、一と時の間、浮世の煩わしさ忘れ、ふらと歩く楽しみに身を委ねる。咎める者は誰もいない。げに気分良きかなハイキング。これは持参したおむすびと茶が美味そうである。




 ……


 


 うぅむ。おむすびか。


 時刻は巳の刻過ぎ。昼には早いが腹具合は辛抱堪らん。御誂おあつらえ向きに程幅な石がある。どれ、あそこに腰掛け、一服仕ろうか……よし、と。岩肌冷たく実に爽快。夏の苦熱を忘れそうだ。うむ。やはり茶が美味い。何の変哲もない市販の安茶葉だが、場所によってすこぶる味が変わるものだ。涼たる木陰道とはいえ季節は夏。汗も多く、喉も渇いていたものだから、冷やした茶がするりと染み入る。これぞまさに至極の贅沢。絶品である。どこぞの店で出しているプライベートブランドの茶葉から出した茶がこうまで美味いのだから、本日持参した本場秋田のひとめぼれを使ったおむすびは想像を絶する美味となるだろう。楽しみではないか。

 日本人の舌にはやはり米だ。麦や芋などの異国被れた炭水化物など邪道も邪道。清く正しい日本人の携帯食はやはりおむすびなのである。そういえば、昨今では国際結婚などが流行りらしい。北方に位置するオロシャの色白女達が自国のイワン供を見限り、大和男児に嫁入りを希望しているという噂が実しやかに囁かれているのだが、食生活の違う人間同士が幸せな家庭を築けるわけがないではないか。日本の男が黒パンと馬鈴薯の汁で活力漲るだろうか。エカチェリーナが銀シャリと味噌汁と漬物で愛人との夜の営みができるだろうか。できるものか……できるわけがないだろう! 

 俺はここに断言しよう。この先どれ程の時が経とうと、どのようなパラダイムシフトが起ころうと、日本の男には日本の女。男児には撫子がやはり合致するのだと! 許さんぞエウロペ! 二度とアイダホから出てくるでないぞ!?


 ……


 撫子か……そういえば、この頃まっこと雅な和の女を見なくなったな。巷に溢れるは言葉遣い汚く所作は野蛮な下衆ばかり。欧州の女供でももう少しばかり気品と遠慮くらいありそうなものだが、これも時代なのだろうか。嘆かわしいといえば嘆かわしいし、仕方ないといえば仕方がない。

 しかしだ。もしこの俺が焦がれるような恋をするのであれば、それはきっと絶滅寸前の大和撫子であるに決まっている。そもおれ自体が今は珍しき筋の通った快男児ではないか。であれば、女の方も奥ゆかしくもはんなりとした由緒正しき厨の長がふさわしいというもの。

 うむ。興が乗ってきた。ここは一つ、俺に相応しき優婉閑雅なる女の姿に想いを寄せてみる事にしよう。山道での空想も趣深かろうしな。さて、どのような話を生み出してやろうか……よしよし。捗ってきたぞ……











 山はさんと降り注ぐ陽光を浴び、新緑が、春に発芽した儚き命をつんと空に伸ばそうとしている。多忙な日常を忘れる為にと知人に勧められた遊山であったが、思ったよりも羽が伸ばせるではないかと、俺の口元は緩んでいた。そんな時である。


「もし」


 突如呼び止める女の声。その声は涼やかで聴き心地の良い音であったが、一声に含まれる格式の高さが、無意識に俺の襟元を正しくさせる。


「何ぞ用か」


 しかしここで畏まってはあまりに格好が悪い。ぶっきらぼうな返事の方が胆力を示す事ができ、返って評価は上がるだろう。男にとって媚び諂いは御法度。何者に対しても威風堂々とした態度を崩さず、常に前のめりな生き様を示していなければならないのである。


「申し訳ございません。この辺りに、茶屋はございますでしょうか」


 そんな事知るか間抜けめ。と、俺は思うだろうが、よくよく見ると女の顔色はすこぶる悪いのである。平素より白そうな肌色が青ざめ、まるで死霊が如く生気がないのだ。これは放っておくわけにはいくまい。


「茶屋の場所は知らんが、どうした。血色が悪いぞ」


 気遣いは忘れない。優しさは度量の尺度である。


「はい。少し、貧血気味で……」


「なるほど。すまんな。俺はこの辺りに聡くない故、茶屋の場所は知らぬが、どれ、麓までおぶってやろう。こんな所で止まっていては、なるものもならんからな」


「いえ。それには及びません。スマフォで迎えを呼びますので」



 BAD COMMUNICATION



 



 ……それはそうだろう。今日日スマートフォンの一台や二台、誰でも持っている。迂闊であった。これは設定を練り直さねばならん。しかしどうしたものか。webで何か役に立ちそうな情報を……


 ……


 ふむ。


 なるほどなるほど。

 どうやら設定の変更は必要ないらしい。よろしい。続行だ!






「生憎だがご令嬢。この山は圏外のようだ。電話は通じん」


 いるのかどうかは知らんが神は悪戯が好きらしい。まさかこの状況でスマートフォンが使えぬとはな。つくづく運命というやつは俺を笑わせてくれる。


「おやまぁ。本当にございますね。私、どうしましょうか……」


「おぶってやると言っておろう。遠慮するな。男の背中は柔じゃない」


 俺は背を向けて屈む。少々情けない姿であるが、その情けなさがまた女の心をほぐし、ときめかせるのだ。


「けれど、どこまで歩くか……」


「登ってきた道を降るだけよ。正味半刻。長い旅路ではない」


「しかし、貴方様は、せっかく遊山にみえたというのに……」


「気にするな。元より気紛れで来たのだ。であれば、気紛れで踵を返したところで何を惜しもう」



 我ながら冴えた受け答えである。メロドラマの主役に抜擢されても不思議ではないスマートさ。やや気障な風ではあるが、過ぎた硬派はただの堅物。ユーモアのない人間は高みには立てん。故に俺はもう一つ女に対し冗談を飛ばす。そのタイミングは、女が根負けしておぶさり、少し経った時である。





「……参りましたね。私、どうしたらいいのでしょうか」


「黙って身体を預けよ。悪いようにはせん」


「……」


 女は俺に背を預けた。しばし歩き、頃合い。よし。ここだな。


「そう言えば貴様、貧血気味とか言っていたな。さては、月の物か?」


「はぁ?」


「え、あ、いや……」


「下ろしてください。私。貴方の事が嫌いになりました。さぁ早く。今すぐ。そら! さっさと下ろせ! この変態!」




 BAD COMMUNICATION



 ……




 やはり安い冗談は止めておこう。

 おぶさるところから再スタートだ!


 沈黙の後、俺の背後には心地よい重みと未知なる弾力が……


 まてよ?


 女の乳とはどれほど柔軟であろうか。

 俺は齢十八にして未だ女を知らぬ。それ故乳房の包容力を想像するのは難しく、背に当てられた二つの弾丸に対し、いったいどのような感情を抱くのか、どのような処置をとればいいのか、てんで分からぬ。

 これは困った。思考を一時中断するのも止むを得まい。うぅむそうだな。まずは差し当たって、女の子バストサイズを定めようではないか。朧げながらも姿形を創り上げれば、自ずとその全貌も見えてくるというもの。よし。何か手頃な大きさなものは……おぉ! おむすびなどよいのではないか!? しかも二つだ! 奇しくもおむすびが二つあり、女の女たる所以と数を同じくしているではないか! それに具材は梅である。完璧という二文字以外に、いったい何が当てはまるというのか! 何も当てはまるわけがないであろう! よしよし俄然想像が容易くなってきたぞ。こうしてみると、中々唆るおむすびではないか。控えめな寸法が実に良い。反物を見れば分かるが、古来より日本においては豊満よりも貧相な胸囲が好まれていたのだ。それ故、おむすびサイズのバストに欲情を催すは至って正常。つまりは、おむすびに劣情を抱いても全く問題がないということである! ……胸が高鳴ってきた! 俺は果たしてこのおむすびに手を触れてもよいのだろうか。未知なる経験。大人の階段である。一歩を踏み出す、勇気が欲しい……


 えぇいままよ! 何をまごついておるのだらしくない! 猪木の言葉を思い出せ! 迷わば行けよ! 行けば分かるさ! OK! 覚悟完了! いざ揉みしだかん! 女の豊穣!



 ……えい!




 気合い十分! 膝に乗せた二つのおむすびに飛びかかりまする! 露出した白米は柔肌! 巻かれた海苔は妖艶なるケベック! もはやおむすびが女の胸にしか見えん! 番となった禁断の果実にむしゃぶりつきたいという抑えきれない衝動! し、辛抱堪らん……!





 ……ご存知の通りおむすびは胸ではない。おむすびはおむすびなのである。俺はそれを失念。つい身体ごと膝に向かい、結果、おむすびはころりん。そして……




「お、お池にはまってさぁ大変……」





 無残。山道の端にある池に吸い込まれていくおにぎり。その様子は、まるで俺の手から逃れるように……


 進む事も戻る事もできず、自我忘失。夏休みにわざわざ山に登った結果がこれかと、深く後悔。


 休暇の日数は残りわずか。貴重なる少年の日の思い出が、おむすびころりんだと思うとやるせやく、苦しい。


 二つのおむすびが沈んだ池に雫。生まれた波紋は水面に浮かぶ落ち葉を揺らし、しがみ付いていた羽虫を何処かへ飛ばす。閑寂である。


 帰ろう。


 募る、帰宅の念。夏の思い出は、儚く、ただ儚く……

 

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