俺が返り討ちにしてくれる!6
とは言っても、せいぜい上履きを隠されるとか、筆箱の中に蛙が入れられるとかその程度のもので、今となっては瑣末な出来事だったのですけれど、それでも当時の私にしたら大変な理不尽であり、嘆かずにはいられませんでした。
周りの人達は、口では「可哀想にね気の毒にね」だなんて仰いますが、皆様、影では「いい気味だわ」と、せせら笑っていたのです。まぁそれは、京の美しさがやっかみの対象であると理解していたので良いのですけれど。
ともかくとして、京はいたく心を痛めていたのです。それはもう、傷心も傷心で、どうしたって気分が晴れず、涙が乾く日はありませんでした。もっとも、どうせ犯人は京に嫉妬した女の人に違いないと思っていたので、これも宿命と文字通り泣き寝入りしていました。貧しき者は、いつの時代も自身を嘆き、富めるものからの簒奪を是とするものですから、仕方なきことと諦めていたのです。
そんなある日、京が涙を溜めて返っている途中に、一人の男性と出会いました。クラスメイトの……そうですね、名はA様としましょう。A様は、悲嘆にくれる京の前に突然現れ、恥ずかしげもなくこう言ったのでした。「最近雨が多くてかなわんな。なに? このところ日照りが続いているだって? 馬鹿だな。君の涙が、俺の心に雨を降らすんだ」と。
正直、哀れな人だと思いました。ですが、その哀れさが滑稽で滑稽で、つい堪えきれず、笑ってしまったのです。するとA様は何を勘違いしたのか、「おや、ようやく光が射したな。そう、僕にとっての太陽は、君だ」だなんて、自己陶酔極まりない台詞を吐いて寄越したのですから、お腹が捩れるかと思いました。あぁなんて哀れな人なんだろうと、つい口に出してしまいそうになったのですが、すんでのところで喉の奥に引っ込み、慌てて「愉快な方」と、賛美しました。京は思ったのです。あぁ、自分には、こうした道化が必要なんだ。甚だしい勘違いに気付かずひたすらに自らを美化している、身の丈が分からない可哀想な殿方が隣にいないと駄目なのだと。
それ故私はA様と交際するのに、まったく抵抗はありませんでした。それまで同じクラスにいた事さえ知らなかったのですが、面白いのだから構わないだろうと、以前から知っていたふりをしました。そして、やはりA様は期待通りの、いえ、それ以上の無様を晒し、京の悲痛を癒してくれたのです。彼には大変な才覚がありました。何をするにしても、一々様にならなくって、似合わなくって……お付き合いを始めた当初、教室で揚々と「手篭めにしてやったわ!」と息巻いている姿をといったらなかったです。それはもう、チャップリンやバスターキートンにも匹敵する喜劇で、可笑しくって可笑しくって!
そして極め付けはですよ田中様! 実は京、知ってしまったんです。京の上履きを隠したり、筆箱に蛙をいれた犯人を。誰だと思いますか? もうお分りですよね? そうです。京を虐めていたのは、紛れもなくA様だったんです!
彼ったら迂闊なんですよ?
「女をものにするなんてのは、随分容易な話だよ。消沈しているところに歩み寄り、掬い上げるような甘言を吐けばいいんだから。そして、そんな状況はね、こっちで作ってやればいいんだ。マッチポンプというやつだよ。現に、俺はそいつであの原野 京を手に入れたんだ」
だなんて、吹聴していたんですから!
真実を知った時、京は喜びを感じました。あの道化が左様な脚本を書いて京を笑わせてくれたのです。できの悪い犬が、一生懸命覚えた芸を披露してくれたようで、大変愛おしい気持ちになりました!
この話は、私を励ましながら、実際は影で嘲笑っていた女性達の一人から聞きました。その時も彼女は、「可哀想可哀想」と、上部では同情しながら、腹のなかでは「哀れな女」と小馬鹿にしていたのですが、そんな事はどうでもよくって、京は「そうですか」とだけ言って、笑ってやったんです。でも彼女ったら、あまり頭がよろしくないものだから、自分が蔑まれているだなんてちっとも思わず、また「可哀想可哀想」と、薄ら寒い言葉をずっと投げかけるばかりでした。それも少しだけ、面白く思えました。
ただ、この話は面白いだけでは終わりませんでした。
事が露見して、それだけで済めばよかったのですが、何を思ったかその女の人、「貴方の悪行は全て報告させていただきました」と、ご丁寧にも皆がいる教室でA様を糾弾したのです。これはさすがに恥ずかしく思いましたし、彼女を恨みました。クラス中の人達に同情の目で見られるなんて辱め、それまで味わった事がなかったのですから。
そして始まるのは正義という大義名分を盾にした人権侵害です。クラスメイトというだけで、私にまったく関係のない人間が、耳が腐れ爛れるような言葉をA様に吐き捨てるのでした。狼狽えるA様を見るのも、それはそれで愉快ではあったのですが、そこはやはり、女としての矜持に反するものでしたので、「もうお止めください」とお頼み申し、公衆の面前で接吻を披露し無理やり落着させました。ドブを
ですが……最近はどうも、そういった露悪な趣味が、薄れてきている気がするのです。いえ、確実に興が乗らなくなってきています。
現に、愚かな殿方を見ても、心が軽やかになるような事がなくなったのですから。それがいつぐらいからといいますと、田中様が、川島様から私を庇ってくれた日からでして、それから、殿方の見方が変わったというか、紳士な方も、少なからずいらっしゃるんだなと感じるようになったんです。そして、その中でも一番誠実だなと思うのが……佐川様です。ですがどうにも、信じきれぬのです。
佐川様が京を好いてくださっているのは存じております。また、京を随分と大切にしてくださっている事も……ですが、その度に、この方もどうせ他の男と一緒。一皮むけば、哀れな道化だと考えずにはいられないのです。それどころか、ややもすると、心のどこかで、そうであって欲しいと願ってしまっているのかもしれません。いっそそこまで落ちてしまっていたと自覚できたのであれば、返って悩みは晴れ、気楽に佐川様とお付き合いできたのでしょうが、京には、未だにつまらぬ良心が残っているようで、佐川様のことを考えると、酷く、苦しいのです。
ねぇ田中様。私、ひょっとしたら、もしかして、佐川様に恋心を抱いているのかもしれないのです。だけれども、この気持ちが果たして、本当に純粋な恋慕の情なのか。はたまた、男性の新たなる恥部を見つけたが故に、これまでのように愉悦を感じなくなってしまったのか……京には、分からないのです。田中様。京は……京はどうすればいいのでしょうか。どうすれば、自分の気持ちを、不純物のない素直な想いを知る事ができるのでしょうか……
……
思いの外、重く、また、意外。よもや此奴が佐川に想いを寄せているとは考えもつかなかった。良かったな佐川! 晴れて両想いだぞ! 是非に式には読んでくれたまえ!
しかし、くだらぬ事をぐちぐちと考えるものだ。愛だの恋だのが分からぬなどと口にしおって、安いメロドラマの観過ぎではないのか? 心動いたのであれば、それはもはや、そういった感情に他ならないではないか。それが分からぬとは、何ともはやである。
まぁそれを直に言っても実にならぬのが人の気持ちの難しさよな。悲しい事に斯様な心情の揺らぎは自らが気付かねばずっと理解できぬままなのである。故に……
「ぼちぼちと考えてゆけばいいさ。ただ、この話は、容易な気持ちで佐川君にするなよ? もう少し整理がついて、時が経ったら耳に入れてやるがいい」
俺は助言をしてやる事くらいしかできぬ。
「はい……」
原野の頷きとほぼ同時に、遠方から「おーい」と呼ぶ佐川の声。仕方ない。手を振ってやろう。
起立。前進。よし。膝の笑いは止まっている。踏み出す一歩が気持ちよい。なんとなしにいい事が起こる予感がするな。
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