俺と母と!3
歩く事十分弱で到着したナラハラは相変わらずこじんまりと商店街に建ってる。これで集客できるのかという隠れ具合は仕事したくないという意識すら感じさせるな。怠惰な事だ。
まったく昔から変わらんな。最近リフォームして小綺麗にはなったが、
ま、飯を食いに来た我らには関係のない事だがな!
威風堂々と先陣を切りドアを開け着席。一名しかいない店員(ナラハラのおやじ)はちらとこちらを一瞥しただけで水もおしぼりも出さない。
……本当に相変わらずだ。
卓に立てられたメニューの中から注文を決め、声を張って頼んで初めて接客が開始されるこの店は過剰サービスが繰り広げられている競争化社会においてある意味貴重だ。味は可もなく不可もなくなくせに、やたらと強気なその姿勢は一周回って近隣住人から愛されているようで、商店街連中はよくナラハラを利用している(値段が控え目なのが一番の要因だが)。そんなだからおやじが増長するというのに。まったく度し難いよ田舎者は。
「久しぶりですね。このお店も……リフォームで形は変わってしまったけれど、この卓なんか、昔のままじゃありませんか。そういえば覚えていますか? 貴方が唐揚げが食べたい。って、無理を言って、唐揚げ定食を作ってもらった事。貴方ったら、それ以来、ここに来るたびに唐揚げ定食を頼むんだから……貴方、あの時は可愛かったんですよ? お母さん。からあげーからあげー。なんて目を輝かせていたんですから。ああぁでも、今日は唐揚げ定食はなしですからね。貴方ももう子供ではないのですから、弁えないと」
いつの話だ母よ。この歳になって唐揚げ如きに執着するものか。
だいたいだ。あの唐揚げ定食、実は倅の弁当に入れる用の冷凍品だったそうだぞ。左様な詐欺紛いの商品を誰が注文するものか。市販の冷凍品で五百円は高すぎだ。
「唐揚げといえば、貴方、私が作った唐揚げが不味と散々文句を言ってましたけれど、最近、スーパーでいいものを見つけたんですよ。唐揚げ粉っていうんだけど、これがまた便利でね。塗して揚げるだけで、随分と美味しくなるんです。私ったらもう目から鱗で、世の中って、便利になったものですね」
なんという世間擦れか。唐揚げ粉など何世代前から出ていると思っているのだ。そもそも貴女の作る料理の不味さは油の温度が上がる前に肉を入れる事に原因があると申したはずではないか。鶏肉の油煮など美味いはずがなかろう。それにだな……
「田中さん。喋るのもいいがよ。何か注文してくれよ。溜まり場に使われちゃ、こちとら商売上がったりだからなぁ」
いつの間にやらナラハラのおやじめ。こういう所にはガメつくのだな。まぁ水だけで居座られたら堪ったものではないだろうが。それにしたって親子の会話だ。もう少し空気を読め空気を。
「あら。そうですねごめんなさい。でしたら、注文、お願いします。オムライスと、えっと……」
「ナポリタン。鉄板に乗せて、下に卵を敷いてくれ。それとピーマン多めだ」
「はいよ。ナポリタンは五十円追加でいただくよ」
ケチめ! だがよかろう。特別に許してやる。原材料の高騰が叫ばれる昨今だ。元より安値で商売をやっているのだから、オプションによって発生する追加料金も致し方あるまい。
おや? なんだ母よ。左様に顔を近づけて。耳打ちか? そんなものする必要もなかろう。現在この店に客は我が家だけではないか。だのに、いったいなぜ……
「あの人、綺麗な女の人には無料サービスしてくれるんですけどね」
なるほど。すけべおやじめ。地獄に堕ちろ。
……
「はい。オムライスに、特製ナポリタンね。田中さん家は久しぶりだから、特別にデザートも付けるよ。また、ご贔屓にしてね」
「そんな悪いです……あぁでも頂戴したものを無碍にするのもまた失礼ですねではありがたくいただきますまたお世話になりますね」
一息で遠慮を交えた謝辞を述べるか。ナラハラのおやじが顔をひきつらせる暇もなく頷いて帰っていったぞ。
「さぁ、オムライスですよ貴方。食べましょう食べましょう」
御構い無しか。図太い事だ。斯様な面の厚さで本当に精神が病んでいたのか疑わしいのだが、家庭内暴力というのは俺が思うより心的外傷を負うのかもしれん。触らずに置いておこう。
しかし、それにしてもなぜこの店なのだろうか。確かに安いし近いし味もそれ程悪くはないのだが、もっと良い店はいくらである。わざわざ寂れた商店街の場末に構えた軽食屋に足を運ぶとはどういう了見があってのことなのだろうか。思い出深いといっても、ここと同じくらい、他の店にも顔を出していたはずだが……
「本当に、美味しいですね。昔と変わらず……」
不意に見せた母の瞳に、葉が染まり、枯れ果てていくような変化を見た。
それは命の灯火だろうか。まるで人生の終焉のようで、何よりも深く悲しく、虚無的な、抜け殻のような瞳である。それまでいた母だと一と時忘れ、ゾクとして寒い。
「……」
「あら。ごめんなさいね。あんまりに美味しいものだから、つい無口になってしまって……」
得体の知れない母の瞳の奥に宿る魔物が喰らう気も殺す気もなくただじっと俺を見据えて離さない。その意図が分からない。
なぜ俺を見るのか。なぜ見るだけで何もせぬのか。理解できぬ事が恐怖だ。母の心は此処ではない、幾千里と離れた所へ浮遊し、オムライスの味などまるで感じず、機械的に「美味しい」と言っているだけのように思える。
「貴方、覚えていますか?」
「……え?」
沈黙を破る突然の声に返答をしくじってしまった。
「別れる時、最後に貴方と話しをたのが、このお店でした。しばらく会えなくなるだろうから一緒にご飯でも食べて来なさいって、お婆様が勧めてくれた事を、貴方は、覚えていますか?」
……覚えているとも。
あの日、貴女はずっと下を向いて、絞り出すような声で謝罪を続けていたな。忘れるわけがないだろう。忘れられるわけがないだろう。あの夏の暑さを、別離する悲しみを、どうして忘れる事ができるだろうか。
母を失う悲しみは、涙すら凍り付くほどに寒かった。心臓を撃ち抜かれたような絶望は今でもあの時以来味わった事がない。だが、それがどうした。今更左様な事を話してどうしたというのだ。今はもう、俺達は二人で暮らせているではないか。
「……」
「……」
……
嫌な沈黙だ。空気が重い。
ナラハラのおやじが聞いている演歌さえ不吉な予兆であるかのように、途方も無い悲劇の幕が上がろうとしている気がする。
じっと見つめる母。
紡ぐ言葉を必死で見つけるように、ただ俺の顔だけを見て、口をまごつかしている。
貴女はいつもそうだ。言わなくていい事はベラベラと喋るくせに、言わなければならない事はすっかり口を閉ざしてしまう。それでは分からないではないか。なぜ、どうして話してくれないのだ。
「今日はじめじめしてなくって、いい天気ですね。夏の名残が、少しずつ薄れていくのが分かります。時の流れは、早いものです」
違うだろう。本当に伝えたい事は、言わなければならない事は、そんな話ではないだろう。
「……話してくれないか」
「……え?」
「伝えたい事を、話してくれないか。貴女が本当に言わなければならない事を、教えて欲しい」
「……」
……
母が話し出すまで、ずっと待つ。
オムライスもナポリタンも、まだ半分も進んでいないが、俺も母も手をつけず、口は閉じたまま……
「……」
「……」
流れていた演歌が止まる。場は静寂。不思議と、蝉の声すら聞こえなかった。まるで時が止まったかのように、俺と母の世界は隔離されている。この一瞬の永遠がとても愛おしく、また、憎らしい。この二度と手に入らない時間が、なんとも尊い。
「実は……」
ようやく動いた、母の唇。林檎を齧ったイブの嘆きと悔恨のようだ。
「私ね。再婚しようと思っているの……」
言葉は重く、信じ難かった。
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