俺が紅葉を狩り尽くしてくれる!

 染まりきらぬ葉を眺めると冬の到来は遥か先のように思える。

 このところようやく夏の置き土産が底を見せ始めてはいるが、未だ暑気は生暖かい風を運び、額にじわりと油混じりの汗を浮かばせ、散歩に出るのもそれなりの疲労を伴う。少し歩けばすぐにシャツがじめとし、喉が渇きを訴えてくるのだ。のんびりと紅黄に変化していく木々を楽しむつもりだったが、水を差された気分である。


 駄目だ。熱い。少し休もう。





 安い樹脂製のベンチ……色落ちして不潔そうだが、致し方なし。ここに座ろう。まったく、高い税金を払っているのだから、ベンチの管理くらいしっかりしてほいものだな。だが、見てくれは悪いが座り心地はまぁまぁだ。許してやる。それにしても、見事な秋晴れよな。水晶のように透明な空色が染み入る。



 ……秋か。



 最近、どうにも勉学に手がつかぬのは、儚むような秋風に当てられ、しなくともよい憂慮に苛まれているからかもしれん。鬱陶しくもあったが、何は無くとも夏の灼熱が薄れていくのは、少し物悲しいものだ。




 秋は夕暮れ。心荒むる落葉の足音。




 中々の詩だ。メモ帳に書き留めておこう。



 あぁしまった。そういえば公式記憶用のミニノートしか持って来なかったのであった。いかんな。何をやるにしても間が抜けて、どうにもならん。



 あぁ、秋だ。考えがことごと厭世えんせ的となり意思が虚無に沈む季節だ。だが、それも嫌いではない。ナルシシズムに酔いしれ、センチメンタルな吐息を吐くのもまた一興。そうだな……たまには、夕陽の色をした葉が、斜陽と共に落ちゆくような、そんな物語を紡いでみようか……












 滝が音を立て落ちていく。

 柵に囲われた広場からその様子を伺う事ができるが、聞こえるのは鳥と虫の声と、風に吹かれる木々の騒めき。そして、幕が垂れるかの如く途切れのない飛瀑ひばくの唸りだけであった。


 柵の外側に、秋風に吹かれている男が一人……(つまりは俺の事だが)どこか悲しげな表情を浮かべながら、轟と落ちゆく滝をただ見ている。羽織っている長丈のコートは忙しなくはためいているが、男自身は不動のまま、まるで景色の一部のように、しずと立っているのであった。







 うむ。導入はこんなものだろう。

 さして寒いわけではない。しかし、ここはコートの襟を立てている事にしよう。その方がダンディズムが上がる気がする。それと、ハット。ハットだ。シルクハットは少々キメすぎな気がするので、中折れ帽を被ろう。


 ……完璧だな。想像するだけでモテる様が想像できる。煙草は吸えぬ故ボギースタイルとはいえぬが、中々どうして固茹ハードボイルドな身形ではないか。これで格好がつかぬのであれば、それは着飾る素材に問題があると言わざるを得まい(しかしこのファッションを嗜むと町中の不良中年からマークされる諸刃の剣。野暮な男にはお勧めできない。ま、服すら着こなせぬドサンピンはセーターでも着てなさいってこった)。




 ロケーションと姿形は完璧。では、挟んだしおりを辿るとしよう。








 佇む男は、呟いた。「情けないな」と。



 彼にはかつて、愛した女がいた。その女の名は雅という。

 雅は男を愛していたが別れた。別れる理由があったのだ。



「ずっと黙ってたんだ。分かるわけ、ないだろう」



 男は再び呟き、そして……



「涙か……まったく、らしくもない」


 空を見上げ、雫を抑える。しかし、どうしても手からこぼれ落ち、その雫は滝の飛沫に濡れる大地に混ざって、新たな水跡を残した。



「雅……お前は、ずるい奴だよ……」



 天を仰ぎ男は嘆いた。自分以外、誰もいない場所で、誰の耳にも入らぬように。




 雅は若くして癌を患っていた。発見された時には、もはや、死の道を辿るしかないところまできていた。治療をすれば、あるいは多少の延命は可能だったかも知れない。だが、彼女は死ぬ事を選んだ。醜い生き様を晒すより、女として、美しく死にたいと、そう、遺書に綴っている。

 潔くはあるが、その選択を肯定できる程、男は物分かりが良くなかった。悲しみよりも先に怒りが訪れ、そして、隠しきれぬ愛を隠したつもりのまま、女の元を去った。




「さようなら」



 背中越しにかける雅の言葉が男に刺さった。笑顔を見せた彼女の気持ちは、想いは、男には十分に伝わっているはずであったが……いや、伝わっていたからこそ、男は沈黙を貫いたまま去っていったのかも知れない。





 男は滝を見る。滝を見ながら、命の儚さを、死を想った。その破滅を重ねるのは、雅の姿が、それとも……




「らしくない。まったくな」




 滝に背を向け、男は歩いた。瞬間、旋風が吹き起こると、ひとひらの落葉が男の胸に運ばれてきた。それは、血潮を模したような真紅であった。



「飛花落葉……か……」



 男は姿を消した。残された落葉はまた、風に吹かれ落ち、滝壺の先の、なだらかなる清流にその身を預けた。ゆるりと流れていく一枚の紅葉……それは、彼岸を下る、一つの命のような輝きを見せているのであった……












 書き起こしたら文学史に残るのではないかこれは。傑作だ! 感動必死の名作が今この場で生まれた! おぉ……なんと……なんと儚き物語であろうか! おとこも女も! 互いに譲れぬ想いがあったのだ! 曲げられぬ信念があったのだ! 二人は永別したからこそ! 固く結ばれた愛を胸に宿し! 一方は死を! 一方は生を選んだのである! なんと儚く、美しい物語ではないか! あぁ! 涙が……涙が止まらぬ! 自ら生み出した純愛に、俺は今、猛烈に感動している!






 ……






 ……しかし。だ。


 斯様な終わり方をしてしまうのは、さすがに救いがないのではなかろうか。


 そうとも。そうだとも! いくらなんでも、これでは俺に救いがなさすぎるではないか! これはいかん。悲劇を良しとするなど鬱屈とした陰気な嗜好だ。英傑然としたこの俺には似つかわしくない。


 続きだ……続きを考えよう! うむ! それがいい!

 ではそうだな……実は、雅には双子の妹がいたという設定はどうだ? 姉と同じく俺を好いてはいたが、姉を想い身を引いた。というのはどうだろうか?


 ……いけるな。

 

 まったく、一重の隙もない完璧な筋書き! この統合性! 破綻のなさ! もはや芸術といっても過言ではないだろう! よし! そうしよう! そのように話を作ろ……いや待て。果たして俺は、かつて愛していた女と、まったく同じ形をした女を心から愛する事ができるのだろうか。下手に姿形が同じ故、嫌でも重ねてしまうのではないか? 死んだ女の姿を!


 そもそも、いくらなんでも死んだ女の家族を娶るのは禁忌に触れる。これはいかん。感情的な問題もあるが倫理的にまずい。修正せねば……


 


 ……




 義理の妹。であれば、一線間際ギリギリ許容可能セーフなのではないか?


 そうとも。おれは、雅の死によって自らの命さえ断とうかと苦悩していたのだ。その辺りをクリアせねば番などになれるはずがない。が、並みの女に、パッと出の人間にその役が務まるだろうか。否。務まらない。務まるはずがない。なぜなら、おれと雅は本当に愛し合っていたのだから!

 なれば、やはり死んだ雅との繋がりは必然。そうなると義姉妹というのは、これは合致ジャストした相手なのではないだろうか。合致ジャストした相手だ。そう。そうに違いないのだ! ならばそのように話を進めよう! 第二幕の開演だ!






 ……






 長丈のコートを翻した男の前には、一人の女が立っていた。


「……どうした。巴ちゃん」


 男は女を巴と呼んだ。巴は、雅と義理の姉妹であった。


「お背中が、寂しそうなものでしたから……」






 慎ましい台詞だ。一見会話になっていなさそうだが、よく知る二人だからこそ分かるお互いの感情の機微を察しての事である。そう、少なくとも巴は、男の顔をよく観、男の声をよく聴き、そして、男の想いを、よく読んでいたのだ。うむ。最高だな。








 巴はずっと前に、自らの激情を男に伝えた。それは果実のように甘く、また、荊のように鋭いものであった。美しく、強く、純然たる女の情……人はそれを愛と呼ぶのだろう。だが、彼女の想いに、男は応える事ができなかった。







「私じゃ駄目なんですか!?」



 そう慟哭する巴を前に、男は「すまない」としか返す事かできなかった。



「謝らないでください! 謝らないで……」


 懇願するような、儚い声……続く沈黙……そして、別れ……


 程なくして、男は雅と連れ添うこととなる。男に罪悪感がなかったわけではない。だが、その感情が巴にとって侮辱にしかならぬ事を、男が知らぬわけはなかった。口を噤むのが巴への贖罪であり、自罰であった。





 それから数年が過ぎた。男と巴は、かつて別れた時と同じように、じっと互いを見据えている。男も巴も、時間の経過に色あせ、もはや瑞々しい若さはもとより、溌溂はつらつとした気概も失われていた。だが……




「帰りなよ。今日は冷える」


「……なら、暖めてください」


「……そういう台詞は、品位を下げるぜ?」


「……どうして…………」


「……」


「どうして! 貴方は、寂しいはずなのに! そんなに……」



 巴は俯き、一雫の、悲しい光を落とした。


「……巴ちゃん。俺は……」




 男が口を開いた刹那。巴は男の胸の中に入り、そのまま唇に蓋をした。

 長く待った。言葉さえ交わさなかった。二人はずっと、別々の道を歩んでいた。だが、彼女の持つ、男への想いだけは朽ちる事なく、どれだけの歳月を経ても、未だその形を、煌々と盛る恋慕の炎を燃やし続けていたのだ!




「そんなに……自分を責めないでください……」


 唇をそっと離し、巴はそう呟いた。そして、続けてこう言ったのだった。









「今時襟立てとか美意識センスないよね。笑っちゃう」



 ……


「ほんと、失われた昭和の遺物みたい。見たら片腹が悲鳴を上げそう」







 ……女子高生らしき二人のばかのおかげで物語の頁が破れてしまった。



 人が傑作を作っている時になんだおのれら!? 

 おのれ餓鬼め! 何が失われた昭和の遺物か! 古きより新しきを知るという言葉を知らんのか! まったく不機嫌! 立腹である! もういい! 帰る! そもそも暑い! 斯様なところで呆けてなどいられるか!

 






 立ち上がった俺は、唾を吐き捨て帰路に着いた。その際に、妄想途中で無意識に上げていたシャツの襟を下してしまったのが、また妙に苛々を募らせたのだが、湧いた怒りをぶつける場所はどこにもなく、ただ、「やっていられるか!」と叫ぶことしかできなかった。

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