4-6. ある捜査官の手記(下)


***




 気づけば路地裏の少年との一日一回の置き手紙のやりとりは半年以上続いていた。〈ゾウの会〉のことを聞きだそうにも少年は詳しく返してくれることはなく、天気とか食べ物とかの他愛もない世間話が続いたが、私は一日たりとも彼と初めて出会った場所を訪れるのをやめなかった。


 もう、別に〈ゾウの会〉の正体を暴くきっかけにならずとも構わなかった。それよりも私は、彼に対して突きつけた一方的な約束を守ることだけに固執していた。そして置き手紙の返事が返ってくることに、彼がこの町のどこかでちゃんと生きていることを実感して安堵する。それくらいしか、P-SIMを持たない彼の存在を証明するものがなかったからだ。


 日常の一部になりかけていた彼とのやりとりが変局を迎えたのは、確か2025年の夏だったか。


 夜、いつも通りあの路地を訪れた私は思わず目を疑った。その日は置き手紙ではなく、少年本人がその場所にいて待っていたからだ。


 心なしか以前会った時よりも服装がちゃんとしていて、綺麗な顔立ちも汚れていない。鼻をつく甘ったる匂いもなく、年相応の少年らしい、夏の暑さに汗ばんだだけの健全な匂いがほんの少し鼻をかすめるくらいだった。


「ずいぶん久しぶりじゃないか! ようやく会って話してくれる気になったのかい」


 私がそう言うと、少年ははにかむように笑って、首を横に振った。


「今日は、先生や母さんがいないので特別です。りんごのおじさんに、僕のとっておきを見せてあげようと思って」


「とっておき?」


 少年は頷くと、路地を出てすたすたと歩き始めた。「先生」や「母さん」がいないとはどういうことなのか……気になることはあったが、私はひとまず彼についていくことにした。


 少年は慣れた足取りで渋谷のビル街をくぐり抜け、やがて小さな事務所や個人経営の飲食店が入った雑居ビルにたどり着くと、彼は何のためらいもなく中に入っていった。最上階まで上がり、そこから非常階段で屋上へ。街の明かりで星の見えない夜空が目に入る。


「ここで一体何を──」


 尋ねかけた途中、遠くで花火が打ち上がる音が響いた。音がした方を見やると、ちょうど眼前に背の高いビルがなく、遠くの空で小さく咲く光の花を余すことなく捉えることができた。


「すごいなこれは……! 渋谷にこんな場所があるなんて!」


「うん。この場所を教えたのはりんごのおじさんで初めてです。先生たちは花火が嫌いだから、一緒に見てくれないし……」


 少年は寂しげにそう言った。


 詳しく聞いてみると、「先生」とは〈ゾウの会〉の教祖・王海星のことで、彼には「花火には神経薬が仕込まれており、空中で爆破させることによって民衆を洗脳しようとしている」という思い込みがあり、毎年この時期になると幹部を引き連れて花火を開催しない地域に篭ってしまうのだという。


 少年にとって、この時期だけは教団からの監視の目がない自由の日だった。だから門限や仕事を気にせず、私を誘ってこうして花火を一緒に見ることができるのだ。


「……なぁ、一つ聞きたいことがあるんだが」


「何ですか?」


 少年はきょとんとして聞き返す。


 一方私は真剣だった。この機会を逃せば、再び彼と会うことはそうそうないだろうから。


「君は、今の自分の生活を壊す覚悟はあるかい?」


「え……?」


 私はポケットから小さなチップを取り出した。


 仮想P-SIM。いつか少年に会ったら渡そうと思っていた。私が自分で使用しないことと、P-SIMを持たない人間に譲渡する場合は初期化キーを私が管理することを条件に、特例で発行してもらったものだった。


 このチップがあれば、仮ではあるが少年の存在をしっかり記録することができる。何かあった時に駆けつけてやることができる。例えば、「先生」とやらにいじめられたり、暴行されたりしているのだとしたら、すぐさま助けに行ってやれる。


 私がそう説明すると、少年の大きな瞳がじんわりと潤んでいく。彼は震える手で私の手のひらにあるチップを受け取って、花火の音にかき消されそうなくらい小さな声で言った。


「これがP-SIM……これで僕は、やっと人間になれる……」






 それから、〈隣人同盟ゾウの会〉の拠点の家宅捜索に、教祖や主要幹部たちの検挙は驚くほどあっという間に片がついていった。


 少年に渡した仮想P-SIMには続々と教団の悪事が記録され、証拠が揃ったことで警察も迅速に動くことができたのだ。


 教祖は信者たちのP-SIMの管理を徹底していたらしいが、もともとP-SIMを持っていない少年についてはノーマークだったようで、彼に仮想P-SIMを渡したことも気付かれなかったようだ。


 ちなみに、少年の母も自分の息子に売春させていた罪で逮捕されることになってしまった。


「母さん……どこに行っちゃったの?」


 児童養護施設に保護された少年は最初こそ戸惑っていたものの、徐々に自分の生活環境が変わったことを受け入れ始めたようだった。


 週に一度面会に行くごとに顔色が良くなっていき、痩せこけていた身体にはしっかり肉がついて、最近何があったとか自分の話をする回数が増え、笑顔も見せるようになってきた。これでようやく彼も普通の一人の少年として、新しい生活の中で幸せを掴めるだろう……私は一人満足して、彼の自立のためにも会う機会を少しずつ減らしていこうなどと考えていた。


 だが、子どもが心に負った傷は、そう簡単に塞がるものではない。


 二週間ほど会いに行くのを控えていた時、突如施設職員から電話がかかってきたのだ。


 どうやらあの子が同世代の男の子たちと遊んでいる最中、突如パニックを起こして殴りかかり、相手の腕の骨を折ってしまったのだという。


『正直に申し上げますと、あの子が心を開いているのは中條刑事だけですよ……情けないことですが、我々職員が話しかけてもあの子は本心を見せてはくれません。育った環境が特殊すぎて、里親にめぐりあえるかも心配です……中條刑事、あなたがあの子を引き取ってくださいませんか』


「はぁ……ですが、あの子がまさか他人に危害を加えるなんて」


 にわかには信じ難く、私はひとまず施設に駆けつけて何があったのか本人に話を聞いてみることにした。するとあの子は初めて出会った時のような暗い表情を浮かべ、ぼろぼろと涙をこぼしながらぽつりと言った。


「……僕はやっぱり、気持ち悪い、汚い子どもだったんだ」


 聞くと、どうやら男の子同士で「性」についての話題になり、知識豊富な子が自慢げに語るのを聞いて、彼は〈ゾウの会〉で自分がさせられていた行為の意味を知ってしまったのだという。


 それで、パニックを起こしかけた彼に対し、周囲の子どもたちは「恥ずかしいのか」「ビビリだな」と茶化し、「度胸つけさせてやる」といって彼の服を脱がせようとした。彼の身体には虐待の跡が残っていて、彼はそれを誰にも見せたくなかった。だからついカッとなって、周囲の子どもたちを殴ってしまったのだという。


 私はその話を聞いて、彼と距離を置くことを考えていた自分を猛烈に恥じた。自分の中にあった、彼を救ってやったという慢心を、金づちで思い切り叩き潰したくなった。


 私はその時初めて、自分が彼にやってきたことがいかに残酷なことであったのかを知ったのだ。


 あの子を無知でいられた教団から引きずり出し、教団を検挙するための立役者に仕立て上げ、いつ血が噴出してもおかしくない深い傷に薄い包帯を巻いてやっただけにも関わらず、トゲだらけの社会に放りだそうとしていた。


 これでは形は違うとはいえ、彼を虐げてきた大人たちとやっていることは同じじゃないか。


 私は殴った相手の鼻血が染み付いたTシャツを着ている少年の身体を強く抱きしめ、うちに来るかどうか尋ねた。少年は相変わらずとめどなく涙をこぼしながら、私の腕の中で何度も何度も頷いていた。






 それから私は、あの子と一緒に暮らすようになった。


 仕事一筋の私にとうの昔に愛想をつかしていた妻と娘が家を空けていたので、あの子が居場所に困ることはなかった。養子縁組についてはどうしても妻が受け入れてくれず、戸籍上の家族になることは叶わなかったが。


 私はできた父親ではないから、あの子に対して何かまともなことを教えられたかというと少し自信がない。


 だが、とにかくあの子がもう二度と虐げられないようにするために、知識と力が必要だと思っていた。だから、勉強も空手の稽古もしっかりやらせることにした。正直勉強の方は私の学力で教えられることなどほとんどなかったのだが、元の素養が良かったのか、通信教育のテキストを与えてやると自分で勉強してめきめき学力をつけていった。


 おかげで難関私立と言われている学校の中学受験にパスしてしまった時は、驚きすぎてなんと褒めてやればいいのか言葉を失ったくらいだ。


 あの子の仮想P-SIMのレベル1編集機能が幸いして、親子関係を怪しまれることなく入学式に出席できた時は、正直親として鼻が高かったし、あの子との生活の中でいくつもある最高の思い出のうちの一つだ。


 中学に入ってからは身体的にも成長期に突入して、ぐんぐん背が伸び、元がさほどしっかりした骨格でないにせよ着実に筋肉がつき、空手の稽古では付き合う私の方が先にを上げてしまうこともしばしばだった。


 力が身についたことは、あの子にとっても自信につながっていったのだろう。自己肯定感によって余裕ができ、周囲に優しく接することができるようになっていったようだ。友だちが増え、学校の先生からの評価も高い。


 だが、あの子から何か悩みや弱音を聞いたりすることはあるかと尋ねると、誰もが一様に首を横にひねった。どうやらあの子は、身につけた力を自分の弱さを隠すために使っているらしい。自分の弱さ、辛い過去をさらけ出せる相手は、あの子の周りにはまだいないようなのだ。


「いいか、力の使い方を間違えてはいけないよ。お前の力は、誰かを傷つけるためではなく、自分を守り、自分より弱い人を守るためにあるんだ。だけどあまり気を張りすぎるのも良くない。時には力を抜くことも忘れないようにな」


 私がそう伝えるときは縦に頷いてはいるのだが、しっかり真意が伝わっているかどうかは不確かだ。


 それどころか、最近二言目には「仮想P-SIMの初期化キーを教えてほしい」と言い出す。どうやら昔教団にいた頃の記録が残っているのが気にくわないらしい。


 消してしまいたい気持ちは痛いほど分かる。だが、電子チップに刻まれた記録を消したところで何になるというのか。


 あの子だけじゃない、人間は誰しも過去を抱えて生きていかなければいけないのだ。記録があろうとなかろうと、自分の身体や記憶にはいつまでも刻まれて残っていく。それを含めて自分の一部として愛せるようにならなければ、いつまでも苦しむだけだ。


 一人で抱えるのが辛いなら、一緒に分かち合える人を探さなければいけない。あの子は傷が深いからこそ、そういう相手が必要だ。できれば私の他に、ずっと寄り添ってくれるような誰かが……。


 あの子の仮想P-SIMの初期化キーは私のデスクの鍵付きの棚の中に入れてある。無理矢理手に入れようと思えば手に入れられる程度のセキュリティだ。あの子がどうしてもと願ってデータを初期化してしまった時のために、私はこうして過去にあったことを書き出してみたのである。


 ……そろそろ手が疲れてきたから、このくらいにしておこうか。


 この手帳は職場に託そうと思う。それならあの子も簡単には触れられない。そしていつか、この記録が、あの子に寄り添ってやれるひとの目に留まることを願っている。まぁ、それよりも先に、あの子がそういうひとを自力で見つけられることが本望ではあるが……。




 2029年12月31日 中條義直なかじょうよしなお




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