3-11. ある捜査官の手記(上)


***



 2029年の暮れ。


 思えばあの子に出会ってもう5年が経つのか。


 P-SIMレベル2による捜査手法は年々進化し、もはやこの国で犯罪を起こそうなどと考えることすら難しい時代になりつつある。


 そんなデータ管理社会で手記を書くなど、部下たちにはまた時代錯誤のジジイだと笑われてしまいそうだが、それでも私は自分で書き残さなければいけない。


 あの子はいつかきっと、すべての記録を消してしまうだろうから。


 ずっとそばにいてやりたいが、危険と隣り合わせの仕事である上に、実の親子ほども年齢が離れているのだから、いつかは私の方が先に旅立つことになるだろう。そうなったらあの子はどうなってしまうのか……それがとにかく心配でならない。


 だから、私は私が覚えている限りのことをここに記そうと思う。


 初めて会ったのは確か、コートの上からでも冷気が染み込んでくるような、寒い年の瀬の日の夜だった。


 青森出身の部下が実家から送られてきたと言って職場に持ってきたダンボールの箱には、赤く熟れたりんごがたくさん残っていて、年末年始で人が少なくなる時に腐らないようにと、強制的に3個ほど渡されたことをなぜだか鮮明に覚えている。


 私は帰宅途中、見回りも兼ねて渋谷の街を歩くことにしていた。最近この街はどうもきな臭い。理由は上手く言えないが、まぁ……刑事のカンってやつだろうか。例の宗教法人がどでかいビルを構えてからというもの、金貸しや風俗業の周りでが増えているのだ。


 信者の何人かに接触を試みたこともあったが、すべて上手くかわされてしまった。皆、非協力的だ。週刊誌の憶測によれば、信者はP-SIMレベル2の記録をすべて教祖に開示せねばならんとかで、警察と関わりがあることがバレると破門させられてしまうのだという。


 まぁ、週刊誌の憶測はおいておいて……「新興宗教と聞くとつい疑り深くなってしまうのは日本人のさがだろうが」と20代の若い捜査官に言ったら、「どうしてですか?」なんて真顔で尋ねられてしまったもんだから、ついつい昭和生まれの現場捜査官の孤独さを身にしみて感じてしまったのであった。


 話が逸れたが、そういう経緯もあって、ならば自分の足で〈ゾウの会〉の尻尾をつかんでやろうと、私は躍起になって渋谷のいたるところに目を光らせていたのである。


 そうでもしないと、あの子を見つけることはできなかっただろう。


 私はふと、雑居ビルの間の細い路地で何かが動くのを見た。初めは猫か、風で揺らされたゴミ袋か何かだと思っていた。それくらい当時のあの子は線が細くて、今にも消えてしまいそうなほどに弱々しかったのだ。よくよく目を凝らして見て、私はようやくそれが人間であることに気づいた。


 コートを着ても薄ら寒いその日に、汚れたTシャツと半ズボンだけを身につけた少年がそこに倒れていたのだ。


「おい、君、大丈夫か!?」


 私はすぐさま彼に駆け寄った。彼の身体からは年頃の少年らしくない、やけに甘い香りが漂っていた。まぁ、その、アレだ。これも刑事のカンって話になってしまうのだが、この匂いで彼がどんな目に遭っているのかはある程度想像がついてしまい、私は怒りで歯をくいしばった。


 何がP-SIMだ。何がデータ管理社会だ。


 こんな小さな少年一人救えない制度を褒め称えて、現場の捜査官の人員を大幅に縮小しようとしている上層部のハゲ頭など盛大に蹴り飛ばしてやりたくなったが、まずは目の前の命を救うことが先決。


 私が揺さぶっていると、少年はうっすらとまぶたを開けた。


「あれ……僕、寝ちゃってたの……?」


 少年の身体はまるで氷に触れているかのように冷え切っていた。私は自分のコートを脱いで彼の身体にかけてやる。私は119番に連絡して、救急車を待つ間、彼の身体をさすって少しでもあったまるようにしてやった。


 多少体温が上がったことで、ようやく意識がはっきりしてきたのだろう。彼はハッと目を見開くと、急にもがいて私の腕の中から転げ落ち、かけてやったコートを脱いで私の方へと差し出した。


「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい……っ! すぐに仕事に戻りますから……! お願いだから見逃してください……! ぶたないでください……!」


 そう言いながら、少年は大きな瞳からぼろぼろと涙をこぼし始めた。よくよく見ると、とても綺麗な顔立ちをしている子だった。彼は私に覗かれているのに気づき、慌てて両手で顔を隠した。


「泣いたりしてごめんなさい……すぐに泣き止みますから……これは目にごみが入っただけで……」


 少年に謝られるたび、私の胸は締め付けられるように痛んだ。


「赤の他人の私に謝る必要なんかない。存分に泣きなさい。辛い時は泣いていいんだ。君が泣いていたこと、私は誰にも言わないから」


 すると少年はせきを切ったようにわんわん泣き出した。ただでさえ細い彼の身体から、水分が枯れてしまうのではないかと心配になってしまうほどに。


 泣いたことで体力を使い果たしたのだろう、少年の腹が大きな音で空腹を訴える。


「もうすぐ救急車が来るからそれまでの辛抱だが……これでよければ食べるかい」


 持っていたりんごを少年に見せると、彼は返事より先にりんごを私から奪い取り、勢いよく皮ごとかぶりついた。


「おいしい……おいしい……あれ、なんか、しょっぱいけど……」


 泣きながら食べているからだろう。そう思ったが、突っ込まないでおいた。今は食べることに集中させてやりたかったのだ。


 少年がりんごを食べ終えたところで、私は彼に尋ねた。


「君はどうしてこんなところで倒れていたんだ? さっき言っていた仕事っていうのは一体……」


 きっと無意識に口走ってしまっていたのだろう。少年は「しまった」という表情を浮かべると、うつむいてぼそぼそと小さな声で言った。


「なんでもないです……ぜんぶ僕がいけないから……」


「詳しく話してみなさい。もし君が悪い大人にいじめられているのなら、私が助けてあげるから」


 少年はぶんぶんと首を横に振る。


「本当に何でもないですってば! 僕がいけないんです……僕が生まれてきちゃいけなかった子だから……」


 一体、どういう教育をすれば子どもをここまで卑屈に育てるというのか。私は頭にきて、つい声を荒げていた。


「そんなことない! この世に生まれてきちゃいけない子なんているものか。確かに、中には親に望まれずに生を受けてしまう子だっている。だけど、君は悪くない。たとえ親に恵まれなくっても、君が諦めない限りこの世界のどこかに君を肯定してくれる人がいるはずだ。君が今までそういう人に出会ったことがないなら、私が一人目になってやるから」


 そう言って彼に手を伸ばそうとした時、その細い身体のどこに力があったのかと思うくらい強く振り払われた。


「触らないで……! 僕みたいな汚れた子どもに、あなたみたいないい人が触っちゃだめです……あなたまで汚れてしまう……」


 それはとても苦しげな声だった。


 やがて救急車のサイレンが聞こえてきた。少年はすっと立ち上がると、その音とは反対側の方へと歩き出す。


「待ちなさい! どこへ行く気だ」


「僕はもう行かなくちゃ……ノルマがぜんぜん足りないから……また先生にぶたれるのはいやだ……」


 そう言ってふらふらと路地の奥へと消えていく。そこは狭くて私のがたいでは追いかけることはできなかった。私はせめてもの思いで、彼の背中に呼びかける。


「明日から毎晩ここに来るからな! だから困ったらいつでも頼りなさい! 君のことを肯定する大人がいるってこと、ちゃんと証明してやるから……!」






 それからというもの、私は自分の宣言通り、毎晩あの細い路地の前を通るようにしていた。


 少年はなかなか現れなかったが、やがて一枚の紙切れが落ちているのを見かけた。そこには下手な字で「りんごおいしかったです」と書かれていた。


 その次の日以降は、まだ職場に余っていたりんごを持って行って、路地の中に置いてみることにした。すると翌日には無くなっていて、今度は「ごちそうさまでした」という書置きとともに、しわくちゃの千円札が残されていた。


 そのまた次の日、私は残されていた千円札の隣にりんごを置いて、書置きをつけてみることにした。


「金はいらない。代わりに君のことを教えてくれ」


 すると、今度は千円札はなくなっていて、代わりに残された書置きに彼の名前と年齢、そして住所が書かれていた。その住所を見て、私は確信する。


 〈隣人同盟ゾウの会〉の拠点ビルの住所と一致……やはり奴らは「黒」だったか。


 だが、同時に奇妙な事実が発覚した。


 少年の名前と年齢を元に、部下にP-SIMデータベースにアクセスしてもらったが、彼の情報が一切ヒットしないのだ。


「念のため〈ゾウの会〉に所属歴のある人間のリストを洗い出してみましたが……先輩の言うような子の情報はどこにも出てきませんよ。幽霊でも見ているんじゃないですか?」


「馬鹿を言うな。耄碌もうろくジジイ扱いしやがって。あの子が実在するってこと、きっちり証明してやる」


 私はいつものやり取りに、自分のワイズウォッチの連絡先を書き足してみることにした。


 だが、少年からの連絡はなかった。代わりに書置きにはこう書かれていた。


「ごめんなさい。ぼくはP-SIMをもっていないのでれんらくはできません」


 それを見て私は違和感を覚えた。


 P-SIMを持っていない?


 ワイズウォッチではなく、P-SIMを?


 そんなことあり得るのか?


 いや、待て。P-SIMは戸籍に基づいて発行される。


 持っていないということは、彼は、つまり──




***





 ピリリリリリリ!!!!


 激しい着信音が聞こえて、私は手記を読むのを中断した。ヨシハラの部屋のカーテンの隙間からは陽の光が射し込んでいる。もう朝になっていたらしい。


 着信音を告げるのはヨシハラのワイズウォッチだった。ソファの上で寝ていたヨシハラは気だるげに身体を起こし、投影式ディスプレイを立ち上げる。そこには切羽詰まったツツイの顔が映し出された。


『ああああ吉原さん、良かった、出てくれて……! 大変なことになりました……今すぐ来れませんか? 拘置所で箕面が、箕面が……!』


「筒井くん落ち着いて。箕面がどうした?」


 ヨシハラに言われ、ツツイは大きく深呼吸すると、緊迫した面持ちで告げた。


『箕面が……拘置所で自殺を図ったようです……!』



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る