3-10. 再起動
アイリのメモリーから覚め、私は自分の手を見つめた。
金属のパーツを人工皮膚で覆った、均整の取れすぎている色白の手。アイリのものよりも少し指が長くて骨ばっている。
どうしてミツキはアイリの手を拒絶した?
私には、何の抵抗もなく触れてくるのに。
ミツキにとってアイリは大切な人ではなかったのか?
……わからない。
ただ確かなのは、私の擬似人格にじんわりと焼きつく「孤独」、「虚無」、そして「悲愴」。アイリのメモリーの中での強烈な感情が、今の私の中で鮮やかに再現されている。視野が狭くなり、思考回路は後ろ向きなことばかりに支配され、身体中を何かが蠢めくような感覚。
吐き出してしまえたらどんなに楽だろう。
私は手が動くままに、大した理由もなくワイズウォッチでメッセージを送っていた。
「今お時間ありますか」
唐突なそのメッセージに対して、返信はすぐに帰ってきた。
『大丈夫だよ。迎えに行こうか』
ほどなくして家の外で車のエンジン音が響く。私は家を出て車の中に乗り込む。
「さて、どこに行こうか。今からでもやっている店は──」
ヨシハラの言葉の途中で私は彼のハンドルを握る手の上に手を重ねた。
振り払われることは、ない。
「ヨシハラさんの家、行ってもいいですか?」
ヨシハラは「ふむ」と一瞬黙ってもう片方の手をあごに当てる。
「……この場合、僕は淫行警察官に該当するのかな?」
「大丈夫ですよ、私はロボットですから」
「はは、それもそうだね」
彼は軽く笑って自動運転のアクセルを踏んだ。
ヨシハラの家は高層マンションの一室であった。マンションの周辺は下北沢の自宅付近とはまるで雰囲気が違い、照明で明るく、夜でも街に人が行き来している。その騒がしさが今は「心地いい」と感じた。
ヨシハラの1LDKの家の中はモノトーンで統一された家具が置いてあるだけで、雑貨はあまりない。
「殺風景だろう? どうせここには寝るくらいしか用がないからね」
ヨシハラはジャケットを脱いでネクタイを外すとソファに腰掛けた。警視庁の中ではあまり見かけないラフな格好だ。私は彼の隣に座る。彼の身体に触れるくらいの位置で、臭気センサーが微量のタールの臭いを検知した。
「タバコ、吸っていたんですね」
「ああ、バレちゃったか。しばらくやめてたんだけどね。藤沢さんのことがあって無性に吸いたくなったんだ」
「なんだか意外です」
「僕は君が思っているよりも弱い男だよ」
そう言いながらヨシハラは私の人工毛髪を撫でた。私の癖のない黒髪は、彼の長い指に絡むことなくすっと流れていく。
「何かあったのかな? 急に呼び出すなんて珍しいじゃないか」
「……また、サンプルファイル……つまり、アイリのメモリーが再生されたんです」
「なんだって!? 404プログラムは役目を終えたわけじゃなかったのか」
「アイリの記録には続きがあるみたいです……ただ」
「ただ?」
「ヨシハラさん、私……もう、分からないんです。私の擬似人格の中にある感情が、イチノセ・アイリのものなのか、それともフジサワ・ユウのものなのか……もう、区別がつかないんです……今の自分の中にある感情が、自分のものであるという確証がどこにもなくて……だから……!」
私はヨシハラをソファに押し倒した。彼のタレ目は一瞬困ったように歪んだが、拒否することはしなかった。
「……なるほどね。それで君は確かめたいというわけだ。僕の身体を使って」
「勝手なのは分かっています。でも、私がフジサワ・ユウとして稼働し始めて最も長い付き合いなのは、ケンスケを除いてあなただけです」
「でも本当に僕なのかい? 君が望むのは──」
「黙ってください」
ヨシハラの口を手で塞ぎ、もう片方の手で彼のシャツのボタンを外していく。一番下のボタンまで外した時には、ヨシハラもさすがに観念したようだった。彼は両手で私を抱き寄せると、ぐっと力を込めて体勢を逆転させた。彼の体重が全身にかかってくる。重みと温かさを同時に感じた。絶対的な安堵……そんな感情が擬似人格に溢れ出す。
ヨシハラは低く穏やかな声で私の耳元に囁いた。
「……かわいそうに。君は泣けない。苦しいことも嬉しいことも全部溜め込んで、一つずつ律儀に処理しようとして、とうとうパンクしそうになっているんだろう?」
「よく、わかりません……。私が知ろうとすればするほどアイリのメモリーが蘇って、彼女の感情に支配されていく……。すべてを知った時、私はどうなるのでしょうか? フジサワ・ユウではなく、イチノセ・アイリになってしまうのでしょうか? 私は知ることを『怖い』と感じる……なのに、知りたいという気持ちを抑えられない……」
「それは君だけじゃないさ」
「え……?」
「誰もが君と同じような葛藤を抱えてる。新しい真実を知ることは、古い自分とサヨナラするってことだから。怖いなら知ることをやめてしまえばいい。藤沢さんがいない今、君が捜査から手を引くことを咎める者はいないだろう。だけど、君自身はそれでいいのか?」
「わかりません……」
「僕には分かる。捜査に夢中になって、ついついバッテリーの限界まで消耗してしまうのが本当の君らしさだ。学習することに貪欲で、完璧なヒューマノイドのくせにどこか常識はずれで天然。僕が今まで見てきた藤沢ユウはそういう子だよ。君が『知る』ことをやめられるはずがない」
「だけど、私が知ることでまたケンスケみたいに誰かを追いやってしまったらと思うと」
言葉の途中で、ヨシハラが急に力を込めてきた。彼が上側の体勢であることもあって、私の腕力でも抜け出せないくらい強い力だ。ヨシハラが覗き込むような視線を私に向けた後、少しずつ顔を近づけてくる。口づけされる──そう思った瞬間、私は手で彼の顔を阻んでいた。
すぐさまハッとして、私は手を引く。自分から仕掛けておきながら、理不尽なことをしてしまった。ヨシハラはどう思うだろうか。だが彼は顔を引いてくっくと笑った。
「ヨシハラさん……?」
やがて彼は上体を起こして私から離れる。そうして、シャツのボタンをかけ直しながら、ソファの上で仰向けになっている私に向かって手を差し伸べた。
「全く、損な役回りだよ。結局これも、君が自分の感情を知るための実験の一つだったんだろう? 結果はどうだったのかな」
「……ボディを守るための衝動的な行動は、思考を介さず反射的に実行するよう仕組まれています。人間で言うところの無意識、私の場合は最も素の状態に近い擬似人格……」
「つまり、一ノ瀬亜衣莉の感情がどうこうではなく、君自身の意思ということだね」
「はい……」
そうだ、私がとっさにヨシハラのことを拒絶してしまったのは、彼とそういう行為に及ぶことが適切ではないと、理性的にではなく感情的に理解していたから。
私が望んでいるのはヨシハラじゃない。
私が望んでいるのはあの人。
アイリの感情のトレースじゃなくて、私自身がそう望んでいる。アイリのメモリーに対して深く傷ついたのは、彼女の感情に支配されたからじゃない、彼女の境遇に共感してしまったからなのだ。
それが、私自身の感情。
ヨシハラはいつの間にかタバコを取り出して、天井に向かって白い煙を吐き出していた。
「ヨシハラさん、あの……」
「謝らないでくれよ。別に僕はなんとも思っちゃいないさ。僕自身、好奇心で君の実験に付き合ってみただけだよ。それよりも、これでようやくまともに君と話ができることに安心してる」
そう言って、彼は自分の鞄の中から一冊の手帳を取り出した。水気を吸ってよれたページに、たくさん付箋が貼ってあってやたら分厚い。
「これは……?」
「〈隣人同盟ゾウの会〉を検挙した捜査官が残した手記らしい。このご時世に珍しく手書きだ。かなり筆まめな性格らしくて、当時の情報がびっしりと書き残してある。僕らが読んだらものすごく時間がかかりそうだけど、君なら一瞬かなと思ってね」
私はヨシハラから手帳を受け取り、ざっと目を通してみた。手書きのため通常のデータを読み込むよりは時間がかかりそうだが、一度筆跡の癖を覚えてしまえばあとは早い。集中すれば一晩で読み終えてデジタルデータとして書き出すことができるだろう。
「わかりました。捜査に関連しそうな内容をピックアップしてみます」
「頼むよ。何か手を動かしていた方が余計なことを考えなくて済むだろうしね」
ヨシハラはそう言って、二本目のタバコに火をつけた。
「あの、ヨシハラさん」
「ん?」
「ちょっと聞きたいんですが……他人に触れられたくないという感情はどういう時に発生するのでしょうか? やっぱり相手のことを受け入れられないということでしょうか……」
「いや、その逆もある」
「逆?」
「そう。その手帳のどこかにも確か似たようなことが書いてあったな。確かページは──」
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