3-9. File date 2030/07/27
***
「なぁ、お前って中條とはもうヤったの?」
津山に唐突に尋ねられて、私は思わず飲んでいたお茶を盛大に吹き出した。
「あー、意味わかるんだ。優等生も案外ませてんだな」
向かいの席でニヤニヤといたずらな笑みを浮かべる津山。私は顔がカーッと熱くなってきて、慌てて両手で覆った。
ああもう最悪……。なんでこんなやつと一緒の時間なんだろう……。
宝星学園の中等部三年生は、夏休み中に高等部の進路指導の先生と個人面談をすることになっていた。基本的にみんなそのまま高等部に進学するから進路指導なんてあんまり必要ないんだけど、他校の生徒が受験勉強に明け暮れる夏休み中に、生徒が遊びすぎないよう釘をさすのが狙いみたい。
私と津山は今日がその日で、控え室になっている図書室で鉢合わせたというわけ。
「なんでいきなりそんなこと聞いてくるのよ。嫌がらせ?」
「だってお前ら仲良いじゃん。付き合ってんだろ? もったいぶってねぇでさっさと処女捨てちまえよー。あ、さすがにチューくらいしてるよな?」
そう言う津山の右手の薬指には、堂々とごつめのシルバーリングがはまっている。知ってる。
赤く染めた髪の色もお揃いだし、背伸びしてつけている香水の匂いも同じ。二人とも嫌な奴らだけど、ここまで仲良しなのは少しだけ羨ましい。
「……私と
自分の言葉が自分の胸に突き刺さってくる。
そうだ、私たち別に付き合っているとかそういうのじゃない。「友だち」以上であるのは間違いないのに、それ以上の関係性の名前をつけていいのかはあいまいだった。私も三葵もお互いに気を許してはいるけど、相手のことを「好き」だと言ったことはなかったから。
「なんだー、じれったいなぁ。お前らちゃんと思春期きてんの?」
津山のからかうような言葉に私は口をつぐんだ。
そもそも津山とまともに話すのは今日が初めてだった。小恋の彼氏だし、見た目も近寄りがたいのでなるべく避けるようにしていた。だからまさかこんな風に話しかけてくるとは思わなくて、さっきからいちいち返し方に悩んでしまう。
「ったくつまんねぇよなぁ。最近刺激がねぇんだよ。小恋も急にいじめをやめるなんて言い出してさ」
なんという神経をしているんだろう。そのいじめの対象にしていた相手を目の前にして。
カチンときたけど、こんなところで言い争っても仕方ないので私はなんとか抑え込んだ。
津山が言う通り、確かに最近小恋によるいじめが急になくなってきた。たぶん臨海学校の後くらいだったと思う。成瀬をはじめとしてクラスメートの態度が以前と同じように戻ってきて、今ではむしろ小恋の方が孤立しているような状態だ。
「なぁ、お前はなんで急にいじめがなくなったんだと思う?」
だからなぜそれをいじめられた本人に聞くのだろう。小恋に聞けばいいのに。私がそう言うと、津山は「だってお前が一番知っていると思ったから」と答えた。
「どうしてそう思うの?」
すると津山はにやりと口角を吊り上げ、声をひそめて言った。
「たぶんな……中條のせいだと思うんだよな」
「三葵の?」
津山は頷く。
「ああ。どうもあいつが小恋の周りのやつに何か吹き込んだらしいんだ。そんで小恋に従うやつはいなくなっちまった」
「へぇ、そうなんだ」
私は空返事をする。今度は小恋を被害者扱いして、三葵を悪者にしたいってことだろうか。そんな話、どうでもいい。
なのに。
「なぁ、なんか怪しくないか。なんでみんな中條の言うことを聞く? 俺みたいに力で脅しているわけじゃねぇじゃん。じゃあどんなやり方なのかって気になってよ。だから俺、あいつのことちょっと後つけてみたりしたんだよ。そしたら──」
高等部の進路指導を担当する
「……俺、こないだ見ちゃったんだよ。あいつ、小恋のグルの女にチューしてたぜ」
「は……?」
一瞬、頭が真っ白になる。
「信じられないだろ? 俺も目を疑ったさ。それまで一緒に話してるのすら見たことなかったんだぜ。だけど、あいつこう言ってた。『協力してくれるなら何でもしてあげるよ』ってな。女はぽーっとしてて、首ふり人形みたいにうなずいてた」
こんなこと言って、私をからかいたいだけだ。これもまた一種のいじめなのだろう。そう思ったけど、この時に限って津山は怖いくらいに真面目な顔つきで言った。
「それだけじゃない。俺の親父の組ん中にいる兄貴分が言ってたんだ。あいつによく似たやつを前に風俗街で見たってな。気をつけろ……あいつ、お前が思ってるような聖人じゃねぇかもよ?」
津山の言うことなんて信じるもんか。
三葵がそんなことをするはずがない。
私の方が三葵のことをよく知っている。
三葵が、他の女の子になんて……。
考えれば考えるほど、その絵が具体的に浮かんできてしまって叫びたくなった。
登下校はいつも一緒だし、休日も土日のどっちかは私と会うことが多い。それなのに、他の子と仲良くなる時間なんてあったの……?
そもそもキスなんて……いつも私を励ましてくれる、あの形の良いくちびるが、誰か他の子と触れているなんて考えたくない。私は三葵と手をつないだことすらないのに。
だめだ、私いますごく嫉妬している。
三葵は私のものではないのに、まるで自分のおもちゃを取られた子どもみたいにドロドロした気持ちになってる。
「かっこ悪い……」
誰もいない図書室の中で思わず独り言が漏れた。その時、ワイズウォッチの液晶画面がちらりと光る。メッセージを受信したのだ。私はそれを確認して、色んな気持ちが洗い流されていく感じがした。
『今日の待ち合わせって渋谷駅前に18時でいいんだっけ?』
三葵からの短いメッセージ。今夜は花火大会だ。幼い頃からアメリカに住んでいたから、日本で花火を見た記憶がないという話をしたら、「渋谷で綺麗に見れるところがあるから教えてあげる」と言って誘ってくれた。
そうだよ。何も疑うことなんてないんだ。誰が何と言おうと、私に優しく接してくれる三葵は間違いなく存在するんだから。
面談が終わってすぐに私は渋谷に向かった。待ち合わせまではまだ時間があったから適当にカフェで時間を潰して、予定より少し前にカフェを出る。まだ5分前だったけど三葵はすでにそこにいた。
白いシャツに、薄手の空色のカーディガンを着ている。夏になって気温が高くなっても、三葵の服が薄着になることはなかった。前に理由をこっそり教えてくれたんだけど、虐待されていた時の傷あとが残っていて見られたくないらしい。体育があってどうしても人前で着替えなければいけない時は、傷のある場所に包帯を巻いて隠しているのだそうだ。指摘されたら空手の稽古で怪我をしたと嘘をついて。
渋谷の街には浴衣で着飾っている女の人がいっぱいいて、少し後悔する。私も浴衣を着て三葵の隣に並んでみたかった。
本当は家に帰って着替えることもできなくはなかったけど、浴衣なんか着て出かけたら健介兄さんに色々勘ぐられてしまいそうで諦めたのだ。
「さ、行こうか。混んじゃう前に」
三葵はそう言って私の前を歩き出した。いつもより人が多い渋谷の中で、彼の手は何にも触れずに宙をさまよう。私は彼を見失わないように小走りで追いかけた。
手、つないじゃダメかな。
そう思ったけど、ほんの少し腕を伸ばせば届く距離にはとてつもなく大きな壁が間にあるような気がして、私は勇気を出すことができなかった。
三葵が案内してくれたのは、小さな雑居ビルの屋上だった。エレベーターで最上階まで上がって、そこから非常階段を登る。
ドン。ドン。
屋上に出た途端、大きな音が夜空に響き渡った。空気が揺れる。渋谷の街の向こうに光の花が咲いている。
それを見た瞬間、直前まで頭の中でもやもやしていたことすべて吹き飛んだ。
「きれい……」
「でしょ。ここ、会場からはちょっと遠いけど人が来なくて穴場なんだ。この場所を教えたのは亜衣莉で二人目。去年までは父さんと見に来てたんだけど、一人じゃ寂しいしね」
花火の光に照らされた三葵の顔が、私の方を見て微笑んでいる。
何かの歌詞か映画か忘れてしまったけど、「夜景より君の顔がきれいだね」なんてセリフがある。なんてクサいセリフなんだろう、逆に冷めてしまいそうだなって思ってたけど、前言撤回。今ならその気持ちが少しわかる気がする。
「あ、ほら見て。あれちょっと形が変わってるよ。たぶんこの間流行ったアニメのキャラの顔だね」
三葵が右手で夜空の向こうを指差す。左手は彼の身体の脇で持て余している。
息が苦しい。胸が痛い。
どうすればこの気持ちを解放できるんだろう。
考えるよりも先に、私の手は誘い込まれるように動いていた。
「三葵。私──」
パシッ。
花火の打ち上げは続いているのに、その音だけはやけに大きく響いた。
「あ……」
私は行き場所を失った自分の手を見つめる。
指先がひりひりと痛い。
受け入れてくれると勝手に思い込んでた。
だけど……弾かれた。
「……ごめん」
三葵は苦しげに眉をしかめて、小さな声でそう言った。
どうして、謝るの?
私が触れるの、そんなに嫌だった? 他の女の子にはキスをしたのに?
私には、触れるのさえ、許してくれないの?
「……私こそ、ごめん……」
まだ花火は続いている。
だけど、それ以上彼の隣にいるのがつらかった。
何も言わない三葵の横を通り過ぎ、私はその場から逃げ出した。
***
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