1-4. File date 2028/12/24


***



 あの時の想いを「初恋」と呼んでいいのかは、私自身もよく分からない。


 ママたちの仕事でアメリカに住み始めて三年。最初は全然通じなかった英語も、今ではスラングまで使いこなせるようになった。日本人より一回り大きなアメリカ人たちへの恐怖も薄れてきて、友だちができた。


 そして、恋人と呼べる人も。


 数ヶ月前までは正直焦っていた。アメリカの子どもたちは日本人の感覚よりもずいぶん進んでいて、日本でいう中学一年になった頃にはクラスの八割の子たちはみんなファーストキスを済ませていたのだ。


 女友達とランチに行くと、誰と誰が付き合っているとか、どの男の子のキスが一番上手いかとか、隣のクラスのあの子はセックスも経験したとか、そういう話ばかり。


 何の話のネタも提供できない私は、いつだって肩身が狭くて。


「あんたはマジメだもんねぇ」


「キンベン! ショジョ! 日本人なんだから、焦ることないって」


 彼女たちは励ますつもりでそう言ったのだろうけど、何だかからかわれているみたいで恥ずかしかった。


 確かに、アメフトをしている男の子を見て体温が熱くなったり、何気ないスキンシップに急にドキドキするようになったり、私の身体は順調に恋ができるように成長してきているのだと思う。


 だけど、私の頭はまだ理解できていなかった。


 「好き」ってどういうことなの?


 アイ・ラブ・ユー。言葉にするのは簡単だ。


 だけど、誰かに伝えるのは、難しい。


 周りの女の子たちがうっとりした表情で好きな男の子のことを話している時、私だけが恋をできない欠陥品として生まれてきたんじゃないかって不安に駆られて苦しかった。


 私は「欠陥品」じゃいけないのに。


 ママやパパのために、「完璧」じゃないといけないのに。


 そんな風に思い悩んでいた時期のことだった。


 クラスメートの家でホームパーティをしていて飲み物が足りなくなり、クジで負けた私とウィルが買い出しに行くことになった。


 ウィルは仲の良いクラスメートの一人だ。スポーツ一筋のやんちゃな男の子で、勉強は苦手。毎回課題を忘れては先生に叱られていた。ひどい時にはお説教だけで授業が終わってしまうこともあったから、少し不憫になって、近くの席だった私は授業の前に彼にノートを見せてあげることにした。


「ほんっと助かるよ! お礼に何かできることはないかな?」


「お礼なんて……あ、でも」


 こんなささいなことでお礼をしてもらえるなんて予想をしていなかった私は、とっさに「アメフトのルールを教えてほしい」と答えた。ウィルはアメフト部の選手だったのだ。


 それから少しずつ話すようになって、私とウィルは友だちになった。憧れる男の子というよりも、人懐っこくて女の子同士の時と同じくらいに話しやすい友だち。少なくとも、この時まではそう思っていた。


 夜が深まった通りには誰もいなくて、私たちの足音と息遣いだけが妙に大きく聞こえる。


 よく考えたら、学校以外で男の子と二人きりになるなんて初めてのことだった。


 歩いていた道が狭かったせいか、どことなく隣を歩くウィルとの距離が近い。服越しにほんのり感じる彼の体温に、思わず「ああウィルって男の子なんだ」なんて、当たり前だけど普段意識しないことを考えてしまって、なんとなく気まずかった。


 頭の中がごちゃごちゃしてきて、普段自分がウィルと何を話していたのかさえ分からなくなる。


 彼もたぶん、同じことを考えていた。……いや、きっと私以上に。


「この間さ……試合、見に来てくれてありがとう」


 ウィルは私の方を見ずに言った。私も、ウィルの顔を見ることはできなかった。


「良い試合だったよね。特にウィルが上手くおとりになって逆転した時、私思わず叫んじゃったもん」


「ああ、『デコイ』だね。本当は俺がパスを受け取って、カッコいいところ見せたかったんだけど」


「ううん、じゅうぶんカッコよかったよ。ウィルのおかげで勝てたようなものじゃない」


「ハハ、ありがと」


「相手、州大会にも出ている強豪チームだったんでしょ」


「そう。だから」


 ウィルは言葉を切り、唾を飲み込んだ。


「試合前に願掛けをしたんだ。もし勝てたら──」


 声がだんだんと小さくなって、うまく聞き取れなかった。


 勝てたら、何だろう?


 私が続きを聞き返そうとするよりも先に、ウィルは答えた。


 言葉ではなく、その大きな手で。


 私の小さな手は、すっぽりとその手に覆われる。男の子と手をつなぐのは幼い頃のお遊戯以来だと思う。その時は同じ大きさだったはずなのに、いつの間にかこんなに差がついていた。それが怖くもあり、新鮮だった。


 ウィルの手は初め、優しく包み込むように私の手を握っていた。私の反応を試しているみたいだった。私も別に嫌な感じはしなかった。むしろ思っていたよりもウィルの手が骨ばっていて、熱くて、ちょっとドキドキした。


 だから、ゆっくりと手首を返して、手の平と手の平を合わせていく。そのわずかな動きを感じ取って、今度は少しだけ強く、ウィルの手が握り返してきた。お互いの手のひらはほんのり汗ばんでいて、しっとりと溶け合わさっていく。


 しばらく、二人の間に言葉はなかった。


 でも、言葉を交わすよりも、ずいぶん色んな気持ちを交換しあったような気がした。


「……なぁ、俺たち付き合わない?」


 ウィルが言った。


「……いいよ」


 私は答えた。


 それから、私とウィルは恋人同士になった。


 それが、二ヶ月前のこと。






「ちょっと、何やってるの? オーブンなんか使って」


「アップルパイを焼いているの」


 私がそう言うと、ママは深いため息を吐いた。それから、「そんなことをする暇があるなら勉強をしなさい」と小言を吐いた。


 もしかして、成績のことを先生から聞いたのかな。最近落ちっぱなしだってこと。


 ママは私を現地の名門私立校に入れたがっているのだ。だけど、私の地頭じゃどれだけ勉強しても入れるような学校じゃない。そんな無謀なことに時間を使うくらいだったら、たとえおままごとのようなものであっても、私は初めてのボーイフレンドのために時間を使っていたかった。


「パイが焼けたら勉強するから」


 私は適当にそう返事して、オーブンの中を覗き込む。焦げくさい。はっとしてオーブンを開ける。卵黄を塗った表面が真っ黒になってしまっていた。焦げたにおいの中に混ざるシナモンの甘い香りが憎らしい。


 ウィルと付き合い始めてから、私はできるだけ「良いガールフレンド」であろうとした。


 自分がまだ彼のことを本当に好きなのかよくわからないという、罪悪感もあったのだと思う。


 だから、私なりに最善を尽くそうと思った。彼と会う日はいつもの倍以上髪の毛のブローに時間をかけるようにしたし、アメフトの試合の時は誰よりも大きな声で応援したし、彼に見せるノートの文字は読みやすいよう丁寧に書いた。


 初めての二人っきりのデートの時は、ママの化粧道具を拝借して口紅を塗って出かけた。ウィルは「すごく魅力的だよ」と言って、いつもより赤らんだ唇に優しくキスしてくれた。本当に触れたのか分からなくなるくらい、とっても繊細なキスだった。ウィルの唇にうっすらついた口紅の跡だけが、私たちのファーストキスを証明してくれているかのようだった。


 今こうして慣れないおかし作りに挑戦しているのだってそうだ。今日はクリスマスイヴ。彼の試合が終わったら、デートをする約束をしている。


 時刻は十五時。試合はもうすぐ始まってしまうけど、デートには間に合う。私はウィルに少し遅れるとメッセージを送って、もう一度アップルパイを作り直すことにした。


 二度目は失敗しなかった。むしろ大成功だ。


 ウィル、おいしいと言ってくれるかな。


 そう思った時、私は自分がにやけていることに気づいて、急に恥ずかしくなった。誰も見ていないのに、思わず顔を覆ってしまう。最初は告白されたから付き合い始めただけだった。でも、いつの間にか私も彼のことを……。


 今すぐこの気持ちを彼に会って確かめたくて、私は慌てて家を飛び出した。


 念入りに髪をセットしてから出かけようと思っていたことなどすっかり忘れて、私は走っていた。


 これならウィルに伝えた時間よりはだいぶ早く着く。試合開始にも間に合う。


「ウィル、私──」


 選手控え室の扉を開ける。


 私ね、時間がかかったけど、ようやく「好き」って気持ちが分かったかもしれない。


 そう、伝えようと思っていた。


「あ……」


 扉を開けた瞬間、別のチームの控え室と間違えたのかと思った。そうであってほしかった。


 だって、そこにいたのは。


 そこにあった光景は。


「ねぇ……何、してるの……?」


 ユニフォームを着た彼は、マネージャーの女の子とキスをしていた。私の手を包み込んだあの大きな手は、女の子のシャツの中をまさぐっていた。


 ぐしゃり。


 指先の力が抜けて、パイを包んだ箱が床に落ちる。あれだけ上手く焼けたのに。食べてほしかったのに。綺麗に焼きあがったパイの層は、きっと無残に崩れてしまっただろう。


 だけど、私の気持ちはもっとぐちゃぐちゃだ。


 瞳のあたりがわっと熱くなって、私は控え室を出ようとする。


 ウィルの手が力強く掴んだ。


「触らないで!」


 その言葉と一緒に、絶対使うまいと思っていた汚いスラングが思わず口を突いて出る。ウィルは私の腕を離し、苦い表情を浮かべて吐き捨てるように言った。


「君ってそういう顔もできるんだね。知らなかったよ。付き合っていたのにさ」


「どういう、こと……?」


 「そういう顔」なんて言われても、鏡がないから分からない。


 きっと、今まで生きてきた中で一番醜い顔をしているってことは分かっていたけれど。


「俺も悪かったよ。最初は君のこと、お人形みたいで綺麗だなって思ってた。だけど、お人形と付き合うってのは案外疲れるんだよ。俺はもっと、君のそういう顔が見てみたかった」


 ウィルはそう言って、控え室に戻っていった。


 アップルパイの入った箱には目もくれず。


 悲しくて、悲しくて、それ以上声が出なかった。ただ、せきを切ったようにぼろぼろこぼれる涙を拭いもせず、私はもと来た道を引き返した。


 やっと「好き」になれそうな気がしていたのに。


 始まりを告げる前に、終わってしまった。


 たった二ヶ月の、おままごとみたいな恋。


 ウィルが言った通り、人形が「ガールフレンド」という役を演じてみただけの、喜劇みたいなもの。


 あっけなく消えて、本当に付き合っていたのかさえ疑いたくなる。


 ただ、胸が締めつけられて息をするのが苦しい、この痛みだけは……ずっと、忘れられそうにない。




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