1-3. イチノセ・アイリ
下北沢の駅から離れた場所にぽつんと佇む、年季の入った賃貸の一軒家。そこがケンスケの自宅兼ラボである。
ケンスケは玄関のポストに乱雑に突っ込まれたチラシを見ると、盛大なため息を吐いた。
「クソが! 日本語も読めねぇのか!」
近所迷惑になるレベルで怒鳴りながら、荒々しくチラシを引っ張り出していく。
ポストの横には「チラシお断り」というシールが貼ってあるにも関わらず、ピザだの英会話教室だののチラシが後を断つことはない。
その理由はシールに書かれた文字が汚すぎて読めないからなのだろうが、ケンスケの機嫌を余計に損ねるだけなので指摘しないでおく。
ケンスケがふと手を止めたので、私は横から覗いてみた。チラシの中に紛れて入っていた封筒のようだ。進学予備校からの受験対策講習の案内。宛名はケンスケではなく、「
「……お前にやる」
ケンスケはそう言ってその封筒を私に押しつけると、他のチラシはぐしゃぐしゃに丸めながら家の中に入って行った。
こんなもの、AIの私がもらっても仕方がないのはケンスケも理解しているはずだ。
だが、そう理屈どおりに行動できないのが人間なのだという。
そして私は、人間のそういう理屈どおりにいかないところを見て、人間の感情というものを学習する。私の『擬似人格プログラム』はまだまだ発達途上だから。
ケンスケに続いて家の中に入り、私は封筒を持って二階に上がった。
イチノセ・アイリ。
彼女の名前を見かけるのは何もこれが初めてではない。
というより、毎日見ている。
この家は二階建てで、一階はケンスケのラボとリビング、二階には寝室が二つある。二つの寝室のうち一つはケンスケのもの、そしてもう一つが彼女──イチノセ・アイリの部屋だ。
私に仕組まれたプログラムのうちの一つに、彼女の部屋を掃除するというものがある。それも、毎日。おかげでずいぶん前からもう掃除する場所などないくらいにきれいになっているが、それでもケンスケはそのプログラムを解除することはなかった。
まったく、この部屋を掃除するくらいなら、足の踏み場もなくなっているケンスケのラボこそ掃除した方がいいのではないか。そう提案したこともあったが跳ね
「掃除する場所がないなら掃除はしなくていい。だが毎日15分はアイリの部屋の中にいろ」
それがケンスケの返答だった。
理由を尋ねてもケンスケは答えてくれない。試しにヨシハラに話してみたところ、
「きっとあれだよユウくん……男には一人になりたい時間もあるからさ」
ということらしい。
いまいち理解できなかったが、何かしらの理由が存在するということなのだろう。
私はいつも通り、掃除機を持ってアイリの部屋に入った。
やはり埃一つ湧いていない。
仕方なく、淡い桃色のベッドの上に腰掛ける。
パステルカラーを基調とした家具に、クローゼットに並べられた清楚な私服。いかにも年頃の少女らしいものに溢れているかと思えば、勉強机の上にはびっしりと書き込みの入った参考書が几帳面に並べられている。
彼女がどんな少女なのか、部屋を見れば一目で理解できるほどに、アイリの部屋には情報が溢れていた。
だけど私は、一度も彼女に会ったことがない。
なぜなら、アイリは──
その時、一階からけたたましい音が鳴るのが聞こえて私は部屋を出た。何かあったのだろうか。初めて聞いた音だった。音声認識プログラムにかけて照合──銀河宇宙戦争を描いた映画における悪役のテーマソングらしい。
一階のリビングに行くと、ケンスケがワイズウォッチの投影式ディスプレイを立ち上げて誰かと通話していた。着信音だったようだ。
ただの通話なら私が立ち会う必要はない。プログラムの実行優先順位としてはアイリの部屋に戻ることが優先──そのはずなのに、なぜか私はその場に足を止めていた。
通話の相手の声を聞いた瞬間、擬似人格プログラムに浮かび上がった感情に支配されたのだ。この感情は「興味」「関心」「好奇心」──いや、「恐怖」?
『ちょっと健介! 電話したら2コールまでに出ろって前に言ったわよね!?』
「いきなりかけてくる姉貴も悪いだろ! 俺だって忙しいんだよ!」
ディスプレイにはしかめっ面をした女性の顔が映し出されていた。
人物認証データベースによると、彼女はイチノセ・ルナ。仕事の都合で現在シンガポールに居住しているケンスケの姉であり、アイリの母親。
ウェーブがかった優雅な茶髪に、金色の大きなフープピアス、それに印象的な大きな黒目。外見はあまり弟と似ていない。強いて言えば、ケンスケのぎょろっとくり抜かれたような目を、うまく整形したのが彼女の顔にはまっているという感じだ。
『忙しい? あんた仕事は見つかったの? 前の会社を辞めてからもう三年だっけ。あんたのことだからまともに就職活動してないんでしょう? そう思ってこの前、うちの会社のシステム部に推薦状出しておいたの。あんた、技術力だけはまともだものね。あとは社会性を身につければうちの会社でもやっていけるはずよ』
ルナの言葉にケンスケはわなわなと震え、彼女のテキパキとした口調に張り合うかのように鼻息荒くまくし立てた。
「よよよ余計なお世話だっての! 勝手に決めんじゃねぇよ! 今は警察に世話になってんだから別にいいんだよ!」
すると、ディスプレイに映るルナは軽蔑の眼差しをケンスケに投げかけてきた。
『警察って……あんたついに犯罪に手を染めたの?』
「違っ……! そういうことじゃなくて」
「案外まちがってないけどね」
「ユウ、お前いつの間に……! 余計なこと言うな!」
つい、口を挟んでしまった。
これも『擬似人格プログラム』の感情がそうさせるのだろうか。
ちなみに、「犯罪に手を染めた」というのは実際その通りだ。
そもそも私たちが警察に協力することになったのは、私の稼働実験をしようとした時にケンスケがプログラムを組み違えて、とあるサーバーに違法アクセスをしてしまったのがきっかけだから。
不本意な違法アクセスは痕跡が残りやすい。すぐさま警察に特定され、サイバー犯罪対策課のヨシハラがこの家にやってきた。そこで彼はケンスケと私──当時はまだ人型ではなく、ホームスピーカーのようなデバイスの形だった──の存在を知り、私たちを逮捕するのではなく、能力を見込んでスカウトしてきたのだ。捜査に協力するなら、今回のミスは見逃してやると。
そうして私たちは警察に関わるようになり、次第に力量を認められて報酬が支払われるようになった。元は小さかった私のボディも、警視庁の投資もあって人型ヒューマノイドにバージョンアップするに至ったのである。
『……くだらないわ』
イチノセ・ルナの表情は暗かった。私たちのやりとりを笑うどころか、うんざりした様子でため息を吐く。
『それが、あんたが私の推薦を蹴ってまでやりたいことだって言うの? そんなお人形まで作って……』
「人形?」
ケンスケの額に青筋が浮き出る。だが、彼が何か言うよりもルナが言葉を続ける方が速かった。
『分かってるわ。あんたがそういう奇行に走るのは亜衣莉のせいよね? でもね、あんたが責任感じる必要はないの。いい加減、自分の人生のことを考えなさい。だって、どれだけ囚われても亜衣莉は戻ってこない……あの子はもう、死んだんだもの』
そう言うと、ケンスケに口を開く隙を与えないまま『まだ仕事中だから切るわね』と言って一方的に通話を終えてしまった。
ケンスケは「クソ姉貴め」と悪態をつくと、力が抜けたかのようにリビングのソファに座り込んだ。目は開いているが、その視線はどこでもない場所に向けられている。
私がケンスケの隣に座ると、ソファの片側が体重で沈む動きに合わせるかのようにケンスケが身体を倒してきて、私の大腿部に顔を埋めた。彼が買ってくれたスキニーパンツ越しに、知恵の詰まった頭の重みを感じる。
ボサボサに伸びた黒髪を指先ですくように彼の頭を撫でる。本来は年端のいかない子どもに対する行為だが、ケンスケが疲れている時はこうするのが習慣だった。眉間に深く刻まれていた皺が溶けていき、やがて表情に穏やかさを取り戻していく。
「……亜衣莉は死んだんじゃない。殺されたんだ」
事実じゃない。願望。
当時の捜査資料には、他殺の線はほぼないと記録されている。遺書など、直前に死を覚悟したような行動も見られなかったことから、自殺の可能性も低く、転落事故死と判断された。
だけど、彼の大きな瞳から涙が溢れて私のスキニーを濡らすたび、擬似人格プログラムが様々な感情を同時に訴えてきて、他のプログラムの正常な稼動を阻害していく。
「かわいそうな亜衣莉……俺が……俺が、あいつを救ってやれたら…………」
ケンスケがぼそぼそと呟く。
それに合わせて、感情パラメータが波打つ。
何か、おかしい。
調子が悪い。
ボディを動作させようにも、腕が持ち上がらなかった。
それだけじゃない。視点カメラがかすみ、聴音マイクにノイズが入る。
活発なのは、感情を司る『擬似人格プログラム』だけだ。
要因を思い出せ。
そうだ、アイリの母親の声を聞いてからだ。
あの声に引き寄せられるようにして、どこか制御を失ってしまったかのように、擬似人格プログラムが暴れて、ア バ レ テ ……
──────────
条件クリア
実行中のプログラムを強制終了
最優先プログラムの実行モードに移行開始
プログラムコード:
File date 2028/12/24
Now Loading......
──────────
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