2-5. ヘンミ・チャコ
ピッ!
短いホイッスル音と共に、足の裏にエネルギーを集めて地面を蹴る。
今いる地点からバーまでの距離を視点カメラから判別。バーの高さに対して必要な助走速度を算出。距離と速度から必要歩数を逆算し、踏切地点をマーキング。バーの高さと速度を再計算し、踏切って力を流す先の角度を確定。
オールグリーン。踏み切る。
エネルギーは踵からつま先へ。身体が宙に浮き、一瞬青空が視界に入る。背中とバーの間に、行き場のない風が生まれる。すぐ次の瞬間には、柔らかいマットの感触。
「ま、まじかよ……! 藤沢、今の2メートルだぞ!」
体育教師が悲鳴に近い声をあげたことで、周りに集まっていたジャージ姿の女子学生たちがざわめくのが聞こえる。
「ちょ、やばくない?」
「嘘でしょ……2メートルって、オリンピック選手並みじゃん」
そりゃそうだ。だって、私のボディはオリンピック選手並みの運動性能を発揮できるようになっているのだから。
起き上がって元いた列に戻ろうとすると、女子三人のバリケードが阻んだ。
「藤沢さん! まだ部活決まってないなら陸上部に入らない? ていうか、入って! 夏の大会だけでもいいから、お願い!」
せがむように彼女たちはその身を私に押し寄せてくる。……またか。
「ごめん。私、他にやることがあるから部活には入らないつもりなの」
「そんなこと言わないでさ、体験入部だけでも」
「ごめんなさい。他の部活も全部断っているから」
「ええ……もったいないよ。そんなに運動神経いいのに」
「ダメなものはダメ。悪いけど諦めて」
彼女たちの背中を押してあしらう。そろそろみんな「学習」してほしい。私は別に学生ごっこをするためにこの宝星学園に来たわけじゃない。
……だけど。
潜入捜査を始めて3週間が経過した。相変わらず〈バスティーユの象〉に関する手がかりは得られないまま、犯行予告の期限が近づいてきている。
「ねぇ、次男子の方見よう! そろそろ
「ほら、藤沢さんもこっち来て!」
「あ、ちょっと勝手に──」
私はクラスメートの女子に引っ張られ、男子の走り高跳びの側まで連れて行かれた。
ホイッスルの音がグラウンドに響き、彼はスタートを切る。まるで踊っているかのように軽いステップ。中性的で均整の取れた顔立ちからは連想できないほど力強い踏み込み。そして全身の筋肉を器用に操り、背面で美しい弧を描く。
彼が着地すると、周囲からは黄色い歓声と拍手が湧き起こった。
「あ、今三葵のことかっこいいって思った? 気持ちは分かるけど、好きになっちゃだめだからね。三葵はみんなの憧れのままにしようって決めてあるんだから」
隣にいた女子生徒がいたずらな笑みを浮かべてそう言った。
学校とは恐ろしい場所だと思う。こうして感情のコントロールによって争いを回避するという革新的な実験が行われている。思うままに行かないからこその感情だというのに。
跳び終えたミツキは、他の男子たちに「インターハイ行けるんじゃね」とか「どうやったらそんな飛べるんだよ」とか言われて取り囲まれていた。私と違って、それを厄介がらずに爽やかな表情で応対する様子を見ていると、渋谷で見た悲しげな表情は見間違いだったんじゃないかと疑いたくなってくる。
体育教師がミツキの観客と化した女子たちを呼び戻そうとする声が聞こえる。戻らなきゃ。そう思って背を向けた時、後ろからミツキの声がした。
「さっきの見てたよー! 藤沢さんもすごいね」
見られて、たんだ。
一瞬足が止まる。『擬似人格プログラム』の感情がざわつく。
この学校の人たちは私がヒューマノイドであることを知らない。まるで人間と同じように接してくる。ケンスケや、ヨシハラとは違うやり方で声をかけ、気を遣ってくる。だから、適切な応答方法が分からなくて、困る。
いっそ、「私は潜入捜査をしているヒューマノイドです」と公表できたら余計なことを思考する手間を省けるのに。
私は更衣室というものが苦手だった。
一人一人が撒き散らす制汗スプレーの匂い。同性しかいない密室だからこそ盛り上がる、女の子たちの恋の話、あるいは愚痴の話。何もかも情報過多で、まともに情報処理をしようと思うとそれだけで1日のバッテリーを30%以上を消費してしまう。
だから私は、なるべく早く抜け出して教室に戻ることにしていた。汗をかくわけでもないし、更衣室じゃないと話せない話題があるわけでもない。ただ着替えて戻るだけ。ヒューマノイドにとってはごく当たり前の感覚だったが、彼女にとってはそうでなかったらしい。
私は3年1組の教室の手前で立ち止まった。教室の中に生体反応を検知したのだ。誰かがもう戻ってきたのだろうか。いや、女子の中では私が一番早かったはず。
物音を立てないようにして、教室の中を覗いてみた。見慣れない人影……他のクラスの女子生徒だろうか。彼女は誰かの机の中をごそごそと漁っていた。あれは確か、ミツキの席だ。
「何しているの?」
すると女子生徒はゆっくりと振り返った。
「げ。こんな早くに戻ってくるヤツなんているんだ。あんたちゃんと汗拭いたの? フケツだなぁ」
そう言って彼女はからかうようにけらけら笑った。傷んだ金髪のウェーブがかったボブに、耳たぶの隙間を埋め尽くすように刺されたピアス。
彼女は確か……。以前在校生データを参照した時の記録を呼び起こす。
ヘンミ・チャコ。三年八組──生徒たちの噂によると、真面目な生徒たちの受験勉強を阻害しないよう問題児ばかりを寄せ集めたクラス──に在籍。
親は不動産関係。クラスは違えど、彼女についての噂は教室内でも何度か聞いたことがある。中等部の時は暴力団の息子の彼氏がいたとか、夜遊びをしているとか、違法薬物を吸っているとか。根も葉もない噂ばかりだったが、宝星学園の生徒たちにとって彼女が触ってはいけない腫れもののような存在であることはあらかじめ把握できていた。
「あんた、藤沢ユウだっけ? 最近一組に入ったばかりの」
彼女はミツキの机から離れると、短いスカートをなびかせながら私の方に近づいてきた。
「私の質問に答えて。あなたはミツキの机で何をしていたの?」
チャコはへらりと笑うと、「マジメか」と肩をすくめる。
「あいつの弱みを探っていた……って言ったらどうする?」
「ミツキに伝えるよ」
するとチャコはぷっと吹き出した。
「伝えてどうすんの。三葵くん親衛隊アピールでもしたいわけ? ……言っとくけど意味ないから、それ。あいつ絶対気にしないよ。だってあいつ、あたしが弱みを握ろうとしてること知ってるだろうし」
「……どういうこと?」
すると、彼女は小柄な身体からミツキの机に向かって力強い蹴りを繰り出した。机が倒れ、耳障りな金属音が静かな教室に響く。机の横にかけられていた、りんごの入ったビニール袋が床に落ちる。
だが、それだけだった。
ミツキの机の中には何も入っていなかったのだ。他の生徒はたいてい教科書や文房具を机の中に入れているのに、ミツキの場合は筆箱一つない。まるで、あらかじめチャコに漁られることを予期していたかのように。
「あなたは……ミツキの弱みを探って何がしたいの?」
返事の代わりに、チャコはにやりと口角を釣り上げる。だが、その目は笑っていなかった。私の方を見ているようで、どこか虚ろな目。彼女の表情が示す感情を認識できない。
私の処理が滞った一瞬の隙に、チャコの顔がぐいと迫ってきた。高校生にしては主張の強い、人工的で甘ったるい香水の匂いがした。
耳元で彼女の声が小さく響く。
「あんたも気をつけた方がいいよぉ。バカでも知ってるでしょ? 綺麗なバラにはトゲがある。あいつに近づきすぎた人間は……」
一瞬口をつぐんだかと思うと、耳障りな甲高い笑い声が響いて、私はすぐさまマイク感度を落とした。
「あははははは……! びびった? ねぇ、びびったの? うん、その方がいいよ! この学校で楽しく過ごしたいんなら、なんでも知りすぎない方がね!」
彼女は再び高い声で笑うと、私の肩をぽんと叩いて教室を出て行った。
チャコの足音が廊下の向こうに消えていく。誰もいない教室で、私は倒れているミツキの机を元に戻した。辺りはしんと静まりかえっているが、私の中ではチャコの声が何度もリフレインしていた。
この学校の中でミツキに対する嫌悪感に出会うのは初めてだった。生徒も、教師も彼のことを慕っている。私が初日に出会った不良たちでさえ、ミツキを嫌悪しているというより、一目置いているという態度に近かった。
だけどチャコは違う。彼女の態度から認識できる感情は、ミツキに対する「嫌悪」「不信」、そしてミツキを慕う者たちに対する「軽蔑」。
何が彼女をそうさせるのだろう。
床に転がったりんごを拾い、ビニール袋に入れ直すと、チャコの香水とは違う自然の甘い香りが漂ってきた。そういえばミツキはりんごばかり食べている。彼を見ていると欠点はほとんど見当たらないが、一つ明らかに言えるとすれば偏食家なところだ。昼休みはりんごばかり食べていて、他のものを食べている印象がなかった。
初めて会ったあの時も、りんごを食べていたんだっけ。
……あれ?
私は自分の頭に浮かんだ言葉に違和感を覚えた。
「あの時」って、いつ?
私は自分の中のメモリを遡る。確かミツキと出会ったのは私が不良に絡まれていた時で、その時は彼は何も食べていなかった。記録が欠けているのか?
私は自分のワイズウォッチを見る。
そうだ、この中には私が体験したすべてが記録されているはず。レベル2の中身を確認すれば──
──────────
実行中のプログラムを強制終了
最優先プログラムの実行モードに移行開始
プログラムコード:
File date 2030/04/01
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──────────
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