2-6. File date 2030/04/01



***



「えっ……それって、今までのP-SIMは使えないってことですか?」


 私が尋ねると、区役所の受付のお姉さんは申し訳なさそうな顔を浮かべて頷いた。


「はい、海外版のP-SIMは国内版のものと規格が異なるため、政府の個人情報管理データベースと連携することができないのです。P-SIMを海外で発行された方には、帰国時に国内版にデータ引継ぎをしていただく決まりになっておりまして」


「データ引継ぎってだいたいどれくらいかかるんですか?」


「そうですね……」


 お姉さんは卓上カレンダーを持ち上げて、ペラペラと月をめくっていく。1枚、2枚、3枚……


「早くて3か月、長くて半年ほどでしょうか」


「そ、そんなにかかるんですか?」


「データ引継ぎ自体にお時間をいただくというのもありますが、どちらかといえば国内版は生体認証キーの暗号化に時間がかかるのです。P-SIMのセキュリティ強化のためですのでご了承いただけないでしょうか」


「分かりました……手続きを進めてください」


 「ご了承」も何も、他に選択肢がないのは子どもの私でも理解できていた。久々に聞く家族以外の人が話す日本語は、英語に比べてずいぶん回りくどくて、集中して聞いていないと趣旨を履き違えてしまいそうだ。


 私は自分のワイズウォッチからP-SIMを取り出して、受付のお姉さんに手渡した。


「ちなみに、データ引継ぎが終わるまではP-SIMなしで生活することになるんですか?」


「いいえ、代わりにこちらをお渡しする決まりになっています」


 そう言ってお姉さんは銀色のチップを見せてきた。P-SIMと形は同じだが、色だけ違う。


「こちらは『仮想P-SIM』と言います。本来は観光地のナビゲーションロボットなど、P-SIMを持たない機械のインターネット通信のために使われるものです。データが全くない状態で使うのも不便でしょうから、あなたの海外版P-SIMに記録されていたレベル0、レベル1の全データと、レベル2の過去3年分に絞ったデータをコピーしています」


 私は渡されたチップを自分のワイズウォッチに差し込んでみた。いつも通り、自分のアカウントが起動してデータを確認できる。ただ、確かにレベル2だけはデータ量が減って過去3年分だけになっていた。すべてコピーしようとするとデータ量が膨大で時間がかかってしまうそうだ。


「仮想P-SIMって、通常のものと何が違うんですか?」


「一番の違いは、生体認証キーによるロックをかけることができない点です。つまり、この仮想P-SIMが盗難に遭った場合、記録されたデータは誰でも見ることができてしまうということです」


 その説明を聞いて、私は自分の顔から血の気が引いていくのを感じた。


「そ、そんなの困ります! それだったら仮想P-SIMなんて無い方がマシです」


「お気持ちはわかりますが、国内に居住する方は例外なくP-SIMによる記録を取る決まりになっておりますので……それに、万が一の時の対策がないわけではありません」


 そう言ってお姉さんは小さな封筒を取り出した。


「この中に仮想P-SIMの初期化キーが入っています。通常のP-SIMは記録を削除することはできませんが、仮想P-SIMはロボット同士で使い回すこともあるため、初期化を行うことができるようになっているんです。紛失された際は、ブラウザ上から仮想P-SIMサーバーにログインしてこの初期化キーを入力してください。そうすれば誰かに覗かれる前にデータを削除することができます」


 こちらが注意事項です、と言ってお姉さんは受付のディスプレイに仮想P-SIM初期化のやり方と、初期化した際に何が起きるかを説明した図を映し出した。


 初期化キーを入力することで、どこからでもデータをクリアにすることができる。ただし、消えるのは仮想P-SIM上のデータだけではない。


「例えば私が誰かにメッセージを送っていた履歴があったとしたら……初期化すると、相手側に届いているメッセージも消えてしまうってことですか?」


「そうです。アカウントが消えるということは、ということですから」


 淡々と話すお姉さんのその言葉に、私はなぜだかゾッと背筋が冷えるような気がした。


「なるべく初期化キーを使う機会が来ないように、大事に管理した方がいいってことですね」


「はい、その通りです。……それと、こちらも記入いただく決まりになっておりまして」


 仮想P-SIMの説明ですでにだいぶげんなりしていたけれど、お姉さんが新しく見せてきた書類に私は思わずため息を吐きそうになった。


 書類にはびっしりと細かい字が連なっていて、一番下に私が直筆でサインしなければいけない箇所がある。


「……これは?」


「仮想P-SIMを一時的に所有するにあたっての誓約書のようなものです。特に留意いただきたいのは、ご自身のP-SIMが発行されたら必ず仮想P-SIMを返却いただくことと、仮想P-SIMを他人に勝手に譲渡しないこと、ですね。これに違反すると犯罪になりますのでご注意ください」


 口の中にじわりと湧いた唾を飲み込む。


 はぁ、もう、ついてない……。P-SIMを更新するだけでこんなに手間がかかるなんて……。


 仮想P-SIMがセットされたワイズウォッチの文字盤を眺める。もうすぐお昼の時間……ああ、初日なのに大遅刻だ。






 区役所を出た頃、ワイズウォッチに着信が来ていた。下宿先の親戚のお兄さんからだ。


「……うん、うん、だから大丈夫だって。面倒だったけどP-SIMの手続きもできたし……。え? 勉強? そんなに心配しなくてもなんとかやっていけるよ。前にいた学校よりはハードル低いっていう話だし。……うん、うん。忘れ物もしてないってば。ほら、もう学校の前に着いちゃった。切るからね」


 半ば強引に通話を切る。


 ちょっと悪いことしちゃったなとは思う。お兄さんはすごく心配性で、ことあるごとに私に連絡してきてくれる。それ自体が嫌なわけじゃない。むしろ嬉しい。今までこんなに誰かに気にかけてもらったことなんてなかったから。


 小さい頃からパパとママはいつも忙しくて、私はあの人たちの足を引っ張らないようにするのに必死だった。できるだけ泣かない子どもでいようとしたし、小学校では一度も宿題を忘れなかった。猫を飼いたいと思った時もあるけど言い出さずに我慢した。


 そしていつしか私は「手のかからない優等生」になった。


 家族の間で交わされる会話はだんだん業務報告みたいに上辺だけのものになっていって、私たちはお互いが本当に何を考えているのかわからないし、触れようともしない関係になっていった。


 だから、お兄さんの気遣いは余計にむずがゆいというか、彼の優しさをどう受け止めたらいいのか分からなくて、ついついこんな態度を取ってしまう。


 私ってほんと、昔からかわいくないんだ。


 目の前には豪勢な石造りの校門がそびえていた。ここが、今日から通う学校。東京で名前を知らない人はいないほど名門の私立で、お金持ちの人がたくさん通っている。そんな学校に通うなんて恐れ多い感じがしたけど、ママは私の意見を聞くより先にさっさと編入手続きを済ませてしまった。


 それはきっと、私のためというより、親としての世間体のため。


 パチン。私は自分の両頬を叩いた。


 もう気にしないって決めたじゃない。


 勇気出してママたちの元を離れて、10年以上ぶりに日本に帰ってきたんだ。新しい場所でお友だちを作って、自分が将来やりたいことを自分で決める。そのためにここに来たんだ。


 ぎゅっと拳を握って、校門をくぐる。


 名門私立なだけあって、敷地は海外の学校に引けを取らないくらい広かった。


 中等部の校舎はどっちだろう。


 校門のところにいた守衛さんに聞いてみようとしたけど、お弁当を食べる時間みたいで申し訳なくなってやめておいた。


 校内案内図を確認して、中等部の校舎を目指して歩く。途中ですれ違う生徒たちはみんな高そうな私服を着ていて、どこか大人びて見えた。中高一貫の学校だから、今のは高校生だったかもしれない。


 そんな風に周りに気を取られていたら……いつの間にか方向感覚が分からなくなっていた。


 確か校門から右側に進んで四番目の建物を奥に入った場所だったと思うのだけど、どれが何番目だったかもうわからなくなってしまった。


「おーい」


 最初は自分が呼ばれているとは思わなかった。


 だけど、何度も呼びかけてくるので、私は声がする方を見上げてみた。校舎の屋上に誰かいる。


「君、もしかして編入生ー? 迷っているなら案内してあげる、ちょっとそこで待ってて」


 そう言ったかと思うと屋上の人影は消え、しばらくして近くの校舎の中から一人の男の子が出てきた。


 彼と目が合って、私は思わず誤魔化すように別の方向を見た。


 さっきは屋上にいたから顔がよく見えなかった。でも、今は目の前にいるから分かる。


 バランスの良い顔立ちで、ぱっちりと開いた瞳。マスカラをつけているのかと思うくらい長いまつ毛。癖のない黒い短髪。


 思わず見とれてしまうくらい、綺麗な顔の男の子。


「あれ? もしかして僕の勝手な勘違いだった……?」


 男の子が不安げに言うので、私は首を横に振って視線を元に戻した。すると、私が目をそらしたことなど気にしていないかのように、彼は優しく微笑みかけてきた。


 胸が、飛び跳ねそうになる。


「あ、やっぱりそうだ。先生から写真見せてもらってたんだよね。君が今日から3年1組に来る子でしょ?」


「そう、だけど……」


 すると彼はにっと笑った。


 彼が笑うと、甘い香りがした。ほんのり爽やかな、みずみずしい蜜の香り。


「りんご?」


 私がたずねると、彼は驚いたように目を丸くした。


「あれ、もしかしてバレた? さっき屋上で食べてたんだ」


「え、りんごを?」


「うん、弁当なんだ」


 彼がまじめな顔で答えるので、私は思わず吹き出してしまった。こんなお金持ち学校なら、みんな高級食材を使った豪華なお弁当を食べているんじゃないかなって勝手に想像していた。それが、早くも裏切られて、なんだか気が抜けてしまったのだ。


「へ、変かな……周りからもよく言われるんだ、偏食家だって」


 気まずそうに頬をかく男の子。気を悪くしてほしくなくて、私は首を横に振った。


「ううん、変だとは思わないよ。私もりんご好きだし」


 私がそう言うと、彼はほっとしたような表情を浮かべた。人懐っこくて、男の子なのにどこか可愛らしい笑顔。かっこいいというよりも、ちょっと羨ましくなってしまった。こういう素直な表情を浮かべられる人が、眩しい。


「そっか、なら気が合いそうだ。僕は同じクラスの中條三葵なかじょうみつき。これからよろしくね」



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